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周恩来総理と中日関係(中)生誕110周年にあたって

 

多方面での交流が拡大

 

1950年代から始まって、経済面と民間の往来が日に日に拡大すると同時に、中日間は文化、芸術、スポーツ、衛生から政界、労働組合など各方面の民間往来、あるいは「半官半民」の往来が日増しに発展してきた。その間に起伏はあったとはいえ、終始、往来は絶えなかった。その成果の一つとして、双方は漁業、文化、科学、労働組合などの分野での協定に調印した。中日双方はその他の面での民間往来でも、両国の人々の理解と友情を深め、両国関係の発展を推し進めた。

 

1955年に元首相の片山哲氏が、1959年に元首相の石橋湛山氏がそれぞれ訪中した。その主な目的はみな中日関係をどう発展させるかについてであった。1956年6月、日本の労働組合代表団が中国を訪問し、両国の政治関係の問題についても話し合われた。周総理は彼らとの会見でこう述べた。

 

「両国の民間団体の往来は、すでに新記録を創りました。両国の人々は、政府間の交流がまだ行なわれていないうちに、直接、『外交』を行ない、多くの問題を解決しました。これは双方にとって有利なことです。私は外交部長として皆様が中日両国の外交関係樹立に道をつけたことを感謝しています」

 

ここでさらに触れておかなければならないのは、1971年の後藤鉀二氏の訪中である。日本卓球協会会長である後藤鉀二氏の訪中の目的は、中国が卓球代表団を派遣し、名古屋で開かれる第31回世界卓球選手権大会に参加するように招請することであった。

 

双方は会談メモの内容をめぐって激しく論争した。中国側は、台湾問題をメモに書き込むことをあくまで主張し、さらに「政治三原則」をメモの第一条に入れるよう要求した。しかもその順序を変えることはできないとし、そのために交渉は行き詰まった。

 

それを知った周総理は、即刻、関連者を呼んで会議を開き、彼らのやり方は「極左だ」と批判した。そして周総理は「会談は相手を見、その性質を見なければならない。原則であっても一律に当てはめ、できないことを強要してはならない。後藤先生は『国際卓球連盟の憲章に基づいて、アジア卓球連盟を整頓する』と明確に提起している。これは国際卓球連盟から台湾を追い出し、中国が国際卓球連盟に占めるべき地位を回復することを意味している。これは、スポーツの世界で台湾問題を解決する道筋である」と指示した。

 

周総理が自ら関与し、直ちに是正したので、双方は円満に協定を結ぶことができたのだった。そして中国の卓球チームは、名古屋で開かれた第31回世界卓球選手権大会に参加し、それによって世に広く知られる「ピンポン外交」を完成させ、劇的な成果を生み、中日、中米の国交正常化を推し進めた。これこそ周総理の、原則の堅持と適切な柔軟性を結びつけた一つの模範例である。

 

道理をもって人を説得

 

新中国が成立してから、周総理は多くの時間と精力を割いて、訪問してきた日本の友人と会見した。「周総理と中日民間外交」を専門に研究しているある学者の統計によると、1953年7月1日から1972年9月23日(中日国交正常化の前夜)まで、周総理は全部で日本の客人と287回会見し、延べ323の代表団(あるいは大勢の客人)と会った。周総理が会見した外国の客人の中で、日本の客人の数がずっと1位を占めていた。

 

周総理は日ごろから「外交の仕事とはまず人を扱う仕事です。友人は多ければ多いほどよい」と私たちを教育した。周総理が会見した日本の客人の中には、各界の要人や有名人もいれば、手にまめがいっぱいの普通の農民もいるし、まだあどけなさの残る若い学生もいる。周総理は彼らと話をするときはいつも、話す相手の違いに対応することに注意し、ねんごろに諭し導き、道理を以って人を説得し、相手を尊重し、自分の意見を人に強引に押し付けるようなことを一度もなく、そのため人々は口先だけでなく心から敬服したのだった。

 

周総理は時々、こうした友人を通じて日本国内の情況や変化を理解した。時には7、8時間も話をしたことさえある。周総理の話はいつも客人に深く、忘れられない印象を残し、人々は得るところが大きい、と感じるのであった。

 

人民中国インターネット版

 

 

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