特集

失われたものと生まれたものと
新しい三峡を点描する


于明新 劉世昭 高原 張雪

 完成すれば、堰堤の高さ185メートル、世界一の発電量となる三峡ダム。昨年10月27日、貯水の水位が156メートルに達した。これは、三峡ダムが洪水防止と発電、航運の機能を本格的に発揮し始めたことを意味している。

 三峡ダム建設のプロジェクトは、長江の中、下流域の住民の生活に大きな変化をもたらすばかりではない。危険な早瀬は峡谷の中の静かな湖に変わり、水路が開通して、神農架はもはや秘境ではなくなった。

 蜀に通じた古の桟道や多くの貴重な石刻が水底に沈んだ。水没地帯の住民は、街ぐるみで山の上に引っ越したり、三峡の思い出を胸に異郷へ移住したりした。

 変化しつつある三峡は、喜びと悲しみが交錯している。何かが失われ、そして何かが生まれ、三峡は変貌した。

特集1 新たに生まれた観光スポット

 三峡ダムの堰堤が締め切られ、水位が上昇するのに伴って、これまでは三峡下りの名所であった「小三峡」や「小小三峡」などの急流は、流れが広く緩やかになった。観光客は三峡のさらに奥まで行って、美しい風光を楽しむことができる。また、水位の上昇によって、新しい観光スポットが生まれ、三峡の「新景」は新たな魅力となっている。

水中に博物館をつくる

 「白鶴梁」――これは重慶市フ陵区城北の長江の中にあり、流れと平行して水中にのびる全長1600メートル、幅10〜15メートルの梁状の自然石である。伝説では、爾朱という道士が太守の恨みを買い、竹籠に入れられて水中に投げ込まれた。道士はここまで流れてきて、幸いにも漁師に助けられた。二人は親友の契りを結び、やがて道士は白鶴に乗って去っていった。そこから「白鶴梁」と名づけられたという。

 「白鶴梁」はいつもは水の中にあり、毎年12月から翌年3月までの水の少ない時期だけ、水面にその姿を現す。当地の人々は、長江の水面が冬になって一定のラインにまで下がれば、次の年の気候は順調だと考えた。そこで人々は、「白鶴梁」に魚の絵を彫って標識にし、「石に歴史を刻む」やり方で長江の水位を記録した。

 こうした習慣は、唐の時代から始まり、千年以上続いてきた。石の魚が水面に現れるたびに、人々は長江に集まり、文人墨客は「白鶴梁」の上に次々と揮毫した。これまでに「白鶴梁」上には18尾の石魚が彫られ、1200年間に72回の渇水の年があったことが記載されている。また、計3万余字の文字が彫られ、その中には、黄庭堅、朱熹、王士禎ら著名人の墨跡の石刻もある。

 「白鶴梁」は世界で最初にできた「水文調査所」であり、中国の書道や絵画芸術の「水中の宝庫」であるということができる。

 しかし、三峡ダムの貯水が135メートルの高さに達した後は、「白鶴梁」は40メートルの水の中に、永遠にその姿を消してしまった。そこで、「白鶴梁」を保護し、人々が引き続き貴重な石に刻まれた作品を鑑賞できるように、水面下に水中博物館を建設することが決まった。

 1993年から2000年までに、5つの計画案が検討され、最終的に上海交通大学の葛修潤教授の「無圧容器」案に落ち着いた。この計画案によると、まずアーチ型の長さ70メートル、幅約23メートルの大きな保護の覆いを作り、その外側を鉄筋コンクリートで固める。そして、洗面器を裏返しにするように保護の覆いを水中に沈め、「白鶴梁」の石刻の中でもっとも素晴らしいものをその覆いの内側に囲い込む。さらに覆いの中に浄化した河川の水を注入し、覆いの内外の圧力を平衡させる。こうして石刻が、汚れた河の水に削られるのを防ぐ。観光客はエスカレーターで水面下に降り、覆いの中の透明な回廊から、ちょうど水族館のように石刻を鑑賞することができる。

 水中博物館は2007年上半期に完成する予定だ。

見つかった純白の鍾乳洞

 重慶市豊都の鬼城は、三峡遊覧では必ず訪れる観光スポットの一つである。その独特な「鬼の文化」によって、鬼城は有名な、歴史と文化の小さな鎮となった。

 しかし今、水位が変わったため、豊都付近の景観も変わった。豊都の県城はすでに移転した。鬼城は水没を免れたが、水がすぐ近くまで迫ってきた。その一方で、多くの新たな観光スポットが生まれた。豊都の新県城から十数キロの地点に新たに開発された鍾乳洞の「雪玉洞」もその一つだ。

 1997年の春節(旧正月)、退職した幹部の王成雲さんは、鬼城の対岸にある竜河峡の辺で、偶然に鍾乳洞の入り口を発見した。彼はすぐに仲間を集めて、鍾乳洞の探索を始めた。半月の調査の結果、鍾乳洞の中には多くの純白な鍾乳石があり、洞内は広く、壮観であることがわかった。

 「雪玉洞」は面積は大きくないが、全長1166メートルの参観ルートがすでに開発されている。洞内の景観は「白きこと雪の如く、質の純なること玉の如し」と言われ、「雪玉洞」と名づけられた。

 専門家の分析によると、「雪玉洞」は世界の鍾乳洞の中でめったにない「妙齢の少女」だという。一般に鍾乳洞の鍾乳石の景観は、数万年前あるいは数十万年前から形成される。だから鍾乳石の質は老化し、色彩や光沢は暗いのが常だ。しかし「雪玉洞」の中の景観はだいたい3300年前あるいは1万年前から形成され、あたかも娘盛りのように急速に成長する時期にある。鍾乳洞内の堆積物は純白であるばかりでなく、生長速度が百年で33ミリに達する。これは普通の鍾乳洞の33倍である。

 また、「雪玉洞」は珍しい「白い大理石の彫塑博物館」でもある。洞内の堆積物が造った景観は、さまざまな種類がすべてそろっていて、規模が大きく、形が美しい。その中に、現存する最長の、2.5メートルの「鵞管石」(円管状の鍾乳石)や、きらきらして透き通るような石筍や石柱、紙のように薄く透き通った石のベルト、風を受けてはためく石の旗、大きな迫力の石のカーテン、天から流れ落ちる石の瀑布、巨大な石の盾や塔状の洞窟珊瑚がある。

 これまでは一部の鍾乳洞では、熱を発する光源を採用していたが、これは鍾乳石に損害を与え、多くの鍾乳石が光線によって黒くなり、もろくなるばかりでなく、生態環境にも変化が起きた。これを教訓に「雪玉洞」では、とくに費用のかかる熱を発しない光源を使用し、貴重な景観には保護の覆いをかぶせた。これによって、「雪玉洞」の鍾乳石の質の良さを強調している。

「野人」が出るという神農架

消えた全裸の舟引き人夫

 …… (全文は2月5日発行の『人民中国』2月号をご覧下さい。)

特集2 丸ごと移転した古い鎮
特集3 水の中に沈んだ風景