【中国共産党創立100周年】PART2 試練と挑戦克服し大国へ

2021-07-07 10:21:36

封建社会、封建制度を覆す戦火の中から誕生した新中国は、成立当初、国内経済がぜい弱で、人々は貧しい生活にあえいでいた。工業農業や文化科学技術のレベルはさらに貧窮し非常に立ち遅れた状態だった。一方、国際環境を見れば、米国をはじめとする西側諸国は、政治的孤立や経済的封鎖、軍事的包囲などの手段を使い、中国共産党の指導によって人民政権を樹立したばかりの新中国を圧殺しようとしていた。

このような厳しく複雑な情勢に直面し、中国共産党は毅然として全国各民族の人民を率いて新中国を建設する重責を背負った。1949年から78年まで、30年近くの苦難に満ちた模索とたゆまぬ努力を経て、中国は社会主義制度を確立し、強固にし、発展させた。さらにその後の強大化に向けて、政治や経済、文化、科学技術、外交などの分野でしっかりとした基礎を打ち立てた。

 

新中国成立後、毛沢東(右から2人目)、劉少奇(同3人目)、周恩来(左から2人目)、朱徳(左端)、鄧小平(右端)、陳雲(左から3人目)ら党と国家の指導者は全党全国人民を率いて社会主義の中国の建設に励んだ(新華社)

侵略者に抵抗し国守る戦い

昨年1019日、中国人民志願軍抗米援朝出国作戦70周年を記念する展覧会が北京で開幕した。1900点余りの展示品と540点余りの歴史的な写真を見ながら、来場者は国を守るあの戦争にタイムスリップしたような気分になった。

近代以降、中国は列強による圧迫や戦乱に苦しめられていた。新中国の成立後、中国人民は平和と安定した生活を渇望していたが、1950年6月、米国は朝鮮の内戦に武力で干渉し、さらに中朝国境まで戦火は及んだ。この危急のとき、党中央は朝鮮の党と政府の要請に応じて抗米援朝(米国に対抗し朝鮮を支援する)の決定を下した。

当時、朝鮮に赴き参戦した中国人民志願軍は、武器装備が旧式で後方支援が弱かったが、直面したのは世界最強の軍事力を誇る米国と、そこに糾合した英仏など十数カ国からなるいわゆる「国連軍」だった。

中国と朝鮮の軍民は、この双方の力の差が大きい現代戦において、2年9カ月にわたる血みどろの戦いを経て、米帝国主義を53年7月に休戦協定調印に追い込んだ。

抗米援朝戦争は、新中国のために平和建設を進める外部環境を作り出しただけでなく、中国人民の民族の尊厳を守った。まさに当時の中国人民志願軍の司令官だった彭徳懐が述べた通り、「抗米援朝が雄弁に証明したように、西側の侵略者が東洋の海岸に数門の大砲を据えれば、一つの国を占領できるという数百年間続いた時代は永遠に過去のものとなったのだ」。

平和と尊厳のために19万7653人の中国人が犠牲になった――爆薬を抱えて敵陣に飛び込んだ楊根思や、敵のトーチカの銃眼を身をていして塞いだ黄継光、味方の位置を知られないために炎に包まれてもびくともしなかった邱少雲、人民志願軍の第1陣として朝鮮に入り戦死した毛沢東の長男毛岸英……。これらの党員烈士の死を恐れない戦闘の意志と犠牲の精神は、今日まで全ての中国人に困難や苦境に打ち勝つ勇気と力を与え続けている。

「人民が主人公の国」を実現

今年5月、米国のバイデン大統領が演説で、「女性は天(世界)の半分を支えている(3)」という毛沢東の有名な言葉を引用し、ネットで話題になった。この言葉は、まさに新中国の成立間もないころに誕生した。

旧中国では、男尊女卑の封建思想が長い間、女性の解放を妨げていた。50年5月に「婚姻法」が公布され、子の意思を考慮せず親同士が決める封建的な婚姻制度を廃止し、婚姻の自由一夫一妻男女平等を基本原則とする新しい制度を実施した。その後、人々は男女平等の考え方を着実に確立していった。

当時、貴州省養龍司郷にある堡子村の女性は、村の集団労働に参加しても、男性の半分以下の報酬しかもらえなかった。村民委員会の女性担当主任の易華仙は55年、「男女の同一労働同一賃金(4)」を主張し、村全体の討論を経て、この主張は採択された。現地の女性たちの労働意欲は刺激され、農産物の生産量は3割増えたという。毛沢東はそれを知ると主張の普及を提案した上で、「女性は天(世界)の半分を支えている」という名言を言った。

党の指導の下、社会の他の分野での改革も急速に進んだ。

50年6月に「土地改革法」が施行され、地主階級が小作料の形で農民を搾取する封建的土地所有制度が廃止され、約3億人の土地を持たないか土地が少ない農民には、7億ムー(1ムーは約006)に及ぶ土地が無償で分配された。また国営企業は、人身を拘束して労働者を搾取する封建的な口入れ屋(賃金労働者に労働をあっせんする手配師)制度を消滅させ、労働組合委員会と従業員代表会議が従業員を動員組織して企業の管理に参加させた。売春やアヘンの吸飲、賭博などの封建社会の悪弊は、3年前後の取り締まりによってほぼ一掃され、社会の気風は一新された。

53年3月、「中華人民共和国全国人民代表大会および地方各級人民代表大会選挙法」が施行され、3億2400万人が有権者として登録され、中国史上初の全国的な普通選挙に参加した。各地の一線での普通選挙によって選出された地方の人民代表大会の代表は、また1226人の各民族各階層各業界の全人代の代表を選出した。

54年9月、第1期全人代第1回会議が北京で開かれ、討論を経て新中国の最初の憲法が採択された。人民代表大会制度はこれより正式に実施され、無数の中国人が長期にわたって努力して求めてきた「人民が国の主人公となる」という政治的理想がついに現実のものとなった。

第1期全人代の代表だった陳舜瑶は次のように振り返った。第1期全人代第1回会議の開催当時、党政府軍の最高指導者から一般労働者まで、皆が一堂に会して国家の大計を共に話し合った。これは中国の歴史上かつてなかったことだった。

「鉄人」王進喜(左)は極めて困難な状況の中で奮闘し、3年かけて大慶油田を開発した。1964年、毛沢東は「工業は大慶に学べ」という呼び掛けを発し、工業建設のブームが全国で盛んに巻き起こった(人民画報)

情熱燃やした「建設」年代

現在の中国は、すでに世界で最も完備した近代的な工業システムを確立しており、「世界の工場」と称賛されている。しかし72年前、成立したばかりの新中国に工業システムはほとんどなかった。51年、中国共産党は第1次五カ年計画(「一五」計画)の策定に着手し、何度もの検討を経て重工業を優先する方針を定めた。

「一五」計画は53年から実施された。中国共産党は優秀な党員を工業建設の第一線に派遣し、大勢の労働者が情熱的に建設に打ち込むよう導いた。鞍山製鉄所(遼寧省)の労働者王崇倫や大同炭鉱(山西省)の鉱山労働者馬六孩、青島紡績工場(山東省)の女性労働者郝建秀をはじめとする党員たちは、それぞれの持ち場で率先して模範的役割を果たした。

その中に、共産党員の「鉄人」と呼ばれた大慶油田(黒龍江省)の石油掘削労働者王進喜がいる。王進喜は油井掘削チームを率い、設備が不足する厳しい労働環境の中、「条件が良いならやるだけだ。悪ければ創り出してでもやる」という決意で、3年余りの時間をかけて大慶油田の開発に成功した。

ある日、王進喜の掘削チームが油井を掘っている時、石油などが吹き上がり制御不能となる暴噴が起こった。これを食い止めるには、セメントと水を混ぜた泥漿が必要だが、現場にはミキサー機がなかった。あわや爆発というとき、脚にけがをしていたにもかかわらず、王進喜は杖を投げ捨て、原油と泥漿が混じる池に飛び込み、わが身を使ってセメントをかき混ぜ始めた。王進喜のチームの作業員は、これを見て次々に泥漿池に飛び込み、全員で力を合わせて撹拌し暴噴を速やかに抑え込んだのだった。王進喜を代表とする石油労働者の努力によって、65年に中国の石油自給が実現、石油工業が国民経済の基幹産業に発展した。

「一五」計画の期間中、多くの工業部門が次々と設立された。

53年、中国初のシームレス鋼管が鞍山製鉄所で試験圧延に成功した。54年、江西省南昌市で製造された中国初の国産飛行機が飛び立った。55年、遼寧省瀋陽市で中国初の新型旋盤が作られ、その翌年、中国初のトラック「解放」が誕生した。57年末までに、「一五」計画で定められた大多数の目標は大幅に超過達成された。その5年間、中国の国内総生産(GDP)は年平均925%増加し、工業農業総生産額に占める工業生産額の割合は農業を上回り、新中国が独立した完全な工業体系を築くための土台が打ち立てられた。

工業以外のさまざまな分野でも優秀な共産党員を数多く輩出した。河南省蘭考県党委員会書記の焦裕禄は、地元の風砂や水害、土壌のアルカリ化による貧困状況を変えるために、地元の政府職員や村民を率い、植樹や土砂対策を行い、水利施設を整備し、20万ムー余りのアルカリ性土壌の土地を美田に変えた。

この間、焦裕禄は肝臓がんを抱えながらも仕事に打ち込み、64年5月、在任中42歳で病死した。毛沢東は、「人民のために命をささげれば、死すとも名誉だ」と高く評価した。焦裕禄は党員幹部の代表であるだけでなく、その生涯はあの時代に奮闘した党員たちの縮図でもある。まさに彼らのけん引の下で、全国で国家建設の熱狂が巻き起こった。

農業と手工業において党中央は、自由意思と互恵を原則として、農民と手工業者が協同合作の道を歩むよう順序立てて漸進的に導き、農業生産合作社と手工業生産合作社を設立した。実際の運営において、協同合作は個人経営より実績が良かったため、多くの農民と手工業者に歓迎された。

資本主義商工業の改造については、「統一購入と一括販売」「公私合同経営」を採用し、資本家が引き続き企業から配当金の一部と出資分(持株)に対する配当を受ける「買い戻し」などの方法により、56年末までに生産手段私有制から社会主義公有制への移行を順調に実現。社会主義改造の完成に伴い、中国は社会主義社会に入った。

1970424日、中国初の人工衛星「東方紅1号」が打ち上げられた。人々はこの吉報を喜々として読んだ(新華社)

大国へ飛躍の礎築いた30

50年代、新中国はまだ帝国主義の軍事的脅威と核による威嚇にさらされている状況だった。これに対し、党中央は前後してミサイル、原子爆弾、人工衛星(「両弾一星」)の開発発展という戦略的決定を下した。

64年、中国は最初の原爆実験に成功。2年後、ミサイルを使用した原爆実験に成功。翌67年、最初の水素爆弾の実験に成功。70年、最初の人工衛星「東方紅1号」が打ち上げられた。これらの世界を驚かせた成果の背後には、共産党員を中心とした大勢の科学者がいた。彼らは苦労をいとわず(5)、名利を求めず、十年一日のごとくうまず仕事をし、ゴビ砂漠や深山幽谷で生活し、そこで尊い命をささげた人さえもいた。

米国で博士号を獲得した郭永懐は、帰国して「両弾一星」の開発に参加することを選び、61年に中国共産党に入党した。郭永懐は、祖国が一日も早く強くなり、永遠に侮辱されないことを望んでいるだけだと語った。

68年、郭永懐は飛行機の墜落事故で亡くなった。遺体が見つかった時、服は焼け焦げていたが、警護員としっかり抱き合ったままで、研究資料の入った書類かばんは二人の間には挟まれて無事だった。

鄧小平は後にこう述べている。「もし60年代以降、中国に原爆や水爆がなく、衛星を打ち上げていなかったら、中国は重要な影響力を持つ大国と呼べず、今のような国際的地位はなかっただろう」

同じ時期、中国は科学技術の面で多くのブレークスルー(突破)を実現した。65年、初のインスリン結晶の人工合成に成功。73年、毎秒100万回の計算速度を持つ集積回路コンピューターの開発に成功。同年、インディカ種ハイブリッド米の栽培に成功した。

また、共産党員の屠呦呦氏が研究チームを率いて72年、新しい抗マラリア薬アルテミシニン(青蒿素)の開発に成功し、全世界数百万人の患者の命を救った。その後も数十年にわたり、彼女は引き続きこの課題に黙々と取り組んだ。そして2015年、アルテミシニンの発見により、中国初の女性ノーベル賞科学者として医学生理学賞を受賞した。

まさに郭永懐や屠氏のように、国家の科学技術の事業は個人の名利や生命より重要だと考える科学者たちこそが、新中国の科学技術発展の礎を築いたのだ。

1971年10月、中華人民共和国は国際連合(国連)における全ての合法的権利を回復した。76年までに新中国と国交を樹立した国家は110カ国余りとなり、中国を取り巻く国際環境は大いに改善され、中国の国際的地位は大いに向上した。これは、その後の改革開放や国際的課題へのより積極的な対応のために有利な条件を創り出し、基礎を打ち立てた。これらの成果は、中国共産党が中国の社会主義建設の道を模索する好スタートを切った証しである。

しかし、模索の道は決して平坦ではない。中国共産党は新中国成立からの30年間、社会主義建設の経験が欠如していたため、実情から遊離したり、発展を焦って盲進したり、国内外の情勢への判断を誤ったりしたことにより、国の発展が一時的に回り道をしたこともあった。しかし、中国共産党は人民の声に応え、大衆の力をよりどころにしてさまざまな挫折を克服し、中国の社会主義建設を正しい軌道に乗せることができた。だからこそ、党が新中国成立からの30年間の模索において経験した成功と失敗、得た経験と教訓は、改革開放後の各事業の飛躍的な発展への準備となり、基礎となったのだ。(王焱=文)

 

人民中国インターネット版 202175

 

 

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