特集 改革開放40年 ブランドが地域経済けん引

2018-12-17 11:37:59

福建省の晋江市は、中国南東部の沿海地域にある小都市だが、ここでは、スポーツ用品メーカー「安踏(ANTA)」、紳士服ブランド「七匹狼(SEPTWOLVES)」、食品メーカー「盼盼食品(PANPAN FOODS)」など、中国でよく知られ、海外にも進出している数多くの国内ブランドが生まれてきた。

1978年、晋江の国内総生産(GDP)は1億4500万元で、1人当たりGDPはたった154元だった。だが、2017年には、同地のGDP19815000万元まで増え、40年前の1366倍になった。改革開放の40年間を経て、晋江市は、貧しく立ち遅れた農村から、数多くの中国ブランドの揺り籠となったのだ。

華僑の資金が起業を後押し

晋江には、昔から海上貿易の伝統があり、北宋(960~1127年)の時代から、同地の人々は海へ出て商売をして生計を立て、最終的に海外にとどまる者もいた。このような地理的環境と歴史的背景が、商業を重視し、勇気を持って危険に挑む晋江の人々の性格を育んだ。

改革開放以前、同地では、私営経済に対する国の制限をひそかに破り、小規模の商売や工場を始める人がいた。紳士服ブランド「柒牌(SEVEN)」の創業者洪肇設氏は当時、落花生をひそかに売って得た金で布を買い、服を作って市場でこっそり売った。

1978年に中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議が開かれると、中国は改革開放を宣言し、個人の起業や商売に対する制限が徐々に緩和され、かつての小規模の商売や工場はついに堂々と経営できるようになった。すぐに晋江の至る所で、熱意あふれる起業の情景が見られるようになった。83年末には、晋江全体で計2271社の企業が登記され、そのうち714社が民営企業だった。

起業時に直面する最大の困難は、資金不足であることが多い。華僑のふるさとである晋江では、海外にいる親戚から送金を受けている人が多かった。それが彼らの起業資金となったのだ。また、同地には、華僑が建てた建物も多数あったが、長い間誰も住んでいなかったため、それらの使われていない建物は企業の工場になった。

改革開放初期、華僑や海外のビジネスマンは、中国市場に対して、まだ十分に自信を持っていなかった。晋江は、香港澳門(マカオ)台湾地区や海外との連絡が密接だったため、中外合資提携の実験場となった。同地政府もこの勢いを捉えて、人々が海外の資源を十分に利用するように奨励し、先導した。

86年、海外に親戚がいた許金聡氏は、親戚と協力して海外から資金を引き入れ、合資企業を設立し、一族所有の古い建物を工場にして、紡績機と染色機の生産を始めた。このような小規模の合資企業では、外国の商社は原材料と商品見本を提供し、海外輸出を担当し、中国企業は加工に従事した。このようなモデルは、晋江企業発展の基礎を固めた。

 

晋江で毎年開かれる靴業博覧会には国内外のバイヤーが殺到する(cnsphoto 

 

小工場から大ブランドへ

「どの家にも明かりがつき、煙が上がっていて、煙突が電柱よりも多い」。当時、晋江の企業が力強く発展していた様子を生き生きと捉えた言葉だ。民営経済の勃興によって、晋江は急速に貧困という古い衣を脱ぎ捨てた。89年に同地の財政収入は初めて1億元を突破。しかし、改革開放が深化していくにつれて、晋江は、企業数は多いが質は高くないという発展のボトルネックに直面した。

このような状況を変えるため、晋江市政府は98年に「ブランド立市」戦略を打ち出し、2002年には、さらに「ブランドの都」建設計画を打ち出し、企業が国家レベルのブランドを生み出すのを奨励することに力を入れた。

最初に転換を始めたのは安踏グループだった。1991年創立の安踏は、当初、海外ブランドのOEM(相手先ブランドによる生産)を請け負う、同地ではありふれた靴工場の一つだった。海外からの注文が多いとき、安踏のような小規模の靴工場の経営は好調だったが、97年にアジア通貨危機が起こると、海外からの注文が一気に減り、晋江の靴工場はその半分が倒産した。

存続の危機に直面した安踏は、不安定な海外からの注文に頼るより、独自の製品を作った方がいいと考えた。だが、販売量を増やすには、商品の知名度を上げなければならない。当時は、アディダスとナイキがすでに中国のスポーツ用品のハイエンド市場を占めていた。強力なライバルに対して、安踏は新たな道を切り開く(7)ことを決めた。「人気スポーツ選手+主流メディア」というブランド戦略を取ったのだ。

99年、安踏グループは、中国の有名な卓球選手孔令輝氏をイメージキャラクターに起用し、中国中央テレビ局(CCTV)のスポーツチャンネルで大量のコマーシャルを流した。「スター効果」でブランドの知名度が上がり、同年の安踏の売上高は2000万元余りから2億元へと増加した。安踏の成功を目にして、他の企業もブランドの重要性を感じ、次々と巨額の資金を投入して有名人を起用し、主流メディアで広告を打った。

長年の経営を経て、これら晋江で誕生したブランドは、徐々に全国の人々に受け入れられ、そして、中国ブランドを代表して世界に踏み出すまでになった。こうして晋江は、全国でも指折りの製造業のブランド拠点の一つとなった。

ハイテク素材でモデルチェンジ

晋江には現在、紡績衣料、靴製造の二つの1000億元超規模と、食品飲料など五つの100億元超規模の産業クラスターがある。充実した産業の基礎という自身の優位性をどう生かし、晋江ブランドの内容を豊かにするかが、同地の新たな課題となっている。これについて晋江市は、グラフェン(新素材)研究院などのハイテク産業を誘致し、人材誘致計画を実施し、優秀な起業チームとプロジェクトが同地に拠点を構えるように促した。

晋江市人材弁公室主任の黄建華氏は、この計画の核心理念を次のように紹介した。「われわれは人材を誘致するだけでなく、人材を引き留めたいのです。彼らがもたらす技術やプロジェクトと晋江の地元企業とのマッチングを実現し、本当に根を下ろしてもらうのです」

スーパーコンピューターなどのハイテク製品の製造に使われるグラフェンは、晋江で、従来型のアパレル産業や靴製造業と結び付いた。グラフェン産業技術研究院首席科学者の許志氏は次のように紹介した。「研究院は、『柒牌』『貴人鳥(K–bird)』など、現地のアパレル、シューズメーカーと産業応用協力を展開し、保温抗菌抗静電気効果のあるグラフェン製の生地や、吸汗防臭効果のあるグラフェン製のインソール(靴の中敷き)などを開発しました。晋江市党委員会や市政府は、技術産業マッチングにおいて、仲介の役割を果たし、関連フォーラムを開催し、われわれを連れて企業を視察し、企業がわれわれの技術を理解するのを助け、われわれが企業のニーズを把握できるようにしてくれました」

ハイテクと従来型産業の結合は、晋江の新たな経済モデルチェンジと産業グレードアップを推進し、晋江ブランドの道がより広く遠くまで続いていくように後押ししている。(王朝陽=文)

 

人民中国インターネット版 2018127

 

 

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