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幽人生一默

 人生はユーモラスに

 

 我的剪发师的儿子遭遇车祸,进医院断层扫描,发现脑瘤,立刻动手术切除。

私の美容師の息子が交通事故にあい、病院でCTスキャンをしてみたところ、脳腫瘍が発見され、すぐに手術をして切除したという。

 

 “多走运啊,不撞车不会发现,而且手术费都免了。全由保险公司埋单。”她一边给我剪头发,一边得意地说。

「運が良かったわ。事故にあわなければ発見されなかっただろうし、手術費までタダよ。保険金が下りたから」と、彼女は私の髪を切りながら得意げに言った。

 

 她去医院探视,看见儿子沿着前额发线一圈刀疤。她还叫好:“哇,缝得这么整齐,好像画了个大大的M,可以做麦当劳的广告了。”又说:“可惜可惜。要是换成我出车祸该多好,正好借机会拉皮。”

彼女が病院に見舞いにゆくと、息子の額の生え際にそって、ぐるりと手術跡があった。「あら、こんなにきれいに縫ってあるなんて、大きなMの字みたい。マクドナルドの広告ができるわね」と彼女は叫び、さらに「でも残念。もし事故にあったのが私なら良かったのに。そしたら、これはチャンスとばかり、しわ取り手術もしちゃうんだけど」と言ったそうだ。

 

 我的一位高中老同学也如此幽默。他女儿出生时是兔唇,他痛苦了一阵,心想,再生一个吧。

私のある高校の時の友人も、またとてもユーモラスだ。彼の娘が生まれたとき、兎唇で、彼はしばらく心を痛め、ひそかに、もう一人子どもをつくろうと思った。

 

 但是儿子出生,又是兔唇。同学一边伤心,一边为难,不知该怎么告诉太太。他犹豫再三,还是把孩子抱到床边,说:“可惜,又是兔唇。”

しかし、今度は息子が生まれると、これまた兎唇だった。友人はくさりながらも、どう妻に言おうかと悩んだ。彼はさんざん悩んだ挙句、子どもをベッドのそばに連れていき、「残念、また兎唇だったよ」と言った。

 

 他太太居然笑了,说:“多好啊,这样女儿就不会说我们偏心了。”

しかし妻は笑って、「いいじゃない。娘がえこひいきだと思わなくて」と言った。

 

 同学则说:“是啊,我们有了照顾女儿、为女儿整容的经验,这兔唇的儿子能生在我家多好哇。”

そこで友人も、「そうだね。われわれにはもう、娘を世話し整形した経験があるし、この兎唇の息子は私たちの家に生まれてきてよかったかも」と言ったそうだ。

 

 年轻时不懂什么叫“幽默”,以为幽默就是说笑话,逗得大家狂笑。直到年岁渐长,经历了许多灾祸,留下了许多伤疤,才渐渐了解幽默是“知天命”,晓得自己这一辈子能拥有的和不可能拥有的;幽默也是“耳顺”,好话坏话、爱听的不爱听的,都能逆来顺受。

若い時には「ユーモア」が何であるかを知らず、ユーモアとは笑い話で、みんなを大笑いさせることだと思っていた。年を取るにつれ、多くの災いを経験し、多くの傷跡を残して、ようやくユーモアとは「天命を知る」こと、つまり自分がこの一生で持てるものと、持てないものとを知ること、さらにユーモアとは「耳順う」ことで、いい話も悪い話も、聞きたい話も聞きたくない話も、すべて逆手にとって受け入れることだと、次第に理解するようになった。

 

 幽幽地,不明说;默默地,不多说。人生多少悲愁,都从正面看,认了、接了。不强求、不抱怨,甚至当成身外事,尽付笑谈中。

ほのめかして明言せず、黙々と多くを語らない。人生の悲しみや憂いをすべて正面から見て、認め、受け入れる。強いず、恨まず、自分の災難を他人事のように受け止め、笑いの中に紛れさせることなのである。 

 

 

刘墉《幽人生一默》节选

劉墉 『人生はユーモラスに』より一部抜粋

 

 

 

翻訳にあたっての◆

 

劉墉は1949年台北生まれで、現在米国に居住する作家・画家。文中の「天命を知る」は、天から与えられた使命を悟る、「耳順う」は、耳に聞くことすべてが心にかなうという意味で、『論語』の「五十而知天命(五十にして天命を知る)」「六十而耳順(六十にして耳順う)」に出典がある。(福井ゆり子)

 

 

 

 

人民中国インターネット版  2015年5月

 

 

 

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