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重陽節

    

菊を観賞する古人を描いた民間年画
 旧暦99日(今年は1011日)は、重陽節だ。古人は9を「陽数」(陽の数字=奇数)として、陽の重なる99日のことを「重陽」と呼んだ。空が高く澄みわたり、すがすがしい季節のころだ。人々は連れだって山登りをしたり、菊を愛でたり、「重陽ガオ」という餅を食べたりして、秋のピクニックやスポーツに適したこの日を楽しく過ごすのである。

 

              難を逃れる慣わし

 

 重陽節の由来についての歴史上の伝説がある。後漢(25220年)のころ、桓景という人が、ふるさとを離れて、道士の費長房に武芸を習っていた。99日のその日は、費長房に言われたとおりに帰郷した。そして家族を連れて、茱萸(カワハジカミ)の袋を腕に結び、高みに登って「菊花酒」を飲み、災いを避けた。

 

 夕方になり、半信半疑の桓景が帰宅すると、飼育していたニワトリ、犬、牛、羊がいずれも命を落としていた。道士の費長房はそれを聞くなり、こう言った。「主人の代わりに家畜が難を受けたのだ」。この話が広まり、人々が真似するようになっていった。こうして重陽になると、高みに登り、茱萸をつけて、菊花酒を飲むという慣わしができたのである。

 

 その後は、民間から宮廷にいたるまで、こうした重陽節を過ごすようになっていった。三国時代(220280年)、曹操の子である魏の文帝・曹丕は重陽節にあたり、大臣の鍾に菊の花と長寿を祝う手紙を送った。晋代(265420年)になると、重陽節には重陽ガオを食べるようになったといわれる。唐代(618907年)においては重陽節の慣わしが広く伝わり、多くの詩文が残された。なかでも、詩人・王維が詠んだ「99日憶山東兄弟」(99日、山東の兄弟を憶う)には、こう表されている。

 

 「独り異郷に在りて 異客と為り、佳節に逢う毎に 倍す親を思う。遙かに知る 兄弟の高き処に登り、遍く茱萸を插して 一人を少くを」。永久に残る絶唱であろう。

 

 こうして、古代における重陽節は、難を逃れるという古い習慣を持っていた。古い陰陽思想によれば、「九九重陽」は陽数が強すぎた。物事は「盛りきわまれば、必ず衰える」ため、この日を恐れる心理がめばえたのである。また、重陽節が過ぎると気候が涼しくなり、風邪などの病気にかかりやすいため、いっそう恐れるようになっていった。そのため古人は重陽を「凶日」と見なして、難を逃れるための各種の工夫を凝らしたのである。

 

「法術に長けた道士」と伝わる漢代の費長房(左)が師と出会う

 まず、最初に考えられたのが登山である。天の神様に近い高山に登ると、災禍から逃れられるという発想だ。甘粛省の一部の農村では、今でも次のような慣わしが残っている――重陽節になると、村人は線香を持って高みに登る。まず「王母娘娘」(伝説上の天帝の妻)、「八仙」などの民間で信仰される神様を祭り、それから頂上につくと大声で叫ぶ。やまびこの大きさや、はっきり聞こえるかどうかによって、自分の健康状態をチェックするのだ。

 

 野山でとれる茱萸は、その香りが虫除けになるだけでなく、湿気を除き、風邪を防ぎ、発熱を抑えて、内臓にもよいという。そのため民間においては、重陽節に茱萸を挿して難を逃れる。それは「避邪翁」と呼ばれている。中庭の井戸のそばに茱萸を植え、葉が井戸に落ちると、井戸水の毒を消すことができるという人もいる。福建省の客家人は、重陽節には玄関に茱萸を挿して、邪気を払う。

 

 重陽節に、ほかの方法で厄除けをする地方もある。たとえば、凧揚げをして、よどんだ気を払い捨てる。重陽ガオを作り、そこに五色の小旗を挿して、災いを除ける。広州では、人々が高みに登り、石をたたいて邪気を払う。江西省萍郷の人々は、ミカンを持って山に登り、ミカンを下に放り投げて、災いを除ける。このほか、農村の人々は、人の代わりに家畜が難を受けないように、牛小屋、馬小屋を開いて風通しをよくしている。

 

 こんにち、人々は難を逃れるという旧説を信じなくなり、茱萸を挿したり、つけたりすることはない。重陽節は、秋のピクニックやスポーツをする日にあてられている。たとえば、北京市民の場合は家族連れで、または友人同士で誘いあい、西郊外の香山や八大処、北郊外の八達嶺長城などを登る。息を切らして頂上に登り、見渡すかぎりの紅葉を眺めるのは「じつに気持ちがいいものだ」と評判になっている。

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