普通院(写真⑧)
五台山から南の道路沿いには、たくさんの普通院がある。この道が、省都から五台山へ向かう主要な巡礼路であったからだ。一棟だけの仏堂の上にそびえ立つ立派な松の木を見て、この小さなお寺には長い歴史があるに違いないと、私は想像した。数世紀にわたって巡礼者たちは、ここで雨露をしのいだことだろう。高い嶺を背にしたこの遠景に感動した私は、イメージを壊さないために、近づき過ぎないことにした。円仁が訪ねた「聖鐘谷」はこの近くであった。巨木の根元が岩窟になっていて、ときどき鐘の音が響いたので、「聖鐘窟」と呼ばれていた。円仁は「鐘の音が響くと山の峰が振動した」と書いている。
槐の樹(写真⑨)
尊勝寺が円仁の描いたそのままに、いまも思陽嶺の上に残っているのには驚いた。道路からその塔の位置を知ったとき、この場所で唐の時代に結びつくものなら、どんなに僅かな痕跡でも調査しなければならないと思った。この堂々たる槐の樹は、間違いなく円仁を出迎え、旅人たちに夏の日差しをさえぎる木陰を与えたことだろう。円仁は日記の中で、この寺がなぜ重要かを説明している。676年、高名なインド僧であり、仏典を漢語に翻訳した仏陀波利が、仏教教義について講義したのがこの場所であったのだ。
唐代の陀羅尼経石柱(写真⑩)
円仁は、貴重な仏頂尊勝陀羅尼経が彫ってある、この特別の石経幢の由来を語っている。この仏頂尊勝陀羅尼経は、インドの高僧仏陀波利によってサンスクリットから訳されたものだと、円仁は書いている。説話によると、老人の姿に身を変えた文殊菩薩が、仏陀波利にインドからこの経を持ってくるよう命じたという。仏陀波利が地面にひれ伏している間に、老人の姿は消えていた。仏陀波利は、これは文殊菩薩に違いないと悟った。寺の名前尊勝寺は、この尊勝経から取ったものである。
道端の古木(写真⑪)
かつて円仁が歩いたのと同じ道をたどっていると、何やらただならぬものが視界をかすめ、私はただちに車を止めた。それは唐代から生き続ける楡の古木だった。その幹周りの巨大なこと! しかしそれよりも、古城村の村民がその幹を赤い提灯や鏡やリボンで飾り立てていたのだ。それはもう大変なけばけばしさで、私はすっかり気に入ってしまった。840年に円仁一行がこの道を通り過ぎたときには、ごく普通の若木だっただろう。しかしいまや、貴重な時代の証人となっている。
そこを過ぎると田舎道は新しい高速道にぶつかる。信じられなかった。ほんの少し前まで、私は霊境寺のある中世さながらの村で、同じように中世そのままの生活に接していたのだ。次の瞬間には時速100キロで突っ走っていた。信じられない時の揺らぎに新旧が交錯し、唐の時代から21世紀へとタイムスリップしていた。円仁は1日32キロ前後をやっとの思いで踏破した。私は彼が12日間かけて歩いた道のりを半日で追い越すことができたのである
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阿南・ヴァージニア・史代 米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。
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人民中国インターネット版
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