【中国共産党創立100周年】PART3 国力増大させた改革開放

2021-07-07 10:21:47

30年近くの苦難に満ちた模索とたゆまぬ努力を経て、中国共産党は人民を率いて社会主義を建設し発展させ、かつて立ち遅れていた中国で工業化を実現するための確固たる基盤を築いた。

1978年、中国は再び発展のための大きな選択に直面した。いかに立ち上がる段階から豊かになる段階までの偉大な飛躍を実現するかは、時代の課題となった。「思想解放、実事求是(事実に基づき真理を求める)」という思想の導きの下、中国共産党は全国人民を率いて実情から出発し、大胆に改革を行い、勇んで革新し、改革開放の戦略を断固として実行し、中国の特色ある社会主義の道を徐々に見つけるようになった。

改革開放戦略の実践の中で、中国は社会主義現代化建設の新たな時期を迎え、計画経済から社会主義市場経済への転換、農業大国から工業大国への転換、衣食問題の解決から小康社会(ややゆとりのある社会)の全面的建設への転換を実現した。世界から注目された「奇跡の成長」によって、中国は「時代に遅れる」から「時代に追い付く」、さらに「時代を導く」までの飛躍的な成長を遂げた。

改革開放にかじを切る

2018年1218日に開かれた改革開放40周年祝賀大会で、習近平総書記は次のように述べた。「1978年1218日は、中華民族の歴史、中国共産党の歴史、中華人民共和国の歴史に必ず記されている重要な日だ。わが党はこの日に第11期三中全会を開催し、新中国成立以降の党の歴史において深遠な意義がある偉大な転換を実現し、改革開放と社会主義現代化の偉大な征途を切り開いた」

11期三中全会は中国がどこへ進むべきかという正念場の時期に開催された。「今改革を行わないと、私たちの現代化事業と社会主義事業が葬られる」。当時の鄧小平の言葉は、今思い出しても力強く感じる。この会議では、党と国家の活動の中心を経済建設に移し、改革開放を実行するという歴史的な政策決定が成された。同決定は党の大きな目覚めともされている。

11期三中全会が開かれる2カ月前に、改革開放と現代化建設の総設計師とされる鄧小平は国家指導者として、初めて日本を公式訪問した。訪問は次の二つの目的があった。一つは中日平和友好条約批准書の交換式に出席すること。もう一つは日本の経済を視察し、中国で改革開放を行うために参考になる経験を求めること。

鄧小平は新日本製鉄、日産自動車、松下電器(現パナソニック)を見学し、新幹線で東京から京都に向かった。疾走する列車内で鄧小平は、「後ろからムチで追い立てられているようだ。われわれは駆け出す必要に迫られている」と感慨深げに語った。この訪問を通して、鄧小平は改革開放と現代化建設を推し進める決意を固めた。2カ月後の第11期三中全会では、党中央は最終的な政策決定を行い、改革開放が本格的に幕を開けることになった。

改革開放の先駆けというと、人々がまず思い浮かべるのは小崗村と深圳だろう。

78年、安徽省鳳陽県小崗村の農民18人が生産責任制の誓約書に指印を押した。旧体制に挑戦したこの大胆な試みにより、農村改革は幕を開けた。農家生産請負責任制実行後の最初の年、小崗村は豊作を迎え、20年以上国からの救援食糧に頼っていた歴史に終止符を打つことになった。

改革の成功は、小崗村の農民が勇気をもって思想を解放したことによるもので、中国共産党と人々の心がつながっていたことによるものでもあった。当時、生産責任制が農村の経済政策に合致するかどうかについて、社会では激しい論争が繰り広げられていたが、党は人々の意思を尊重することを貫き、選択権と決定権を農民に与え、事実をして語らしめた。生産責任制がもたらしたプラス効果を見て、党中央は断固として経営請負制と生産請負制を主とする農家生産請負責任制を全国の農村に広めた。生産責任制は「大鍋飯」(働きのいかんにかかわらず、同じ待遇を受ける)を打ち破り、農民の生産意欲を引き出し、中国の農村はここから専業化社会化生産への転換に踏み切るようになった。

改革と共に、中国は世界に開放の扉を開いた。中国初の経済特区として、深圳は世界の工業化都市化現代化の奇跡をつくり出した。しかし、急速な経済成長を遂げた深圳は、外部から懸念と疑問を持たれてもいた。

長期にわたり人々を困らせ束縛した重大な認識問題について、鄧小平は1992年春、有名な「南方談話」を発表し、次のように述べた。「改革開放に踏み切らず、大胆に行う勇気がないのは、つまるところ資本主義をやっているのではないかと危惧しているからだ。深圳の建設の成果は、あれこれ心配した者に明確な回答を与えてくれた。特区の姓(属性)は社会主義であり、資本主義ではない」

その後、深圳は改革開放の道をさらにしっかりと進むようになった。「渡り石を探りながら川を渡る(6)」から「広い道を切り開く」まで、深圳は大きな包容力と勇往まい進の姿勢を持って、中国の特色ある社会主義の輝かしい1ページを記した。

農村から都市まで、沿岸部から内陸部まで、改革開放は中国で全面的に行われるようになった。改革深化と開放拡大を図る措置が次々と打ち出され、人々の創造的活力を引き出し、人々の心を合わせる強い力をほとばしらせ、世界に注目された「中国の奇跡」を起こした。

 

20011110日にカタールのドーハで行われたWTO4回閣僚会議で、中国のWTO加盟に関する加盟議定書付属書案が採択された。これにより、中国はWTOの新しいメンバーになった(新華社)

WTO加盟で世界経済に貢献

2001年1110日、世界貿易機関(WTO)第4回閣僚会議で中国のWTO加盟が承認された。1986年に中国が関税および貿易に関する一般協定(GATT)締結国としての地位の回復を申請してから、15年が過ぎていた。

当時の中国代表団の石広生団長は、同会議で次のように発言した。「中国はGATT締結国としての地位の回復とWTO加盟のために、長年たゆまぬ努力をしてきた。これは、中国が改革を深化させ開放を拡大する決意と確信を十分に示している。WTO加盟は中国にとってプラスになるだけでなく、全ての加盟国地域にとってプラスになり、多国間貿易体制の発展にも役立つ。これはきっと新世紀の中国経済と世界経済に広く深い影響を与えるだろう」

その後、中国が出した素晴らしい「成績表」は石氏の言葉を裏付けた。WTO加盟後、中国は多くの「ピーク」を乗り越え、世界第2位の経済国、第1位の貿易国、第1位の投資先国、第2位の対外投資国までに急成長した。中国の経済は世界の経済に深く溶け込んでいる。

中国の発展は開放によるもので、それと同時に開放をもって世界の発展に貢献している。現在、中国の関税率は75%にまで低下し、WTO加盟時に約束した10%をはるかに下回っている。貨物輸入額の年平均伸び率は2桁以上で、中国で設立された外資系企業は100万社を超えた。多くの国が中国の経済成長による利益をシェアしている。

08年、米国のサブプライムローン問題を発端とする金融危機は世界を席巻した。危機に直面して、党中央は時勢を判断し、4兆元の景気刺激策で中国経済の2桁成長を維持した。この力強い措置は金融危機に苦しめられていた世界各国を奮い立たせた。シンガポール紙『聨合早報』は、「中国が金融危機にうまく対応したことは、世界経済の発展の『安定装置』としての役割を果たし、世界経済の回復を後押しけん引する役割を果たした。中国を救うことは世界を救うことであり、中国が良くなれば、世界は望みが持てる」と報じた。

各国と調和的に共存する中国は、世界経済の発展のために多くの原動力を提供し、世界各国と多くのチャンスを共有している。

人民本位を貫く

新世紀に入ってから、中国は経済成長を図るとともに、人々の暮らしの改善に重点を置く社会建設の歩みを加速させ、全ての国民が改革と発展の成果を共有できるように保障してきた。

02年の第16回党大会では、小康社会の全面的建設という目標が掲げられ、党と国が人々の暮らしを改善するための方向性を決定付けた。同目標の下、一連の重要な政策が次々と決定され、実施されるようになった。例えば、2600年以上続いた農業税を廃止し、農民の負担を大いに減らし、再び農村の生産力を解放した。都市部と農村部の義務教育段階の学費雑費を免除し、子どもに公平な教育機会を享受させた。定年退職者の基本養老金(年金)を引き上げ、高齢者が晩年を安らかに過ごすよう取り組んだ。十数億人に恩恵をもたらすこのような民生政策は、より多くの人に満足感と幸福感を与えた。

07年の第17回党大会では、民生改善が新たな高みに引き上げられた。大会の報告では、経済成長を図る指標が初めてGDPから1人当たりのGDPに変更された。また、次のことが強調された。経済発展の重点的な取り組みは、国が強くなることを目指すだけでなく、人々の暮らしが豊かになることも目指す。発展の成果が人々に恩恵をもたらさなければならず、発展の核心が人民本位にある。

人民本位は災難に直面した時にも体現される。08年5月12日、四川省の汶川県でマグニチュード80の巨大地震が発生した。震災直後、党中央は全党全軍全国民の総動員を速やかに展開し、中国の歴史上救援スピードが最も速く、動員の範囲が最も広く、投入する人員や物資などが最も多い救援活動を行った。中国の特色ある「国を挙げて取り組む体制」は世界の称賛を受けた。ロシアノーボスチ通信社の論説記事には、「総理が2時間以内に飛行機で被災地に向かう国、10万人の救援者を動員した国、各界からの寄付金が数十億元に達する国、先を争って献血するために交通渋滞まで引き起こした国は、決して負けることはない」と書かれた。

震災から14日目、党中央は「ペアリング支援(7)体制を確立し、国を挙げて復興を加速する」という政策決定を行った。10年9月末までに、3年を予定していた復興任務は2年以内にほぼ完了し、被災地のインフラと生産生活は震災前の水準を大いに上回り、復興の奇跡をつくり出した。

香港と澳門の祖国復帰

祖国統一の大業を完成することは、中華民族の根本的利益に関わり、全ての中国人共通の願いでもある。第11期三中全会後、鄧小平を核心とする党中央の指導グループは、「一国二制度」構想を打ち出し、平和的手段によって祖国統一を実現する新たな道を切り開いた。「一国二制度」方針の指導と後押しの下、香港と澳門(マカオ)はそれぞれ97年と99年に祖国に復帰し、海峡両岸(大陸部と台湾地区)の人の往来と経済文化交流も一層強化されるようになった。

祖国に復帰した後、香港とマカオの人々は真の主人公となり、歴史上のいかなる時よりも幅広い民主的権利と自由を享受できるようになった。アジア金融危機やSARS(重症急性呼吸器症候群)など大きな試練にさらされた際、国は香港とマカオの力強い後ろ盾であった。事実が証明しているように、「一国二制度」は、香港とマカオの長期的な繁栄と安定を守るための最良の制度設計であり、祖国は香港とマカオが困難に対応し、試練を乗り切るための最大のよりどころであるだけでなく、香港とマカオに多くの発展のチャンスももたらしている。

「一国二制度」の実行には踏襲できる前例がなく、進む道には試練が避けられない。しかし、新たな状況や課題、試練にうまく対応し、それを乗り越えていく中で、まさに「一国二制度」の力強い生命力と強じんさが十分に体現される。

 

中国政府は199771日、香港に対する主権行使を回復した。香港復帰は中華民族の150年余りの恥をすすぎ、国の完全な統一に向けた重要な一歩であった(新華社)

 

五輪と万博で開放的姿勢を

08年8月、北京オリンピックが開催された。中国は世界に素晴らしいスポーツの祭典を見せ、オリンピックの歴史に輝かしい1ページを記した。10年5月には、上海国際博覧会(上海万博)が開幕した。半年間にわたる会期中、延べ7300万人以上が来場し、1日の最多入場者数が延べ103万人を超えた。同記録は今でも保持されている。

北京オリンピックの開会式で2008人が缶(太鼓に似た古代の楽器)を打つシーンから、世界中の優れた製品が集まる上海万博の大規模な展示ブースまで、中国は世界規模の大会で自信に満ちた開放的姿勢を見せ、世界に深い印象を与えた。これは中国の強い国力を示したと同時に、社会の活力も示した。ある外国メディアの記者は、中国の人々は楽しく生活し、誇りを持って世界に向き合っていると話した。

北京オリンピックと上海万博は、改革開放と社会主義現代化建設の成果の縮図だ。これらは中国の特色ある社会主義の道を歩む中で起こした発展の奇跡を示しただけでなく、多くの発展途上国にも参考となる貴重な経験を提供した。この道は、まさに中国共産党が中国の人々を率いて一歩一歩切り開いたものだ。段非平=文)

 

人民中国インターネット版 202175

 

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