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「縁」と私と人間関係

 

中山 一貴

「縁があったらまた会おう。」

日本人もよく使う「決まり文句」だが、中国人にそう言われると何故か本当にまた会えそうな気がするし、実際にまた会えてしまうことが多いから不思議である。例えば私が中国西北の地、敦煌を旅していたとき、浙江出身の中国人と意気投合し彼と2週間に渡り新疆ウイグル自治区を巡ることとなった。旅が終わり彼と別れを告げ、私は「一期一会とは正にこのことだな」と思っていた。ところが数カ月後、彼の仕事の配属が私の留学先であった北京に決まり、すんなりと再会を果たしてしまったのだ。「さようなら」の中国語は“再見”。「再び見る=会う」という意味だ。私の目に映る中国。それは日本とはどこか違う「縁」を大切にする国である。

中国の縁にまつわる他のエピソードを紹介する前に簡単に自己紹介をしたい。私は高校生活が終るまで中国との関わりがほとんどなく、むしろ日本に対する抗議デモや毒入り冷凍餃子事件のせいか、中国に対する印象は決して良いものではなかった。ところが大学1年生から中国語を学び始め、初めて中国の友人ができ、中国に行って中国に魅せられ、気づけば学生主体の日中交流活動を4年間続けるまでになっていた。「中国のどこが好きなのか?」と尋ねられる度に何から答えればよいか考えてしまうが、数有る理由の中でも今回は私が中国の「縁」にどのようにして魅せられてきたかについて振り返りたい。

「縁」という概念は日本にも中国にも存在するが、日本人と中国人では「縁」に対する捉え方に違いがあるのではないか。そう考えるに至ったきっかけは両国の「お会計文化」の違いに驚いたことだった。私が2012年春に留学で北京を訪れたばかりの頃、学生どうしであるにも関わらず中国の友人に何度もご馳走されてしまい、申し訳ない気持ちになった。始めは外国人が中国に来たばかりだからかもしれないと考えていたが、飲食店でふと周りのテーブルを見渡してみると、中国人どうしの間でも「奢り」が頻繁に行われていたのだ。会計になると皆がいそいそと財布を取り出すという日本の居酒屋などでよく見られる風景は、北京に限らず西安、成都など中国の多くの地域でもあまり見かけることはなかった。

不思議に思った私は何人かの中国の友人に次のように尋ねたことがある。「どうして学生どうしなのにご馳走するのか。日本人の中には自分もお金を出さないと気まずいと感じる人も多い」。それに対して何人もの中国の友人が「ご馳走は友情の印だ。割り勘をするとその場で縁が途切れてしまうように思える」と答えた。にわかに信じ難かったが、実際に中国では「この前はAがカラオケ代を出してくれたから、今回は俺が食事代を持とう」、こうしたやり取りが頻繁に行われていた。「友情の印」の表現が一度限りではなく、その主体を変えながら何度も繰り返される。私は中国人がいかに「縁」を大切にしているかを知り、これまでの自身の人間関係について反省せずにはいられなかった。

中国の「縁」の魅力はこれだけではない。『論語』に「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」という一節があるが、ここで私が中国各地を旅した際に経験した出来事を紹介したい。それは2013年の冬、1年間の留学生活も終わりに差し掛かった頃に私が上海の友人のもとを尋ねたときのことである。彼は食事代はおろか、タクシー代や観光地のチケット代まで全て私の代わりに出そうとしてくれたのだ。筆者は自身の申し訳なさに嫌気がさし、その友人に単刀直入にこう伝えた。「おもてなしの気持ちは本当に嬉しいし、中国では地元にやって来た友人の食事代を持つなどのことが比較的一般的であることも分かっているつもりだ。しかしチケット代まで払ってもらうわけにはいかない」。すると彼は肩を落としながらこう答えた。「日本人が遠慮しがちなのは分かっているつもりだ。しかし『もてなしたい』という気持ちも分かって欲しい」

一見すると「縁」とは何ら関係のない出来事のようだが、私はその後、彼を悲しませてしまった原因を解明するべく「中国版Twitter」と称される“微博”上で簡単なアンケート行った。内容は単純に「なぜ中国人は自身の地元を訪れる友人を徹底的にもてなすのか」というものだ。「次に自分が相手の地元を訪れた際にしっかりもてなしてもらうため」という回答には面を喰らった。しかし私が回答者に対して続けて「日本人は奢られ過ぎると申し訳なく思ってしまうこともあるがどう思うか」と尋ねたところ、「その場でお金を出されてしまうと、その場限りでやり取りが完結してしまい、次がなくなってしまうように思える」と、どこかで聞いたような話である。私は上海で友人に奢られ続け、申し訳なさのあまりに相手の厚意を断ろうとしたが、それは見方によってはその「縁」を一度限りのものにしてしまいかねない行為だったのかもしれない。

中国の「縁」は、表面的な人間関係に甘んじようとする私にいつも喝を入れてくれている。「縁があったらまた会おう」は、もはやただの常套句ではない。

 

人民中国インターネット版 2015年1月

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