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鱼头

魚の頭

 

  在我依稀记事的时候,家中很穷,一个月难得吃上一次鱼肉。每次吃鱼,妈妈先把鱼头夹在自己碗里,将鱼肚子上的肉夹下,极仔细地挑去很少的几根大刺,放在我碗里,其余的便是父亲的了。当我也吵着要吃鱼头时,她总是说:“妈妈喜欢吃鱼头。”我想,鱼头一定很好吃的。有一次父亲不在家,我趁妈妈盛饭之际,夹了一个,吃来吃去,尽是骨头,哪有鱼肚子上的肉好吃?

物心がついたばかりの頃、私の家はとても貧しく、1カ月に1度、魚を食べることができればよい方だった。毎回魚を食べる時には、母はまず魚の頭を自分のおわんに入れ、次に魚の腹の身を取って、注意深くごくわずかな大きな骨を抜き取り、私のおわんの中に入れてくれた。その残りが父のものだった。私が魚の頭を食べたいとごねた時には、彼女はいつも、「ママは魚の頭が好きなの」と言った。私は魚の頭はとてもおいしいに違いないと思った。父が家にいないある時、母がご飯をよそっている隙に魚の頭をつまんでみると、食べても食べても骨ばかりで、魚のお腹ほどにはまったくおいしくなかった。

 

 那年外婆到我家,妈妈买了家乡很金贵的鲑鱼。吃饭时,妈妈把本属于我的那块鱼肚子上的肉,夹进了外婆的碗里。外婆说:“你忘啦?妈妈最喜欢吃鱼头。”外婆眯缝着眼,慢慢地挑去那几根大刺,把鱼肉放进我的碗里,并说:“你吃。”

ある年、母方の祖母が私の家にやって来て、母は故郷のとても高価なサケを買った。ご飯の時、母は本来私のものであるはずの魚の腹の身を、おばあちゃんのおわんの中に入れた。おばあちゃんは「忘れたの? 私が一番好きなのは魚の頭なのよ」と言った。おばあちゃんは目を細めて、ゆっくりと大きな骨を抜き去り、魚の身を私のおわんの中に入れて、「お前がお食べ」と言った。

 

 接着,外婆就夹起鱼头,用没牙的嘴,津津有味地嗍着,不时吐出一根根小刺。我一边吃着没刺的鱼肉,一边想:怎么妈妈的妈妈也喜欢吃鱼头?

続けておばあちゃんは魚の頭を取って、歯のない口でおいしそうにすすり、たびたび1本また1本と細い骨を吐き出した。私は骨のない身を食べながら、どうしてママのママもお魚の頭が好きなんだろうと思った。

 

 而立之年,我喜得千金。转眼女儿也能自己吃饭了。有一次午餐吃鱼,妻子把鱼肚子上的肉放在女儿的碗里,自己却夹起了鱼头。女儿见状也吵着要吃鱼头。妻说:“乖孩子,妈妈喜欢吃鱼头。”谁知女儿非要吃不可。妻无奈,好不容易从鱼鳃边挑出点没刺的肉来,可女儿吃了马上吐出,连说不好吃,从此再不要吃鱼头了。打那以后,每逢吃鱼,女儿总是很认真地用汤匙切下鱼头,放进妈妈的碗里,很孝顺地说:“妈妈,您吃鱼头。”

30歳になった年、私に子どもができた。あっという間に娘は自分でご飯を食べることができるようになった。ある時、お昼に魚を食べ、妻が魚の腹の身を娘のおわんの中に入れ、自分は魚の頭を取った。娘はそれを見て、やはり魚の頭が食べたいとごねた。妻は「いい子にして、ママは魚の頭が好きなんだから」と言った。しかし娘は食べたいと言い張った。妻は仕方なく、魚のえらの辺りから骨のない身をやっとのことで取り出したが、娘は食べるなり吐き出してしまい、おいしくないと繰り返し言って、この時から、再び魚の頭を食べたいとは言わなくなった。そんなことがあってから、魚を食べるたびに、娘はいつでも生真面目にれんげで魚の頭を切り落とし、母のおわんの中に入れ、孝行者の口ぶりで、「ママ、魚の頭を食べてください」と言うようになった。

 

 自此,我悟出了一个道理:女人做了母亲,便喜欢吃鱼头了。

この時から、女性は母親になると魚の頭が好きになるという道理を、私は悟ったのである。

 

  选自《散文》杂志1991年第5期 作者:陈运松

雑誌『散文』1991年第5期より転載、著者は陳運松

 

 

◆翻訳にあたって◆

 

この文章を味わうには、中国における「魚」が日本人のイメージするものとは少し異なることを知っておく必要がある。中国ではごちそうというとまず魚であり、それも大きな川魚をまるまる一匹使った料理であることが一般的だ。それは“魚”という言葉の音が、余裕があることを示す“余”という言葉と同じであるために、めでたい食べ物とされるからである。(福井ゆり子)

 

 

 

人民中国インターネット版  2016年1月

 

 

 

 

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