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周恩来総理と中日関係(下) 生誕110周年にあたって

 

潮時をつかみ 水到りて、渠成る

 

20年間、深く、綿密な、きっちりとした仕事の積み重ねの結果、1972年、ついに「水到りて、渠(水路)成る」(条件が整えば、自然に成就する)という時期を迎えた。中国と日本は正式に戦争状態を終結し、国交を回復したのである。ここから両国関係は、新しい段階に入った。

 

全般的な状況から見れば、当時、国際情勢は大きな変化が起こっていた。1971年10月25日、国連は決議を採択し、国連における中国の合法的地位を回復した。中国を敵視し、孤立させる米国の22年にわたる政策は破綻し、新中国の存在を認め、対中国政策を改めざるを得なくなった。キッシンジャー国務長官の秘密訪中に続いてニクソン大統領が1972年2月、中国を正式に訪問し、中米両国の長期にわたる断絶状態は終わった。

 

動き出した国交正常化

 

これは日本に対する「頂門の一針」であり、「頭越し外交」と言われた。これによって日本国内の情勢にも重大な変化が起こった。最後まで米国追随と中国敵視を変えようとしなかった佐藤内閣は、1972年7月、任期満了を待たず総辞職せざるを得なくなった。中国と国交を回復しようという声が、すべての日本の人々の心に深くしみ込んでいた。

 

こうした情勢の下で田中角栄氏が首相となり、政務を執り始めた。1972年7月7日、彼は首相就任後すぐに「外交面で中華人民共和国との国交正常化の実現を急がなければならない」と提起し、「中国政府が提起した国交回復三原則を十分に理解する」と表明した。

 

この情報に接した周恩来総理は、時機はすでに熟した、カギはそれをしっかり捉えることができるかどうかだ、と判断した。周総理は直ちに外交部(外務省)に対し、いかなる態度を表明するかを検討するよう指示した。その日の夜、周総理は、関係する人々を上から下まですべて呼んで報告させた。みな、いろいろな意見を言ったが、田中内閣に対する一般的な分析と評価から脱却することはできず、ポイントをつくことができなかった。真夜中を過ぎてから、周総理はみなに帰って休むように言い、自ら書面報告を作り、毛沢東主席の指示を仰いだ。

 

7月9日、イエメン民主人民共和国の総理を歓迎する宴会のスピーチで、周総理は、田中首相の態度表明に対し単刀直入に「これは歓迎に値するものだ」と述べた。中国語でわずか7文字の短い言葉だったが、自民党内には依然、国交正常化に反対するかなりの勢力があり、田中首相が心の中でまだ完全には自信が持てないときだけに、この言葉は田中首相が反対派とたたかう自信と決心をしっかりと固め、中日関係の重大な進展にカギとなる役割を果した。

 

その日の夜、周総理は再び、関係者を招集し、検討会を開いた。衆智を集めて広く有益な意見を聞き、みなに十分意見を言わせ、命令を下すことはしないという周総理の一貫した作風であった。もし自分の意見を言わない人がいれば、総理は名指しで批判する。

 

周総理は「私が田中首相の態度表明を歓迎に値すると言った理由は、毛主席が私に、積極的な態度を取らなければならないと言われたからである」と述べた。

 

当時、出席していた外交部アジア処の陳抗処長は、翌日、農業代表団とともに日本を訪問することになっていた。周総理は、この席で陳処長に対し、上海舞劇団長として訪日する孫平化氏と中日覚書貿易東京事務所首席代表の蕭向前氏に、田中首相の訪中を必ず「実現」させるよう伝えるようにと指示をした。周総理はとくに「実現」という2文字を強調した。

 

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