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周恩来総理と中日関係(中)生誕110周年にあたって

 

国交正常化の基礎を固める 

 

周総理が相次いで提出した「政治三原則」と「貿易三原則」「政経不可分の原則」は、中日関係の発展を堅持する原則を体現しているだけでなく、実際状況から出発し、柔軟に応用する原則をも体現していた。それによって親米反中勢力に打撃を与え、中国に対する友好勢力を支持し、しかも、一部の上層部の人々を含む社会各界の積極的な人々を結集し、さらに一歩「民をもって官を促す」を推し進めた。またそれによって中日関係は、「半官半民」の「覚書貿易」の段階に入ったのである。「半官半民」というのは、民間協定が政府の同意を得ることである。

 

中日貿易が中断している間、西欧の国々が先を争って中国市場に進出し、中欧貿易は猛烈な勢いで増加した。日本の経済界は中国市場を失うことを恐れ、岸内閣の後を継いで登場した池田内閣に対し、早目に中日関係を改善する手を打つよう要求した。自民党内の一部の有識者たち、たとえば元首相の石橋湛山氏、農林大臣や文部大臣を歴任した自民党顧問の松村謙三氏、高碕達之助氏らが相次いで中国を訪問し、周総理と会談、膠着した局面を打開し、中日関係を発展させる道を探った。

 

周総理は日本国内の情勢の変化に基づいてタイムリーに、中日間は平和共存五原則を基礎に相互に友好的に付き合い、関係を改善するだけでなく、さらに一歩一歩、両国の正常な関係を回復させなければならない、と提起し、また台湾問題における中国のしっかりと変わらぬ立場を強く指摘した。

 

松村氏と高碕氏は帰国後、池田内閣に迫って1962年5月に、米国に拘束されずに自主的に対中国貿易を展開することを決定させ、延べ払い方式によって中国にプラントを輸出することを認めさせ、また松村氏と高碕氏がこの仕事の発展に責任を持つことを黙認させた。1962年10月、中日双方が長期総合貿易協定の覚書(LT貿易)に調印した。これまでの民間協定と区別するために、これは「覚書」と名づけられた。

 

「覚書」の内容は、両国政府の同意を経たものであり、実際は政府間協定の性格に近かった。従って中日関係は1962年から前に半歩踏み出して、「半官半民」の時期に入ったと言える。1964年に双方は、互いに覚書貿易事務所を設立し、駐在記者を相互派遣した。

 

双方は、積み上げ・漸進方式で中日関係を改善することを提起した。すなわち貿易だけでなく、国交正常化をいかにして実現させるかも配慮しなければならない、ということである。「覚書貿易」の会談の中に、特に政治会談を入れたのは、主に日本側が台湾問題における原則的立場を受け入れるよう促し、この面における妨害と困難を少しずつ排除していくためであった。

 

1971年2月に覚書貿易の会談を催したとき、中米関係にはすでに緩和の兆しを見せていたので、会談は比較的に順調に進んだ。日本側は会談のコミュニケの中で、次のことを承認した。

 

それはすなわち、中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府であること。台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、いかなる形式でも「二つの中国」と「一中一台」をつくる陰謀も許されないこと。日本と蒋介石政権との間に調印された「条約」は本来、非合法的、無効なものであり、廃棄しなければならないこと、である。

 

日本側はずっとこの「条約」が、1952年以来の日本の外交がよって立つ基礎であることを口実にして、これまで触れないままにしてきた。このとき初めてそれをコミュニケに入れることに同意したのは、非常に大きな進展であった。

 

続いて公明党が訪中した際、上述の3つの原則を基礎に、日中国交回復の5原則を提起した。社会党、民社党、日中議連(日中貿易促進議員連盟。1973年に日中友好議員連盟と改称)代表団も相次いで中日友好協会と発表した共同コミュニケの中で、中国側のこの原則的立場を支持すると表明した。

 

後に周総理は、台湾問題における中国側の立場を中日国交正常化の三原則に帰納させた。当時の条件の下では、中日関係正常化の条件はまだ成熟していなかったけれども、経済貿易関係の絶え間ない発展にともない、国交正常化の問題はすでに提起され、双方は検討を進め、それ以後の成功と解決のためにしっかりとした基礎をつくったのである。

 

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