芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京

 

 「花合歓に風吹くところ支那服を着つつわが行く姿を思へ」。この自作の歌は、初夏の北京を心より楽しんでいた小説家の様子を髣髴とさせる。

 

死の床で着ていた浴衣(新潮社刊『新潮日本文学アルバム 芥川龍之介』による)
 芥川が語った北京の印象には、必ずと言っていいほど、槐や合歓などのイメージが出てくる。例えば後に中国旅行記の『支那游記』に収められた「雑信一束」には、「北京」と題する次のような一節がある。

 

 甍の黄色い紫禁城を繞つた合歓や槐の大森林、――誰だ、この森林を都会だなどと言ふのは?

 

 紫禁城を中心とする当時の北京は、「森林」としてその眼に映ったのである。鬱蒼とした大樹が黄色の瑠璃瓦を幾重にも取り囲んだ風景は、北京の城壁の上から眺めたものと思われるが、当時の北京は市民一人当たり三本の樹木を擁するほどの文字通りの「森の都」であった。高層ビルと立体交差で埋まる現在の北京からは想像もつかない古都の、今ではもはや失われてしまった姿が記述されている。

 

 明清二代王朝の皇帝の住まいである紫禁城が故宮博物院となったのは1925年のことで、1921年当時は、遜位したラストエンペラー溥儀がまだ内廷で暮らしていた。紫禁城の外朝の一部、文華殿と武英殿だけが「古物陳列所」として開放され、民国政府の所有する文物を展示していた。そこの見学には筆記用具の持ち込みが禁じられていたため、芥川は見学後に記憶に頼って、眼にした古代書画を手帳に書きとめた。それによれば、唐・閻立本「職貢図」、元・王蒙「長松飛瀑図」、明・文徴明「古木寒泉図」、清・銭維城「林泉雨景図」など、歴代王朝の名品があったことがわかる。また、中国書画に高い鑑識眼を持つ芥川は、展示品の中に贋作が混じっていることも見抜いていた。

 

 しかし書画の鑑賞という面でより芥川の眼を開いた場所は、古物陳列所よりも、西単の霊境胡同にあった陳宝陦の家であった。陳宝陦は清末の重臣で、溥儀の師匠に当たる人物である。彼自身も書画に長け、書画の収蔵家でもあり、なんと紫禁城宮内の元乾隆帝の収蔵品まで所有していた。訪ねてきた芥川の前に、陳宝陦は数々の珍品を惜しみなく持ち出して、芥川をしてすっかり瞠目させた。その中には、李公麟「五馬図」、宋徽宗「臨古図」、王時敏「晴嵐暖翠図」、郎世寧「百駿図」などが含まれていた。これら中国古代芸術の精髄と言ってもいい品々に芥川は感動し、友人にも「此処の御府の画はすばらしいものです」と伝えている。陳宝陦宅で芥川が鑑賞した書画はやがて散逸し、その多くが所在不明となっている。北京城内の胡同にある一軒の居宅で、これほど多くの名品を一斉に眼にすることは、もはや不可能である。その意味では、芥川龍之介は相当恵まれた旅行者だったとも言える。

 

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