ニュース 武昌蜂起 辛亥から十年 辛亥人物 孫文と日本 写真年表
 
辛亥人物

孫文(そんぶん)(1866〜1925)、広東省香山(現中山市)出身

幼少時は農作業に従事、14歳で米国留学。帰国後、マカオで医師として開業。当時の清朝政府の腐敗、庶民の貧困を目にして、医師を辞めて政治活動を始めた。滞米中に興中会を組織、暴力革命を計画。1895年、清朝に指名手配され、海外へ亡命。1905年、日本で黄興と知り合い、「中国同盟会」を創設、『民報』を創刊、初めて三民主義を提唱した。その後、数回の蜂起失敗を経験、武昌蜂起で勝利した。1912年、中華民国の臨時大総統に選出されたが、皇帝退位の交換条件として、ほどなく袁世凱に譲り渡した。その後、袁世凱と段祺瑞が共和を放棄したため、護国運動と護法運動を起こし、民国の国体を極力保護しようとする。1925年、北京で病死。

袁世凱(えんせいがい)(1859〜1916)、河南省項城出身

宦官の家に生まれ、1881年、軍隊に入った。1895年から、清朝の命を受け、新軍の訓練に携わった。1898年、西太后に協力、立憲君主派の譚嗣同らを殺害し、次第に北洋集団を育成。武昌蜂起後、清朝に帝制維持を託されたが、「満族を利用して革命派を困らせ、同時に革命派の勢を張って朝廷に迫る」という作戦で、結局、皇帝を退位に追い込み、孫文を辞任させ、自ら民国の初代大総統になった。1915年、皇帝を称したが、完全に人心を失い、翌年6月、北京で病没。

熊秉坤(ゆうへいこん)(1885〜1969)、湖北省江夏(現武漢市)出身

1904年、湖北で軍に入る。その後、日知会、共進会など革命組織に参加、共進会の工程第8営の分隊長を任じ、秘密裏に200人余の会員を勧誘。1911年10月9日、孫武らが蜂起計画を暴露した後、即断で翌10日夜に楚望台の武器庫襲撃を決定。同夜、彼は呼子を吹き鳴らし、空に銃弾を3発発射し、革命派を率いて楚望台を急襲、武器庫を占拠。一晩の激戦を経て、湖広総督府を占拠。1カ月後、15の省が次々と独立を宣言、清朝統治を徹底的に崩壊させた。

黄興(こうこう)(1874~1916年)湖南省善化県(現在長沙市)出身

22歳で科挙の秀才に合格、1898年に武昌の両湖書院に入学し、「新学」に触れた。1902年に日本へ公費留学し、反清革命運動に身を投じた。1903年に帰国後、『革命軍』などの革命活動家の書籍を配布するなど、革命の準備活動に従事したため、湖北省を逐われ、湖南省へ戻り教員になった。同年11月に「華興会」を組織し、西太后の70歳の誕生祝賀式典が催された時、式場に集まる湖南全省の要人全員の爆殺を計画したが、事前に露見して、失敗に終わり、日本に亡命した。1905年に孫文と結び、彼と一緒に「中国同盟会」を組織し、副主席となった。これにより、孫文とともに民国革命の双璧と称される。その後、何度か蜂起したがいずれも失敗し、武昌蜂起で初めて成功した。中華民国の成立後、袁世凱を武力討伐しようとする「二次革命」を発動したが敗れ、再び日本へ亡命した。1916年に袁世凱の死後、上海へ戻り、間もなく病死した。

黎元洪(れいげんこう)(1864〜1928)、湖北省黄陂出身

少年時代に、父親に従って軍に入った。その後、天津の北洋水軍学堂に入学、艦船と海軍について学んだ。広州で兵役につき、「広甲」号艦の水兵として北洋水軍に編入された。1894年、中日海戦の後、陸軍将校に転身。1896年、湖北に転任、新軍の訓練に当たり、その後、三度日本へ行き、軍事を視察。1911年、武昌蜂起で革命派に督促され、湖北軍政府の都督に就任、それ以来、革命に身を投じ、最初の蜂起の元勲となった。袁世凱が失脚した後、大総統に就任したが、張勲の帝制復活により辞任。1922年、再び大総統を務めたが、大総統選挙の時、曹錕にやぶれ下野。それ以来、政治を離れ、実業に専念した。晩年、鉱業に多額の投資を行った。1928年、天津で逝去。

林覚民(りんかくみん)(1887〜1911)、福建省閩侯(現福州市)出身

14歳で全閩大学堂に入学。『蘇報』『警世鐘』などの進歩的な書籍や雑誌を愛読、学生運動を指導し、演説が得意だった。その後、日本へ留学、同盟会に加入。1911年初め、黄興らが発動した広州蜂起に参加。蜂起の前、ハンカチに有名な「妻との決別書」を書き留めた。国家と民衆を苦難から救いたいという「大愛」を前にして、妻に対する個人的な「小愛」を捨てざるをえないという革命精神を吐露した。1911年4月27日、彼は先頭に立って戦い、被弾し、捕らえられた。尋問の祭、清の官吏に帝制を捨て民主へ向かおうと力説したが、結局、清朝政府によって殺害された。広州市の黄花崗72烈士霊園に埋葬された。

蔡鍔(さいがく)(1882~1916年)湖南省宝慶県(現在邵陽市)出身

15歳で維新派人士が創建した時務学堂に入学し、梁啓超に師事、その後日本に留学した。1900年に帰国し、自立軍蜂起に参加したが敗れ、再び日本に赴き、軍事学を学んだ。卒業して帰国後、相次いで江西省、湖南省、広西省などで新軍の教官を務めた。武昌蜂起が勃発すると、これに呼応して蜂起し、雲南省の独立を宣言した。民国初年、袁世凱に幻想を抱き、北京に赴任した。1915年、袁が皇帝を称したため、雲南に戻り、再び雲南省の独立を宣言し、袁討伐のための護国軍を組織した。困難に満ちた戦闘中に、結核に冒され、福岡で治療を受けたが、病状が悪化し、1916年に死去した。

宋教仁(そうきょうじん)(1882~1913年)湖南省桃源県出身

読書人の家に生まれ、愛国心に富んでいた。1904年に黄興とともに「華興会」を創設した。その後、家産を売り払って蜂起計画に資金援助したが、計画が清朝当局に露見し、失敗したため、日本に亡命した。中国同盟会成立後は、同会の要職に就いた。日本では相次いで法政大学と早稲田大学に入学し、政治、法律制度、議会制の研究に打ち込んだ。武昌蜂起発生後、宋は革命の支援に奔走した。彼の努力により、江蘇省、浙江省などでの革命派が蜂起を宣言した。袁世凱が政権を横取りし、共和制を放棄した後、政党内閣制を提唱した。袁の権勢を恐れず、金銭や官職の誘惑にも動揺せず、1913年3月20日、組閣のために北京へ向かう途上、上海駅頭で暗殺された。

梁啓超(りょうけいちょう)(1873~1929年)、広東省新会出身

17歳に科挙の挙人になり、「嶺南奇才」と呼ばれた。1890年、康有為に師事した。1895年、中日『馬関(下関)条約』締結後、康有為とともに数千人の挙人を動員して、連名で変法を求める陳情書を提出した。1898年、光緒帝は新政を敷くことを宣言し、康、梁を重用した。後に、西太后の抑圧を受け、2人は日本に亡命した。日本では、梁は孫文と緊密な関係を築き、革命に賛同する意を示したが、康の影響を受けて再び保皇派に向かった。辛亥革命後、一時袁世凱に協力したことがあるが、後に民国を守るために、蔡鍔と手を組んで袁を討伐した。1917年、張勲が帝制を復活させようとしたが、梁は討伐活動に参加し、「共和再建」を図ったため、康との決裂が公然化した。第1次世界大戦後、梁啓超は欧州旅行をし、西洋文明に幻滅し、以後、国学の普及に専念した。1929年に北京で死去。

蔡元培(さいげんばい)(1868~1940年)、浙江省紹興出身

24歳に科挙の進士になり、1894年から西洋の学問に触れ、立憲君主派に同情的だった。1898年、立憲君主派の変法が失敗し、官職を捨てて教鞭をとり、新学を提唱し、さまざまな団体を結成した。1904年に光復会を結成、1905年に同盟会に加入。1907年にドイツに留学、心理学、美学、哲学などを勉強した。辛亥革命後に帰国、南京臨時政府の教育総長に就任した。西洋の学制を提唱したり、男女共学を実施し、近代的な教育体制を確立させた。その後、北京大学の学長を務め、「思想の自由、包容力の尊重」を唱え、校風を一新させた。それによって、北京大学が新文化運動の発祥地になった。

段祺瑞(だんきずい)(1865~1936年)安徽省六安市(現在肥西県)の出身

1889年にベルリン軍事学校に公費留学し軍事学を学んだ。1895年、天津で袁世凱の新建陸軍に入り、袁の北洋軍編制拡大を支援した。武昌蜂起の時には、袁の内意を受けて革命勢力を抑圧し、その後、宣統帝に退位を迫った。1916年、袁が死去すると、国務総理兼陸軍総長に就任し、組閣した。在任中は、清朝復古のクーデターを起こした張勲を討伐、パリ講和条約に署名することを主張した。河北派、東北派の軍閥と戦い、国民の愛国運動を鎮圧した。1936年に上海で病死。

 

 

人民中国インターネット版 2011年10月10日

 

 

 
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