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新中国初のパイロットを育てた 日本人教官たちの「里帰り」

 

友好の気持ちは末永く

 

かつて日本人とともに戦った中国の戦友たちは、日本の「老戦士」の「里帰り代表団」が中国にやってきたと知ると、中国各地から、代表団のホテルに続々とやってきた 
 北京から長春、牡丹江、さらに大連と「里帰り」の長い道中だったが、一行は少しも疲れた様子もなく、愉快に談笑しながら航空学校の忘れがたい歳月を思い起こし、多くの感動的な物語を披露しあった。

 

副団長の山本米子さんは78歳の高齢ながら、非常に元気で、明朗、闊達だった。米子さんは帰国後、ずっと積極的に日中友好運動に参加し、いまも遼寧省本渓市の5人の児童に学費の援助をしている。当時、米子さんといっしょに航空学校で働いていた日本の娘さんたちは、すでに中国の大地に永眠している人もいれば、中国で暮らして80歳近くなっている人もいる。 団員の贊岐文夫さんは、もとは航空学校の機械工場で働き、1958年に帰国した。彼の妻の郁代さんは、もとは人民解放軍第4野戦軍の看護士だった。彼女はこの世を去ったが、遺言により、彼女の遺骨の3分の1を北京に埋葬した。贊岐さんは現在、居を北京に定め、将来は妻とともに北京に骨を埋めるつもりだ。

 

もとは航空学校の修理工場の計器組の組長だった深谷岩光さんは、自分がすでに年をとり、また中国に来られるかどうか分からないと思い、今回はとくに娘の太田文子さんを連れて来た。「以前は、父が中国でしていたことをよく知りませんでしたが、今回の訪問を通じて深く理解することができました。今後は子どもたちが友好事業を継承するよう教育していきたい」と文子さんは言った。

 

広がる友情の輪

 

代表団メンバーの山本真代さんは、航空大学の校史陳列室で、父親が中国の空軍のためにパイロットを養成していた当時の写真を自分の目で見て、ますます誇らしく思った
代表団には医師や看護士、記者が随行していた。こうした人々の協力で「里帰り」は無事に、順調に終わった。

 

日本の古い友人たちはこの訪問の中で、中国人民が古い友人を忘れず、誠心誠意、中日友好の気持ちと願いをしっかり持ち続けていること直接感じ、中国に対する友好の気持ちをさらに深めたのだった。また、彼らの中国に対する深い友好の気持ちに、中国側の人たちも感動した。

 

訪問最後の日の6月14日の夜、大連賓館の宴会ホールは、歓声と笑い声に沸いていた。歌声が次々に起こり、日本の友人たちは中国・東北の踊り「大秧歌」を、体をゆすって踊り出した。かつて航空学校でもこのようにして祭日を祝ったものだ。みんないっしょに歌い、踊り、友情の輪が広がった。

 

空港で別れを告げるとき、みな握手し、抱き合い、熱い涙を流した。日本の友人たちを乗せた旅客機が青空に向かって飛んでいくのを眺めながら、中国の人々は、日本の古い友人たちの健康を願い、中日友好が永久に続くよう願わずにはいられなかった。  (高海寛=文 張東賀=写真)

 

人民中国インタ-ネット版

 

 

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