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婦好墓から出土した鉞 |
「司母」すなわち「シャーマン」は、世界で唯一、中国語で名が付けられた原始宗教で、主に中国の北部と西北部で流行し、ずっと清朝の末まで信仰され、一定の権威性を持っていた。清朝が滅亡した後、南方から来た革命者たちは、これを「封建的迷信」と見なし、「シャーマン」は何度も一掃された。しかし今になっても、北部地区にわずかに存在している。
「司母」の銘文が鋳込まれた大鼎は、女性祭司が生前に使った用具であった。鼎の壁は、大部分が薄く鋳造されているが、外形からは重量感を感じさせる。それは、商代の鼎が神権の象徴であり、実際に使用される機能はなかったことを示している。
商代の鼎は、実際に使われた形跡がない。火にかけられたこともなければ、供え物を盛られたこともない。ある学者はこのことから、鼎は商王が母親のため鋳造した副葬品で、使用されずに埋葬された、と推断した。そこから引き出された「廟号」説も、張光直氏ら現代の学者が、後世の人が編纂した古い書籍をもとに推測したものに過ぎない。
「天干」は、商代では商王が死後に与えた「廟号」ではなく、商王の在世の名前である。例えば、商王「武丁」は、「武」が本名で、「丁」は何番目の子であるかを示す。また「天干」は、在世の司母の名にも用いられる。
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江西省新干県の大洋洲で発見された商代の墓から出土した青銅の甲冑をもとに描かれた商代の女性の総帥のイラスト |
商代の獣面紋は主に「司母」が使う重要な器を飾っている。甲骨文には「女己御獣」という表現があり、これは「司母己」が「天獣」に乗り、天に昇ることを意味し、「司母」と天獣の関係を示している。「司母」が「天獣」に乗るという形は、戦国時代(紀元前475~同221年)の楚の屈原がうたった『九歌』の中の「山鬼」という詩に、ぼんやりとした影を見ることができる。「山鬼」は山中の怪物ではなく、妖しくなまめかしい女神で、人間の男性に恋をしたが、その意を遂げられなかった悲しみを歌っている。
「司母」がかぶっている青銅の兜にも、獣面が鋳造されているが、これは征戦と「天獣」「司母」との関係を示している。すなわち「司母」は天に替わって征戦するのである。
商の時代、「司母」は軍隊を統率する権力を持っていた。それは「司母」の名に、「天の兵」を意味する「天干」が用いられていることからわかる。婦好墓から出土した甲骨文には、はっきりとこのように記載されている。
婦好は、商王の命を奉じて、兵を募集し、数回征戦し、中原を平定した。また大軍を率いて、「巴」を征伐するため、殷(今の河南省安陽)から出発し、黄河を渡り、数千里を長駆、急襲し、長江・漢水流域を攻撃して、ついに巴人を打ち負かした。
これほどの長距離を長駆急襲するのは、兵の募集から兵站の補給まで、古代戦争史上の奇跡というべきだろう。
同様に、江西省新干県の大洋洲で発見された商代の墓の中から出土した青銅の甲冑は、その頭の大きさから、墓の主人は女性の総帥で、身長は155~160センチだったに違いない、と推定される。文字資料が発見されていない「司母戊」も、婦好と同様に天下を征討した総帥に違いない。古代中国で、中原の政権と文字の文明が確立したのは、彼女たちの功績によるものだ。
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「司母辛」方鼎の一部 |
周の武王が商の紂王を打ち破った牧野の戦いで、紂王が敗れたのは、彼に軍事的才能がまったくなかったからかもしれないが、本来ならば女性の総帥が軍を指揮すべき伝統があるにもかかわらず、原因はよくわからないが、女性の統帥が都にいなかった。その結果、軍が出陣する際、コントロールを失い、商王朝は滅亡した。
商代の鼎に鋳造された文字には、神権と兵権の二重の意味がある。「司母」は「女性祭司」であり、いわゆる「廟号」は「天干」の順によって統帥の位が受け継がれた順番であろう。『春秋左氏伝』の中に「国之大事、在祀与戎(国の大事は祭祀と軍事にあり)」とあるが、この名言の起源は、商代の鼎にはっきりと現れている。
周代になると、男権社会になり、当然のことながら女性の手中にあった一切の権力はきれいに一掃された。と同時に、さまざまな礼法が編まれ、婦女を束縛し、女性を男性に従属させた。
そして「天の兵」を意味していた「天干」は、死後に贈られる「廟号」に変わった。また、王の名前に「天干」が用いられることはなくなり、軍事ともまったく関係がなくなったと思われる。(田村=文・写真)

筆者略歴史 1945年、江蘇省生まれ。67年大学卒。河南省外事弁公室、北京人民美術出版社、香港商務印書館に勤務した後、故宮全集出版経理、『敦煌石窟全集』芸術総監に就任。河南鄭州商城遺跡などを考察。主な著作に『北京故宮蔵建安24年銅鏡』など。日本の講談社の『中国旅行』の取材に参加
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