芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京

 

芥川龍之介『支那游記』の中国語翻訳(左は陳生保・張青平訳、北京十月文芸出版社2006年1月、右は秦 剛訳、中華書局2007年1月)
 日本へ帰る前に、芥川は天津も訪れたが、天津のような西洋風の街に来るとたちまち北京への「郷愁」を感じた、と述べている。東京に住むことがかなわずとも北京に住むことができれば本望、という思いを抱いたほどであった。芥川は、北京を離れる直前に、ある雑誌社のインタビューに、次のように答えている。

 

 「私が支那を南から北へ旅行して廻った中で北京程気に入った処はありません。それが為に約一カ月も滞在しましたが、実に居心地の好い土地でした。城壁へ上って見ると幾個もの城門が青々とした白楊やアカシヤの街樹の中へ段々と織り出されたように見えます。処々にネムの花が咲いて居るのも好いものですが殊に城外の広野を駱駝が走って居る有様などは何んとも言えない感が湧いて来ます」

 

 このような北京へのノスタルジックな愛着を芥川は持ち続け、北京の旅から4年過ぎた1925年にも東京日日新聞で、「僕のあるいて一番好きな所といったら北京でしょうね。ふるい、いかにも悠々とした街と人、そしてあらゆるものを掩いつくす程の青青とした樹立、あれほど調和のとれた感じのよい都はないと思います」と、懐かしげに語っている。帰国後は多忙な作家生活を送った芥川は、もう一度北京へ行きたいという思いを果たすことなく、1927年の夏に36歳の若さで自殺する。死ぬ時には聖書を枕元に置き、中国で買い求めた浴衣を着ていた。

 

2003年以後、中国の各出版社から刊行された芥川作品集
 芥川龍之介が亡くなって80年を経た現在、その文学が中国で愛読されている。2005年に全5巻本の中国語版『芥川龍之介全集』が刊行されたが、これは中国で刊行された最初の日本人文学者の全集であり、また海外で出版された最初の芥川全集でもある。さらにその刊行後、芥川作品の出版の勢いによりいっそう拍車がかかり、「挿絵版」「普及版」「経典版」「保存版」などの形で、数々の新版作品集が次々と書店に並ぶようになった。この現象を見る限り、芥川文学の芸術性と国際性が改めて認知されたと言える。しかしそれは同時に、世界の優秀な文化遺産を自由に享受する精神性や国境を越えた広い視野を持つ若い世代が、中国で育ったことの証でもあると考えられる。中国の芥川ブームの牽引力となったのは、これらの青年層の読者たちの存在なのである。

 

 また喜ばしいのは、中国の大学における日本研究専攻の大学院課程の充実に伴い、芥川龍之介を学位論文の研究テーマに選ぶ学生も増え、優秀な新鋭研究者が数多く育てられていることである。こうした状況の中、芥川龍之介国際学会の第二回大会が、まもなく寧波大学で開催される。世界的に評価されている天才小説家の没後80年に、この国際的シンポジウムが中国で開催されることは、極めて大きな意味を持つであろう。世界一の人口と急速な近代化への歩みを誇る国で、芥川龍之介文学の国際化が確実に遂げられている。

 

人民中国インターネット版

 

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