PART1 産業と教育で未来への道

2021-12-23 12:10:01

沈暁寧=文

中国南西部にある雲南省の怒江州は、担当力卡山と高黎貢山、碧羅雪山、雲嶺山脈の四つの大山がそびえ、独龍江と怒江、瀾滄江の三つの大河が渓谷をうねうねと流れ、「四つの山が三つの川を挟む」という奇観を作り出した。

「地球のしわ」と呼ばれるこの地には55万7000人が住んでおり、リス族やヌー(怒)族、トーロン(独龍)族、プミ(普米)族など22の少数民族が人口の90%以上を占める。その62%は新中国成立後に原始社会から社会主義社会に直接移行した「直過民族」だ。山が高く、谷が深く、川の流れが激しいこの土地は古くから「極度貧困地域」だった。現地の貧困発生率はかつて56%に達した時期もあり、中国の貧困脱却の堅塁攻略戦においても最も攻めにくい「堅塁」の一つだった。

 

完成した美麗幹線道路と高速道路は怒江州の人々に貧困脱却の道を歩ませた(新華社)

 

山奥から続く裕福への道

山間部の険しい地形や辺境の閉塞的な環境、多民族の混在、宗教要素の複雑さなど、怒江州一帯には世界の貧困問題の要因がほぼ全て重なっている。今世紀に入っても、地元民は川を渡る手段としてごうごうと流れる怒江の上で揺れるロープと滑車に頼っていた。また、地滑り、山崩れ、土石流などの土砂災害も頻発し、人々は長年大自然との闘いの中で厳しい生活を送っていた。

2012年の第18回党大会以降、全国で貧困脱却の堅塁攻略戦が繰り広げられる中、党中央と政府は怒江州の人々を貧困から徹底的に脱却させる決定を行った。15年1月、習近平総書記は雲南省の省都昆明市で怒江州貢山トーロン族ヌー族自治県(以下、貢山県)のトーロン族の幹部や村民の代表と会見し、「小康社会の全面的完成には、どの民族も取り残されてはならない」と述べた。17年2月、習総書記は、怒江州は貧困対策の重点地域の一つで、若干の慣例を破る措置で貧困脱却を後押ししなければならないと指摘した。また、習総書記は14年1月と19年4月、貢山県独龍江郷の村民からの書簡に返信し、「より良い生活は待っている」と自信付けた。

党中央の指揮の下、中央政府と省政府の財政部門は資金の統合を行い、怒江州への貧困救済の資金投入を拡大し続けた。大まかな統計によると、1419年、中央と省の財政投入による貧困救済資金は約330億元だった。また、東部と西部の協力プログラム「東西貧困救済協力」において、広東省の珠海市は累計で13億6000万元の支援金を投入した。さらに、救済対象を特定したプロジェクトにおいて、中国交通建設グループや三峡グループ、大唐グループなどの企業は累計で救済資金21億元を投入した。各方面からの支援は怒江州での貧困脱却の堅塁攻略戦の展開に確固とした資金的保障となった。

現地に目を向けると、怒江州党委員会と怒江州政府は習総書記が貧困救済について定めた方針を貫き、貧困脱却の堅塁攻略を経済社会の発展の中心とし、農村部の貧困人口の衣食問題の解決、義務教育基本的医療住居の安全の保障に取り組んだ。また、貧困救済対象確定個別措置実施プロジェクト実施資金運用要員派遣の的確化を図り、生産の発展や移転移住、生態補償、教育の発展、社会的保障で、貧困人口をそれぞれ部分的に貧困から脱却させ、極度の貧困という「堅塁」の攻略に全力を尽くした。

その中で、いくつもの感動的な、人々に励ましや喜びを与えるような物語や、一考に値し大切にすべき貴重な経験が生まれた。

 

怒江州福貢県の老姆登村では、現地の人々がスマートフォンを使って、経営している旅館から怒江大峡谷の美しい風景をライブ発信し、観光客を誘致している(新華社)

 

麓で始まる新しい生活

臘新梅さんの家はもともと高くそびえる高黎貢山の山中にあった。中国とミャンマーとの国境にある高黎貢山は南北に数百連なり、怒江と碧羅雪山と共に雄大な怒江大峡谷を形成している。この峡谷の両側の高山には多くの村落が点在しており、福貢県の匹河ヌー族郷にある棉谷村もその一つだ。

臘さんは棉谷村に30年近く住んでいたが、2年前に山の麓にある新居に入居できるようになったと聞いて、真っ先に引っ越した。「山中での生活はもううんざりでした。大きめのペットボトルの食用油を買ったら、家まで背負ってもうくたくたです」。山間部に住んでいたころ、彼女の息子は通学に片道3時間かかり、未明に家を出て夕暮れにやっと帰れるという日々だった。市場で1袋25元のセメントは山に運ばれると200元になり、れんが造りの住宅はかなわぬ夢だった。

山を動かせない以上は、引っ越しするしかない。より住みやすい土地への移転移住による貧困救済で、臘さんには山の麓に建てられた集中移住団地の新居が割り当てられた。テレビとソファー、ローテーブルは政府の提供によるもので、自費で床タイルを敷いて、テーブルと冷蔵庫を購入した。ベランダにはランやユリなど山から採ってきた植物が十数鉢並んでいる。3歳の娘はすぐにここの新しい生活になじみ、ハムスターをペットとして飼った。

現在、臘さんは家の近くで青果店を営んでいる。出稼ぎの夫をふるさとに呼び戻して美容室を開業することも計画しているという。「団地には1200人余りが住んでいるので、ヘアカットはきっといい商売になるでしょう」と彼女は夢を語った。

団地内には村の歴史を紹介する施設がある。竹の壁とかやぶき屋根というヌー族の伝統的な「千脚楼(斜面の多い地形に長い柱を突き立て、その上に造った建物。日本の懸造りに似ている)」で、中には木椀や竹籠、弓などの生産生活用具、村民が代々使っていたいろりが展示されている。施設内に飾られている一組の写真は、5世代にわたるヌー族の住宅の変遷を示している。1枚目の写真がかやぶき屋根の住宅、2枚目がフェルト屋根の住宅、3枚目が石綿含有屋根の住宅、4枚目がガルバリウム鋼板屋根の住宅で、5枚目に写っているのが、コンクリート造りの新しい住宅だ。「ほら、これまでは屋根が変わっただけですね」と引っ越ししてきた高齢の和付益さんは感慨深そうに言う。「今の住宅は立派です。これまで考えたこともないほどです」 怒江州の納雲徳党委員会書記はこう話す。かつて多くの貧困人口は険しい奥山や渓谷に住んでいて、痩せた土地で食べていくのもやっとだった。貧困脱却の堅塁攻略戦で、同地は現地の歴史で最大規模の移転移住活動を行い、10万人の貧困人口が山から下りて集中的に定住するようにさせ、長年の貧困問題を解決できた。

移転移住後の現地を衛星画像で見ると、古い村落はいずれも姿を消し、その跡地は緑がよみがえって山々と一体になっていた。

 

怒江州瀘水市の双米地村。2013年はロープで川を渡るしかなかった。16年、ロープは安全で広い橋となった(新華社)

 

道の開通で生活が一変

独龍江幹線道路にある高黎貢山トンネル内に設置された照明は虹のように鮮やかだ。トーロン族は、虹は幸せをもたらすものと信じており、虹柄の民族衣装を着て、建物の壁には虹の模様を描き、橋も虹のように装飾している。そこで、彼らは自分たちの運命を変えてくれた道路のトンネルにも虹の彩りを添えた。

貢山県独龍江郷に集まって生活しているトーロン族はかつて、長い間外部の世界と隔絶された生活を送っていた。1964年、地元政府は馬で物を運んで高黎貢山を越える道を切り開いた。毎年大雪が山の交通を遮断するまで、山から馬隊商(3)の鈴音が響きわたり、隊列をなしたラバが食糧や塩、医薬品などを村に運んでいた。 独龍江郷龍元村に住む和暁永さん(41)は若いころ、馬隊商にいた。「村から県の中心地まで往復12日間かかり、大変でした。地滑りや落石、雪崩などがいつ起こってもおかしくないから、毎回命懸けでした」

99年、村に一般自動車道が開通した。初めて村にやってきた車を目にしたトーロン族の人々は老若男女問わず、皆進んで手を出して奇妙な「鉄の牛」に触った。馬隊商が歴史の表舞台から消えていくにつれ、和さんは馬を売り、さらに数年貯金して、トラクターを買って運送業を始めたという。

しかし、大雪で道路が封鎖されると村が外部と隔絶されてしまうという問題はまだ存在した。2012年、道路の改修工事が始まり、通年通行を実現するために、高黎貢山の雪線以下で668のトンネルを新たに建設することになった。14年4月10日、高黎貢山トンネルが全線貫通し、トーロン族は大雪による交通遮断の歴史に別れを告げた。

新しい道路ができて、トーロン族は貧困脱却の歩みを速め、現代文明に積極的に触れた。ますます多くのトーロン族の家庭がマイカーを持つようになる中、19年末、交通運輸部の支持の下、全長288の怒江幹線道路にまた改修工事が行われ、峡谷の中の町や集中移住団地(4)、観光地がつなげられた。沿線では緑豊かな景観も作られ、百も続く画廊のような光景の道は「美しい道路」(美麗幹線道路)の名で呼ばれている。

人々をより貧困脱却に奮い立たせたのは他にもある。怒江幹線道路以外に怒江地域の行政村レベルの道路の舗装率(5)も100%に達した。保山―瀘水高速道路の開通は同地域に高速道路がなかった歴史に終止符を打った。蘭坪空港の開港は同地域の人々の「飛行機に乗る夢」をかなえた。怒江と瀾滄江にぶら下がる36の滑車は全て頑丈な橋に変わった。1000年にわたり同地の人々を苦しませ、立ち遅れていた交通手段は歴史的な飛躍を遂げた。

美麗幹線道路によって、沿線の30万人の人々の移動がより安全、快適になっただけでなく、同地の観光業も活気付いた。アウトドア体験ツアーの愛好者たちが続々訪れ、怒江の壮麗な景色を楽しみ、ウイーチャット(中国版LINE)のモーメンツ(タイムライン機能)を使って、「怒江の絶景はもう隠せないぞ」「俗世から天国まで、なんと6時間で着けるんだ」などの感想を共有した。前出の和暁永さんは観光業の将来を見込んで、運送業をやめ、民宿業を始めた。こうして、生まれ育った土地を離れなくても裕福で幸せな生活を送れるようになった。

現実的で効率的な農業

3年前の秋、普路恒さんは代々耕作してきたトウモロコシ畑で香料としても使える薬草のソウカを栽培する決断をした。  怒江州福貢県鹿馬登郷の亜坪村に住む普さんは、自宅の前と後ろ、近くの切り立った崖と険しい丘の至る所にトウモロコシが植えられていたことをはっきりと覚えている。「トウモロコシをしっかり育てればおなかがすくことはない」という父親の最期の言葉を守り、普さんはトウモロコシを大切に育ててきた。

しかし、大峡谷で栽培されたトウモロコシは生産性が低く、1ムー(0067)当たりの生産量が100余りにすぎなかった。これでは家族の空腹を満たせても、豊かになることは不可能だ。また、険しい丘での耕作は土壌流出を深刻化させ、地滑りや土石流などの土砂災害を引き起こす恐れがあった。

「トウモロコシ栽培に活路はない」。村に駐在する貧困救済作業チームは村民会議を招集し、収入を計算し比較した結果、政府から種と苗が提供されるソウカの栽培を村民に勧めた。しかし会議後も普さんは何も言わずトウモロコシを植え続けた。

作業チームによる幾度もの働き掛けの末、半信半疑ではあるがソウカ栽培を始める村民が現れた。数年後、彼らの生活に変化が起きた。砕いたトウモロコシを蒸したご飯からお米のご飯に、1日2食から3食に、竹壁とかやぶき屋根の家かられんが造りの家に……。

村のトウモロコシ畑は徐々に小さくなっていった。2018年には普さんの10ムーの畑が、村唯一のトウモロコシ畑となった。これ以上じっとしていられなくなった普さんはトウモロコシ栽培をやめ、ソウカ栽培に切り替えた。「もっと早く植えればよかった」と普さんは悔しげに話す。

その後、除草機を購入した普さんは丹精込めてソウカを育てた。いよいよ収穫を迎える今年、普さんが願うのは豊作だ。

怒江州でソウカを主とする香料作物の栽培面積は144万ムーある。怒江州林業草原局の呂超局長によると、19年の農民1人当たりの林業による収入は約3000元で、可処分所得の40%以上を占めた。条件の悪い農地を森林に戻す事業や植生回復事業に取り組み、地理的優位性と豊富な生物資源を生かし、林業経済を発展させることなどを通して、怒江州は美しい自然をかけがえのない宝物にしている。また、貧困人口のうち、3万人が森林保護員になり、2万人以上が生態系維持回復事業に加わった。怒江州では、新たな発展理念によって人と自然が共生調和しながら共に発展していく。

大学への道 着実に拡大

李金明さん(54)は独龍江郷初の大卒者だ。小学生の時、李さんは毎日放課後、川岸にブタの餌となる草を取りに行ったり、山にまき拾いに行ったりしていた。やることがいっぱいあったが、李さんは欠かさず登校して勉強に励んだ。

小学校卒業後、李さんは貢山県第一中学校に通うことになった。学校が家から遠く、さらに大雪による山道閉鎖期間が長いため、学校の宿舎に暮らして年に1回しか家に帰ることができなかった。そして帰省時は学校の同郷の生徒と一緒に食べ物や毛布、ビニールシートなどを持ち、昼間は道を急ぎ、夜は野宿し、いくつもの山を越えて1週間近くかけてようやく実家にたどり着いた。

当時、学校の施設は粗末だった。宿舎は竹で造られ、冬になると風があらゆる隙間から吹き込み、まきを燃やして暖を取ることしかできなかった。また、李さんの家庭は経済状況が厳しかったため、生活費の大半は彼が苦学して稼いだ。「父が歩荷や運送の仕事をしても、稼げるのは月に10元程度でした。私は月に75のまきを学校に提供することで、3元の食事代に充てることができました。学費は全て国から援助され、家は1元たりとも負担できなかったです」と李さんは振り返る。

生活は苦しかったが、李さんは少しも勉強を怠らなかった。「学校に通えるのは当たり前のことじゃなかったんです。その時、必ず独龍江郷から出て、この貧困地域から出て行くと心に誓いました」

1982年、李さんは学校からトーロン族の生徒代表に選ばれ、北京の全国少数民族サマーキャンプに参加した。「先生たちはまともな服もなかった私のために、民族衣装を縫製してくれました。それを着て北京に行きました。とてもうれしかったです」と李さんは当時の気持ちを明かす。

李さんは北京でその他55の民族の代表生徒と共に天安門や故宮、天壇を見学し、視野を広げた。その時、「大学に絶対合格する」と決意した。

高校入試の出願時、李さんは願書に「中央民族大学付属高等学校」(北京の有名校)と迷わず書き込んだ。試験の手応えはあったが、2カ月たっても入学通知書は来なかった。志望校に落ちたと思った李さんは落胆した。

同年10月のある日、雲南省教育庁学生募集弁公室に中央民族大学付属高校から電話が来た。「怒江州の生徒の一人を合格にしたのに、新学期が始まって1カ月以上たつがどうして入学手続きをしに来ないのか」という内容だった。

間もなく電話が貢山県に届き、紆余曲折を経て李さんはやっと合格の吉報を受け取った。李さんは荷物をまとめてすぐ出発し、7日後に貢山県の中心地に着き、学校が援助した120元を持って北京への進学の道を踏み出した。翌年10月、李さんは大雪のため村に届かなかった入学通知書をようやく手にした。北京での高校生活が始まってからもうすぐ1年になろうとしていた。

その後、李さんは大学入学の夢をかなえた。90年7月に雲南民族学院(現雲南民族大学)を卒業し、雲南省社会科学院民族文学研究所に配属された。

現在、李さんは同研究所の副所長になっている。長期にわたり民族文化、民族民間文学の研究、とりわけトーロン族の関連研究に取り組んでおり、13冊の著書を出し、70編以上の学術論文を発表した。

進学の道を振り返り、李さんは「党中央の配慮と政策がなければ、独龍江郷から出ることはあり得ず、大学生になることもあり得なかったです」と感慨深げに話した。 李金明さんと比べ、1990年代生まれの李英さんの進学の道はかなり平坦だった。貢山県の中心地にある学校に通っていた頃、独龍江郷に通じる自動車道路がすでに開通しており、山からの出入りが容易だった。甘粛省蘭州市の大学で学んでいた頃、李英さんのふるさとがクラスの中で一番遠かったが、彼女は大変だとは感じなかった。独龍江郷のインフラがかなり整備され、道路の沿線も活気にあふれていたからだ。

昨年、蘭州市の西北民族大学の修士号を取った李英さんは、ふるさとに帰って村の小学校の教師になる道を選んだ。

「勉強で運命を変えることは最も人々から受け入れられる人生の逆転方法です。今の独龍江郷で教育を重視しない人はいません」と李英さん。近年、貢山県は少数民族の子どもを誰一人取り残さないように、高い給料で優秀な人材を引き寄せ、高い資質と能力を備えた教師が次々と独龍江郷に根を下ろすようになった。これまでに、現地のトーロン族の中で博士号取得者は3人、修士号取得者は2人、大卒者は29人いる。独龍江郷で小学校の適齢児童の入学率は100%に達し、義務教育段階での中退率はゼロだ。

独龍江郷は教育扶助による貧困救済(6)の縮図だ。2016年から、怒江州は義務教育のバランスの取れた発展に取り組み、各レベルの教育奨励援助メカニズムを充実させ、就学前教育(4~6歳)から高校教育までにわたる児童生徒の援助体制を確立し、貧困世帯の児童生徒への支援策を着実に実行してきた。怒江州では、支援を受けた児童生徒は10万人近くに上り、貧困の世代間連鎖(7)を効果的に断ち切った。

昨年11月末までに、怒江州は貧困脱却の堅塁攻略において決定的な成果を上げ、長年にわたる貧困に終止符を打った。貧困状態にあるとされた26万9600人は全て貧困から抜け出し、貧困が深刻な四つの県は全て貧困県というレッテルを返上し、世界の貧困削減事業の参考になる「怒江の奇跡」を起こした。

 

農業技術者の指導の下、怒江州瀘水市に住むリス族の人々が栽培したミカンは豊作となり、収入が増加した(新華社)

 

怒江州福貢県の托坪村住民の移転先では貧困支援工場が置かれ、住民たちは野球用品の縫製で所得を倍増させた(新華社)

 

大峡谷の中に建てられた怒江州独龍江郷中心学校には500人以上の生徒がいる。子どもたちは近代的な校舎で優れた教育資源を享受している(新華社)

 

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