芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京

 

芥川龍之介(右)、1921年北京にて
 名所見学と書画探訪のほかに、芥川は中国戯曲の鑑賞にも熱中した。彼自身の言葉でいえば、北京へ来てからは「速成の劇通になった」ほどほぼ毎日劇場に出入りし、「芝居まわり」をしていた。しかも滞在中観た芝居は、「六十有余」にも上るという。1920年代では、京劇という名称こそ定着していなかったものの、戯曲はもっとも主要な大衆娯楽であった。後に四大名旦と称される女形の名人梅蘭芳、程硯秋、尚小雲、荀慧生たちが頭角を現した頃で、この四大名旦はもちろんのこと、楊小楼、余叔岩、カク寿臣、貫大元など、京劇の全盛時代を飾る数々の名優の演技を、芥川は観たのである。ちなみに、梅蘭芳と楊小楼一代の当たり役となった京劇『覇王別姫』は、この年に北京で初演された。

 

 芥川の旅行記には、同楽園で崑曲の名優韓世昌の演じる『火焔山』と『胡蝶夢』を観た詳細な記述が見られる。500年の歴史を持つ崑曲は中国に現存する最も古い戯曲であり、長い間、貴族や文人の間で愛好されていたが、清末以降急激に衰退し始めた。前門外の大柵欄の胡同の中にある同楽園は、当時崑曲を上演する唯一の劇場であった。

 

 同楽園に足を運んだ芥川は、ある酔顔の老人と遭遇した。同行者が、「あれは樊山だ」と教えた。樊増祥(号は樊山)は、清末民初の名高い文人で、生涯にわたって日常茶飯事的に詩を作り、詩作3万首、駢文百万言を残した当代きっての詩宗であった。民国時代には遺老として閑居し、詩酒と観劇を嗜む晩年を送った。劇場で不意に遭遇したこの老詩人に、芥川は「僕は忽ち敬意を生じ、梯子段の中途に佇みたるまま、この老詩人を見守ること多時」「文学青年的感情は少く(全集の原文ママ)とも未だ国際的には幾分か僕にも残りをるなるべし」と書いている。「国際的」「文学青年的感情」、つまり海外の文学ファンが持つような気持ちが思わず湧いてきたということであろう。劇場というもっとも市井的な空間において、昔ながらの旧派文人の悠々と観劇する一瞬の横顔から、芥川は中国の伝統的な詩文精神の一端を垣間見たのである。

 

 この日、崑曲を見た後の夕方には、中国の新世代知識人の代表者胡適を招待することになっていた。アメリカに留学し、帰国後に中国の新文化運動の旗手を担っていた胡適は、当時北京大学で教鞭をとっていた。胡適日記によると、彼もちょうど芥川より一カ月前に、同じく同楽園で崑曲を見たばかりであった。しかし、伝統戯曲に対して、あいにく胡適はほぼ全面的に否定する立場を取っていた。芥川龍之介は胡適との席上で、多少の意見を保留しながら、伝統戯曲の改良について英語で滔々と見解を述べ、胡適を感服させた。胡適日記には、中国式の服を着た芥川が中国人に酷似し、言うことも相当の見識を持っていたという、芥川についての印象が記されている。この年、芥川龍之介は29歳、胡適は30歳であった。

 

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