【中国共産党創立100周年】PART1 苦闘経て立てた五星紅旗

2021-07-08 10:36:21

 

1921723日、第1回党大会が上海で開催された。大会期間中、フランス租界警察の妨害が入り、代表たちは浙江省嘉興市に移り、南湖の遊覧船で議事日程を終えた。中国共産党の正式な成立を宣言した第1回党大会は、暗中模索していた中国革命にとって天地開闢とも言える偉大な意義があった。この遊覧船は「南湖紅船」と呼ばれるようになった

100年前の1921年7月23日から8月初めにかけて開催された中国共産党第1回全国代表大会(第1回党大会)で、中国共産党の創立が宣言された。これは中国にとって天地開闢(1)と言える一大事だった。暗黒の半封建半植民地社会で80年余りもがき模索していた中国人民は、ついに運命を変える道を見つけ、解放の希望を迎えた。

その後の28年間、中国共産党は中国の労働者階級の前衛隊として中国人民を率い、困難にめげず奮闘し、壮絶な戦いを乗り越え、帝国主義封建主義官僚資本主義という「三つの大きな山」の抑圧を覆し、「人民が国の主人公になる」新中国を樹立し、中国の新たな時代を切り開いた。

プロレタリアートの目覚め

1840年のアヘン戦争以降、帝国主義は中国への侵略の歩調を速め、腐敗した清朝政府は西洋の列強各国に不平等条約の締結を強いられ、中国は次第に半封建半植民地社会へと転落していった。

戦乱が続いて国土は分割され、人々が飢えと寒さに耐え、奴隷化されようという時、正義を貫く多くの志士たちが次々と立ち上がり、中華民族を存亡の危機から救おうと力を尽くした。その中には、科学技術を導入して国力の増強を目指した洋務運動、武装蜂起で平等社会の実現を目指した太平天国運動、西洋式の政治制度の確立を目指した戊戌の変法があった。しかし、いずれの抗争と模索も失敗に終わった。

1911年、孫文が辛亥革命を指導し、数千年にわたって中国を支配してきた専制君主制を覆し、民主共和制の中華民国を樹立した。辛亥革命は、半封建半植民地の社会状態と中国人の悲惨な運命を完全に変えることはできなかったが、中華民族の思想解放を推し進め、中国の進歩という流れの「水門」を開けた。

国を救うためには新しい活路を探さなければならない(2)。多くの愛国者は日本に渡り、国を救う真の方法を求めた。13年の冬、李大釗は日本に渡り、後に早稲田大学政治学科に入学した。留学中、李大釗は同じく人民のために民主と自由を求める理想を抱いていた陳独秀と知り合った。二人は日本でマルクス主義と出会い、それを中国の革命の道を照らす思想の「たいまつ」として心服した。

15年に前後して帰国した陳独秀と李大釗は、青年たちの啓発を目指した啓蒙雑誌『新青年』(発刊当初は『青年雑誌』、16年に改題)を創刊し、知識人と青年学生の中に「民主」「科学」の思想とマルクス主義を幅広く伝えた。17年にロシアで十月革命が勃発し、世界最初の社会主義国家となる「ソビエト」が樹立され、中国のマルクス主義者の国を救おうという信念を大いに鼓舞した。

しかし、19年1月に開かれたパリ講和会議によって、第1次世界大戦の戦勝国だった中国は、帝国主義に分割される危険にさらされた。会議の結果が伝わると、中国人民の積み重なった反帝国主義と愛国心の感情は火山のように爆発した。同年5月4日、北京の3000人余りの学生は天安門の前でデモ行進し、主権の擁護と不平等条約の撤廃を要求し、五四運動の幕が開けた。

デモのうねりはたちまち全国に広がり、主力も学生から労働者に代わった。このとき、中国の産業労働者はすでに200万人に達し、彼らが全国的なストライキを起こし、全国を揺るがす力となった。五四運動の期間中、マルクス主義は労働運動の中で急速に広まり、中国のプロレタリアート(賃金労働者階級)の革命的自覚を呼び覚まし、プロレタリアートが指導する中国の新民主主義革命は、ここに始まった。

四運動の後、マルクス主義を宣伝する文章は雨後のたけのこのように次々と現れた。20年5月、日本留学から帰国した陳望道は、日本語版と英語版を参考に初めて『共産党宣言』の中国語版を翻訳し、中国人に向けて史的唯物論と科学的社会主義の基本原理を全面的に系統立てて説明した。

毛沢東や蔡和森、周恩来、劉少奇らますます多くの愛国的進歩的青年が、マルクス主義への揺るぎない信仰を持って集まった。同年8月、陳独秀や李漢俊らは上海で中国初の共産主義グループを設立した。その後、北京や武漢、長沙、済南、広州などでも結党活動が相次いで展開された。中国共産党が正式に創立される条件はすでに整った。

そして、中国共産党第1回全国代表大会は21年7月23日、上海市のフランス租界内の望志路106号(現在の黄浦区興業路76号)で開かれた。会には、国内各地方と在日中国人が設立した初期の共産党組織が選出派遣した代表計13人が参加した。ところが30日夜、敵の密偵による情報漏れでフランス租界警察が会場を捜査し、これを包囲した。情報漏れに気付いた代表たちは事前に解散していて無事だったが、会議を続けて上海で開くことができなくなった。

そこで会議の最終日は、上海から約100離れた浙江省嘉興の南湖に会場を移し、遊覧船の上で全ての議事日程を終えた。会議は中国共産党の創立を宣言。代表の一人だった毛沢東は、「天地開闢と言える一大事だ」と感激し評した。

それ以降、中国共産党は中国人民を指導して民族の独立と人民の解放を勝ち取る征途に踏み出し、中国革命は希望の曙光を迎えた。

 

1928428日に江西省の井岡山で合流した毛沢東率いる秋収蜂起部隊と朱徳率いる南昌蜂起部隊。この合流により、革命武力が強大になり、また中国初の農村革命根拠地を固め拡大し、全国の革命事業の発展を促す上で深遠な意義があった

不屈の精神で「革命」追求

中国共産党は、創立当初から労働者を率いて資本家の圧迫と搾取に抵抗した。23年2月、京漢線(北京-漢口)の鉄道労働者がストライキを行ったが、北洋軍閥による血なまぐさい弾圧を受け、ストライキの指導者で共産党員の林祥謙ら52人が勇敢にも犠牲になった。

ストライキの失敗を受けて、中国共産党は孫文が指導する中国国民党と統一戦線を結成することを決めた。24年1月、「国共合作」(国民党と共産党の協力体制)が正式に成立した。しかし、「連ソ連共扶助工農」(ソ連と提携し、共産党と提携し、労働者農民を支援する)を主張していた孫文が25年3月12日に病死すると、国民党の指導権は蒋介石や汪精衛らの手に渡った。

27年、国共合作の指導による「列強の打倒と軍閥の排除」を目指した北伐戦争で次々と勝利していた頃、蒋介石グループは4月、汪精衛グループは7月に反革命クーデターを起こし、共産党員を公然と逮捕、殺害し、全国は白色テロに陥った。

こうした血なまぐさい嵐に見舞われても、中国共産党員は屈しなかった。党中央は、速やかに活動の重点を都市部から農村部に移し、農村で根拠地を建設し、土地革命を展開し、革命武装と労農政権を樹立する政策決定を下した。

27年8月1日、周恩来や朱徳らが率いる国民党軍の中の革命勢力は江西省の省都南昌で武装蜂起し、国民党反動派に対抗する最初の銃声を打ち鳴らした。南昌の城壁に響き渡った銃声は、闇夜を引き裂く稲妻のように中国共産党が自ら指導する人民軍隊を創設し、独立して革命戦争を指導し始めたことを宣言した。

同年9月9日、毛沢東らは湖南と江西の省境で農民を指導して「秋収蜂起」(秋収は秋の収穫)を起こし、初めて労農革命軍の軍旗を掲げた。さらに翌28年4月、毛沢東と朱徳はそれぞれ蜂起部隊を率いて江西省の井岡山で合流し、同地で最初の農村革命根拠地を築いた。

根拠地で、中国共産党は地主の土地を没収し、統一的に分配する方法により、地主から搾取の仕打ちを受けていた広範な貧しい農民に、「耕す者が自分の田を持つ」ことを実現させた。共産党のこうしたやり方は農民たちに信頼、擁護され、紅軍に入隊することを栄誉と思い、根拠地は急速に強大化した。わずか数年のうちに全国で十数カ所の農村革命根拠地が樹立され、労農革命軍の規模も30万人ほどにまで拡大した。

3111月、中華ソビエト第1回全国代表大会が江西省瑞金で開かれ、中華ソビエト共和国臨時中央政府の成立を宣言した。これによって、中国共産党は中国史上初の全国的な労農政権を樹立した。

「小さな火種」だった革命勢力が次第に野原を焼き尽くす勢いになるのを見た蒋介石は、国民党軍を動員し、30年から33年まで江西福建広東の省境にある中央革命根拠地に対して5回にわたる「包囲討伐」を行った。

3410月、党中央は紅軍を率いて中央革命根拠地から撤退し、「長征」と呼ばれる戦略的大移転を始めた。長征途中の35年1月、党中央は貴州省の遵義で会議を開き、「左寄り」の冒険主義と教条主義の誤りを是正し、毛沢東の正しい主張と指導的地位を確立した。この会議は、再び存亡の瀬戸際で党を救い、中国革命を救った。

苦難に満ちた2万5000華里(1万2500)の行軍――とうとうと流れる激流を渡り、急峻な雪山を踏破し、果てしない草原を抜け、敵の包囲追撃に打ち勝ち、3610月、党中央と紅軍の主力方面軍は、ついに陝甘寧(陝西甘粛寧夏)の各根拠地にたどり着いた。その後、中国共産党は陝西省北部の延安を中心に、中国の革命を新たな段階へと導いていく。

救国へ共同で抵抗も……

31年、日本軍は「九一八事変」を起こし、中国の東北部を占領し、さらに華北地域も狙った。35年8月1日、中国共産党は「八一宣言」を発表し、内戦を停止し共同で日本への抵抗を呼び掛けた。この主張は社会の各界から幅広い賛同を得た。党の指導の下、全国で抗日救国運動の高まりが起こった。

全国からの政治、世論の圧力、さらに国民党内の愛国的な将校による蒋介石への忠告や監禁(西安事件)を受けて、蒋介石は3612月、共産党に対する討伐作戦をやめ、共産党と共同で日本に抵抗することを約束した。

37年7月7日、盧溝橋事件が起こり、日本軍は全面的な中国侵略戦争を発動した。党中央は全国に向けて電報を打った――「北平(北京)と天津が危うい! 華北が危うい! 全民族が一丸となって抗戦を行ってこそ活路があるのだ!」

 同年9月、蒋介石は共産党の合法的地位を認め、国共両党の協力(国共合作)を基礎とする抗日民族統一戦線を作り上げた。紅軍は国民革命軍第八路軍と新四軍に再編成され、共産党の指導の下で国民党軍の作戦に積極的に協力した。また一方で日本軍の占領区でゲリラ戦を展開し、抗日根拠地を切り開いた。

全面的な抗日戦争の初期、戦況の変化により、「速勝論」や「亡国論」などの論調が大いに盛り上がった。これに対し毛沢東は、「持久戦論」と題した5万字余りの文章を一気に書き上げた。文章は中日双方の状況を深く分析し、中国人民が長期にわたる抗戦によって最後の勝利を勝ち取る客観的な根拠を並べ、人民大衆の抗戦への信念を固め、抗日戦争の勝利に導く思想的武器となった。

抗日根拠地では、中国共産党は民主、小作料と借金利子の軽減、自力更生、経済の発展を推し進め、各階級各階層を一つに団結させた。愛国華僑の指導者陳嘉庚は40年、延安を訪れ、ここでは軍民が助け合い、兵士と士官が平等であり、全ての人々が活気にあふれているのを目にした。生活条件が厳しく、毛沢東は窰洞(黄土の崖を掘った横穴式住居)の中で簡単な食事でもてなすしかできなかったが、陳嘉庚は大変おいしく感じたという。当時、国民政府のある重慶で見た国民党のぜいたくを極め腐敗した様子と対照的に、陳嘉庚は「中国の希望は延安にある」と感慨深げに断言した。

45年8月15日、昭和天皇は太平洋戦争の無条件降伏を告げる「終戦の詔書」を読み上げ、中国の抗日戦争は勝利を迎えた。8年間続いた抗日戦争の中、中国共産党は抗日軍民を指導し、計12万5000回余りの戦闘を繰り広げ、日本軍とかいらい軍計171万4000人余りをせん滅し、面積約100万平方、人口約1億人の解放区を打ち立て、抗日戦争の全面的な勝利のために不滅の貢献を果たした。

全土を解放、新中国が成立

抗日戦争の勝利後、中国人民は平和な生活を望んでいた。45年8月28日、毛沢東は延安から重慶に飛び、中国共産党が平和を求める誠実な願いを抱き、国民党と連合政府樹立の交渉を展開した。中国共産党が大きく譲歩した後、1010日、国共双方は「双十協定」を締結し、各民主党派や社会の名望家らが出席し、平和的な建国案を議論する政治協商会議を開催することで合意した。

しかし、専制独裁をたくらむ蒋介石が中国共産党を容認するはずがなかった。46年6月、蒋介石は横暴にも「双十協定」を破棄し、国民党軍に解放区への大挙進攻を命じ、全面的な内戦を引き起こした。このとき国民党は、中国共産党の127万人の3倍以上の約430万人の兵力を擁し、しかもほぼ全ての大都市を支配し、その面積は全国の約70%を占めていた。双方には圧倒的な実力差があったが、人心の離反はすでに戦争の勝敗を決める重要な鍵となっていた。

国民党の支配地域では、同党の支配層を代表とする官僚ブルジョア階級が思いのままに独占、暴利をむさぼっていた。役人は汚職で腐敗し、軍隊は横暴を働き、政府は重税を搾り取り紙幣を乱発したため、ハイパーインフレを招き、人々は塗炭の苦しみを味わった。現代中国画の巨匠斉白石はかつてこう言った。「お焼き1個が数十万元もした。心血を注いで絵を1枚描いても、お焼きを何個も買えなかった」。記録では、46年だけでも北平で6500人余りが飢えと寒さで死亡した。同じ時期、解放区で中国共産党は、「誠心誠意人民に奉仕する」ことを党規約に盛り込み、党員の行動指針とした。

46年、党中央は解放区で土地改革を行った。農民は土地を手に入れただけでなく、解放され、解放区の主人公となった。今年88歳の日本人、砂原恵さんは、中国共産党が自分の人生を変えたことを今も忘れられない。戦後、家族と共に中国に残留した砂原さんは、小作農として生計を立てていた。

土地改革で砂原さん一家は優先的に良田を分け与えられた。そうして地主から手間賃の上前をはねられ、地主家族の残飯で腹を満たす生活から抜け出した。若い砂原さんは他の村民と同じように、中国共産党に付いていけば良い暮らしが送れると知った。党への感謝の思いを抱いて、砂原さんは人民解放軍に加わり、国民党の支配を覆す解放戦争に身を投じた。

中国共産党の正しい指導と人民大衆の力強い支持の下、解放軍は46年から49年にかけて国民党軍の主力を完全に撃ち払った。そして49年4月22日、南京の総統府に革命の勝利を象徴する紅旗が掲げられ、国民党の反動的な支配は終焉を告げた。

49年9月、中国人民政治協商会議第1期全体会議が北平で開かれた。中国共産党や各民主党派、無党派民主人士、人民団体、海外の華僑など各方面の代表からなる662人が一堂に会し、新中国成立に関することについて議論した。会議は「中国人民政治協商会議共同綱領」を採択し、中華人民共和国は労働者階級が指導し、労農同盟を基礎とし、民主的諸階級と国内諸民族を団結させる人民民主主義独裁の国家であると規定した。同会議で、毛沢東は世界に向けて「人類全体の4分の1の人数を占める中国人は、ここに立ち上がった」と厳かに宣言した。

1949年10月1日、中華人民共和国の開国式典が北京の天安門広場で行われた。紅旗がはためき熱狂に包まれた広場に、空高く「中華人民共和国万歳」の歓声が響き渡る中、新しい中国は光り輝く朝日のように世界の東方から昇った。(李家祺=文) 

 

人民中国インターネット版 202175

 

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