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厚道

「厚道」という中国語の含意

 

契诃夫说:有教养的不是吃饭不洒汤,而是别人洒汤的时候别去看他。有一个相似的美国俗语说:犯过错不是稀奇事,稀奇的是别人犯错的时候别去讥笑他。

チェーホフは、「教養人というのは、食事の時にスープをこぼさない人のことではなく、他人がスープをこぼしてしまった時に、わざわざ見ない人のことである」と言う。これと似たような米国のことわざに、「間違いを犯すのは珍しいことではない。珍しいのは他人が間違いを犯した時にその人をあざ笑わないことだ」というものがある。

 

“别去看他”和“别去讥笑他”是一种做人的风范,在中国叫做“厚道”。

「見ないようにする」も「あざ笑わないようにする」も、人間としての立派な態度で、中国では「厚道(温厚である、誠実であるなどの意)※1」と呼ばれる。

 

 厚道不是方法,虽然也可以当方法训练自己。它是人的本性。厚道之于人,是在什么也没做之中做了很大的事情,契诃夫称之为“教养”。如果美德分为显性与隐性,厚道具有隐性的特征。

「厚道」は方法として自らを訓練することはできるが、方法ではない。これは人間の本性である。「厚道」は人にとって、何もやらないことによって大きなことを成し遂げるものであって、チェーホフはこれを「教養」と言った。もし美徳に明らかなものと隠れたものがあるとすれば、「厚道」は隠れた特徴である。

 

 厚道不是愚钝,很多时候像愚钝。所谓“贵人话语迟”,迟在对一个人一件事的评价沉着,君子讷于言,尤其在别人蒙羞之际,“迟”的评价保全了别人的面子。真正的愚钝是不明曲直,而厚道乃是明白而又心存善良,以宽怀给别人一个补救的机会。

「厚道」は愚鈍ではないが、多くの場合、愚鈍のように見える。いわゆる「貴人の話は言葉が遅い」であり、一人あるいは一つの事に対する評価が冷静なために遅く、君子は言葉に慎重で、ことに人が辱めを受けている際には、「遅い」評価によって人のメンツを保つことができる。本当の愚鈍とは、正しいことと間違っていることの区別がつかないことだが、「厚道」とはそれが分かり、さらに心根が善良で、広い心で人に挽回のチャンスを与えるものである。

 

 在人际交往上,厚道是基石。它并非一时一事的犀利,是别人经过回味的赞赏。处世本无方法,也总有一些高明超越方法,那就是品格。

人との付き合いにおいて、「厚道」は基本となる。それは一時、一事の鋭利さではなく、人が回想して賞賛するものである。処世術にはもともと方法などは存在しないが、方法を超越する賢明さはいつだって存在するもので、それこそが品格というものである。

 

 厚道的人有主张。和稀泥、做好人,是乖巧之表现,与“厚”无关。无准则、无界限,是糊涂之表现,与“道”无关。厚道的人也有可能倔强,也可能不入俗流,宁可憨,而不巧。

「厚道」な人には主張がある。迎合する※2、いい人ぶるなどというのは人に取り入る方法に過ぎず、「厚」とは無関係である。無原則、無限界は間抜けなやり方であり、「道」とは関係がない。「厚道」の人はまた頑固かもしれず、俗物にまみれず、むしろ愚かで不器用なのかもしれない。

 

 厚,是长麦子的土壤之厚,墙体挡风之厚。厚德而后载物,做人,到达这样的境界,已然得道。

「厚」は、麦が育つ土壌の厚みであり、風を遮る塀の厚みである。徳を厚く積んですべての物を受け入れる。人として、そのような境界に達したならば、すでに「道」を得たものであると言えよう。

 

(作者:鲍尔吉•原野 摘自《读者》2006年第13期)

(作者:ボルジギン・原野 『読者』2006年第13号掲載)

 

 

翻訳上の工夫

 

作者は1958年生まれの蒙古族の作家。81年より作品を発表し始め、代表作に短編集『酒到唇辺』『善良是一棵矮樹』など。

※1.この文章のタイトルであり、キーワードともなっている「厚道」は、日本語では使われない言葉だが、後半部分に「厚」や「道」という言葉を使って説明しているので、中国語をそのまま残し、カッコ内に日本語の意味をつけることにした。

※2.中国語の「和稀泥」とは、原則なく折り合いをつけようとしたり、物事を丸くおさめようとしたりすることで、批判的ニュアンスを持つことが多いため、「迎合」と訳した。

 

 

 

 

人民中国インターネット版 2014年3月

 

 

 

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