PART1 各世代の学びのきっかけ

2022-02-17 20:39:24

日本語学習者が日本語の世界に進むきっかけは人それぞれだ。現実的に考えた者、理想を求めた者、なんとなく選んだ者、明確な目標を持った者……だが何であれ、なにがしかの時代的背景が存在する。ここでは世代・出身地が異なる日本語学習者の声を集め、彼らのエピソードから中国における日本語教育の歴史の大河を復元してみたい。

 

日本人教授の人格的魅力に心打たれました

 

徐一平 1956年生まれ、北京市出身。小学3年生から日本語を学ぶ。81年に「全国日本語教師養成訓練クラス」の第2期生となる。

60年代初め、国際情勢の変化に対応し、新中国成立初期のロシア語一辺倒の状況を改めるため、周恩来総理は全国規模での英語教育の展開と、国際連合(国連)公用語の6言語を含む多言語教育を発展させるよう提起しました。そして全国各地でマイナー言語を教える外国語学校が開校し、私が学んだ北京市外国語学校もその一つでした。そこは小学3年生から中高までの一貫教育を実施しており、日本語クラスも開設していました。国連の公用語ではない日本語がマイナー言語授業に組み込まれたことから、中国にとっての日本の重要度が見て取れます。当時、私たちの教師の大半は陳独秀と同時期に日本に留学した年配の留学生や華僑で、博学で人望も厚かったです。高校卒業後、私たちは教師として北京市内のマイナー言語教育が行われている中学校に配属されました。

77年に高考(全国統一大学入学試験)が再開し、私も北京外国語大学に入り日本語学科(現在は日本語学院)で引き続き勉強し、卒業後は同大学の教員になりました。まさにその頃、大勢の若い日本語教師が大学卒業後に教職に就きましたが、彼らに対する講義能力の養成は空白のままでした。そこに大平正芳首相(当時)が79年の訪中時、中国のために優秀な日本語教師を養成する「全国日本語教師養成訓練クラス」(通称「大平学校」)の設立を提起しました。大平学校で私たちを教えてくれたのはみな日本から派遣されてきた大学教授です。そこで私たちは、より奥深い日本文化の知識と日本語の教育方法を学んだだけではなく、日本に関する問題の研究方法にも触れました。大平学校が中国の日本語教育・研究の強固な基礎を築いたといってもいいでしょう。

その後、大平学校は北京日本学研究センター(北京外国語大学内)となり、引き続き中国の日本語教育・研究界でけん引役を果たしてきました。大平学校または日本学研究センターの学生の多くが日本人教授の優れた人格的魅力に心打たれ、彼らを追って日本へ渡り、引き続き勉学に励みました。私もその一人です。そして日本での留学中に子どもが生まれました。私と妻が慣れない異国で右往左往していた時、大平学校の日本側主任教授を務めた佐治圭三先生ご夫婦がわが家を訪れ、赤ん坊のお風呂の入れ方まで手取り足取り教えてくださったことは生涯忘れません。

 

「大平学校」第2期生が箱根を訪問した際の記念写真(写真提供・徐一平)

 

日本語版『人民に奉仕する』は今も全文そらんじることができます

 

王衆一 1963年生まれ、遼寧省瀋陽市出身。地元中学校で2年生から日本語を学ぶ。

70年代末にちょうど私が通っていた中学校で日本語の授業が始まりました。当時の教科書の冒頭には、「革命のために日本語を学びましょう」「パンダとサクラは中日友好のシンボルだ」といった極めて概念的な単語や文章が並んでいました。北方四島の名前は日本語で読めますが、日常的な表現はラジオ講座を除けば触れることは少なかったです。ヒアリングを鍛えるために、レコードの日本語版『人民に奉仕する』の朗読に合わせて音読したおかげで、今でもそらんじることができます。音質が悪かった日本語版の『君よ憤怒の河を渉れ』が映画館で珍しく上映されると、「れんが」と呼ばれていたパナソニックのテープレコーダーを映画館に持ち込んでセリフを録音し、貪るようにまねして暗唱したことは今も記憶に新しいです。そうした環境で、私はトリッキーな方法で日本語を学ぶ中高時代を経験しました。

当時としては国内一流の教員陣を誇る吉林大学日本語学科に入学後、私は規範化され系統立った本格的な日本語学習を開始しました。発音の矯正からスタートし、日常会話における語彙力不足を補うまで学び、大学と大学院の7年間でそこそこ規範化された堅実な語学的基礎を固めました。学科での精読と多読、大学内のわりと自由な他学部聴講、院生時代のゼミを経て、聞く・読む・話す力が向上しただけでなく、日本語による思考力も鍛えられ、リベラルアーツ(教養)の知識も身に付けました。

人民中国雑誌社で働き始めてから、各記事のタイトルを決める会議や翻訳・原稿修正などで日本人スタッフと日常的に交流する中で、日本語の応用表現で再び洗礼を受けました。そして90年代初めに東京大学で1年間研修し、教育、メディア、日常生活における日本語の違いを認識しました。その1年で雑誌、映画、小説などの生き生きとした表現に興味を持ち始め、異文化コミュニケーションの中で翻訳の役割を考えるようになり、自身の文化的主体性(文化受容における主体性)を確立しました。

 

日本語版『老三編』(『べチューンを記念する』『人民に奉仕する』『愚公、山を移す』)のレコード(写真提供・王衆一/人民中国)

 

日本語を学ぶことは格好いいことでした

 

周異夫 1969年生まれ、吉林省長春市出身。中学1年生から長春外国語学校で日本語を学ぶ。

長春市は日本人が都市設計を行ったこともあり、現地の人々の日本文化への受容性は割合高いです。私が中学校に通っていた頃はちょうど改革開放の初期で、中国と日本の交流も日増しに緊密になっていましたが、日本語人材は非常に不足していました。あの時代の人々は、外国語を学べば外交官になれて、とても体裁のある仕事に就け、生活の各方面で保障を受けられるという認識でした。そのため、両親は私に外国語を学ばせようとしました。子どもだった私は主に両親の意思で長春外国語学校で日本語を学び始めました。入学後、学校から生徒全員にイヤホンが支給され、教室内の視聴覚機器を使ってリスニング教材を聴くことができました。図書室のある中学・高校が極めて少なかった時代に、私たちは校内の図書館に大量にあった外国語の書籍を読むこともできました。要するにその時代は、日本語を学ぶことが格好いいことだと思われていたのです。

 

 

上海の開放的な雰囲気に驚かされました

 

高潔 1974年生まれ、吉林省長春市出身。中学1年生から長春外国語学校で日本語を学ぶ。

東北地方は歴史的な要因により、日本語を学ぶ社会的風土があり、日本語教育の蓄積も深かったです。ただし、全体的に北と南では、外国に対する感覚がずいぶん違うところがあるような気がします。上海外国語大学日本語学科に入学した当初、上海の様子が地元の長春の状況と大きく違うことに気付きました。例えば、上海出身の同級生のほぼ全員が留学を希望し、給料が高い日系企業に勤めることを目標にしていましたが、長春では、留学とは勉強ができない人がするものだとさえ考えられていました。しかし改革開放最前線の上海に来て、そのような考えは完全に覆されました。大勢の人が日本留学を、視野を広げる最善のルートと捉え、ビジネス社会に入り日本と貿易をすることが裕福になれる最速の方法と見ていたのです。



テレビで『聖闘士星矢』と『東京ラブストーリー』を見ました

 

林崇珍 1980年生まれ、福建省龍岩市出身。北京外国語大学入学後、日本語を学ぶ。

北京外国語大学に入学したのは90年代末です。その頃、マイナー言語習得者の雇用面でのメリットは歴然で、特に日系企業は収入面で中国のほとんどの国有企業や政府機関の数倍でした。田舎出身の私は、当時は世事に疎く、先生に言われるがまま志望大学を記入しました。担任から、外国語を学ぶと就職にとても有利だと言われ、外国語大学を志願先とするよう勧められました。しかしもう6年も英語を勉強していた私は、専攻分野を変えたかった。その時、日本語という選択肢が頭の中にはっきり浮かびました。いま思い返すと、最大の理由はテレビで見た日本のアニメとドラマです。

 その頃、地元のテレビ局が放映権を購入して放送した『聖闘士星矢』と『東京ラブストーリー』が人気で、さらにCCTV(中国中央テレビ局)で『標準日本語』という語学番組が毎週放送されていました。そのおかげで、日本語は私にとって親しみがありました。

  

 

私の青春のそばには日本の漫画・アニメがありました

 

李家祺 1994年生まれ、山東省青島市出身。国際関係学院入学後、日本語を学ぶ。

小学生の頃は毎日テレビで『ポケットモンスター』『テニスの王子様』、中学生になったら『ハンターハンター』『ブリーチ』を欠かさず見てました。『名探偵コナン』の単行本は80巻そろえました。振り返ると、私の学生時代のそばには日本の漫画・アニメがありました。小学校のころはインターネットが今ほど発展していなくて、ネット掲示板で漫画を配信するサイトを探したり、動画サイトで日本のアニメを見たりしていました。その頃のインターネットの通信速度は不安定で、同時視聴者数が増えるほど動画がカクカクしました。そこで私は、朝の5~9時の通信速度が一番スムーズな時間帯に両親の部屋のドアを閉めて、リビングのパソコンでアニメを見て、両親が起きる時間になったら自分の部屋に戻って寝ているふりをしました。これは私の夏休みと冬休みの日常になりました。

また、日本アニメが好きだったため、高校に上がる前に独学で五十音を覚えました。2000年代は中国が子どものさまざまな素質や人間性の育成を図る「素質教育」を全面的に推し進め始めた時で、学校では生徒が参加する放課後のクラブ活動を運営できました。私が入ったのは日本語クラブです。生徒たちはみな漫画・アニメ文化に影響を受けていたため、日本語クラブはマイナー言語クラブの中で一番人気でした。そのクラブでは主に簡単な日本語を教わります。

私の高校には毎年、日本から帰国した華僑が1人か2人いたので、彼らがその部長となります。高校2年生の頃はたまたまそのような生徒がいなかったので、私が副部長になって、みんなに日本語を教えるようになりました。初心者向けの編集ソフトを使って、日本のアニメからさまざまなあいさつのシーンを切り抜き、『日本人の一日のあいさつ』という動画を作り、「授業」の補助教材として使いました。

高校では毎年同志社国際高等学校と交流イベントを行っていて、日本語クラブが歓迎会を企画し、訪中交流に来た日本人生徒と一緒に歌を歌ったりゲームしたりしました。私にとって、楽しく満ち足りた学生時代の思い出であり、外国語を勉強することや異文化交流はとても楽しいことだと思うようになりました。その影響を受け、大学受験では日本語学科を選びました。

 

中国語版『名探偵コナン』の漫画本

 

もっとたくさんのオリジナル版ゲームを楽しむため

 

何飛龍 2002年生まれ、広東省深圳市出身。北京外国語大学入学後、日本語を学ぶ。

子どもの頃から日本のRPGゲームが好きでした。一番好きなのが『女神異聞録ペルソナ』で、ゲームの中で創り出された美しい世界にとても感動しました。日本のゲームの多くが中国語化されていない中、ストーリーをより理解するために、そしてもっとたくさんのオリジナル版ゲームを楽しむために、高校生の時に日本語を独学で勉強しました。高考を受けた後、願書の志望提出の締め切りが近付いても、専攻分野や将来にはっきりとした考えが持てず、両親も過干渉してこず、その時は日本語が好きということだけは分かっていたので、北京外国語大学の日本語学院を選びました。その後、点数の関係上、同大学の国際商学院に行きました。しかし、日本語を学びたいという思いは消えず、それどころかますます強くなっていました。そこで大学入学後の1年間は、1年目終了時に専攻変更の制度を利用して日本語学院に転部できるように、国際商学院の授業を頑張り、良い成績を取りました。北京外国語大学は現在でも、全国各地の外国語高校から推薦入学した優等生で構成されている既習者向け日本語クラスがあります。彼らの仲間入りをするのは私にとって大きな挑戦でしたが、その時は独学で日本語能力試験のN2(上から2番目の難易度)に合格していたので、冒険ではありましたが既習者向けクラスへの編入を申し込み、幸いなことに教員たちから許可されました。そのクラスで同級生たちと授業を受ける中で、些細な差が面白いと感じました。例えば「梨」という日本語はとても基本的な単語で、既習者向けクラスの学生はとっくに知っている言葉でしょう。でも日本語を独学していた私は、その言葉の読み方を最近覚えたばかりだったのです。ただ、読んだり見たりした量は多かったので、カタカナを読む力は私の方が強かった気がします。

将来の明確な見通しはまだありませんが、今は中国製ゲームが日本でも大きな人気を集めているので、今後、中国製ゲームの日本でのローカライゼーション(現地化)に関する仕事、または日本のゲームを中国で現地化する仕事に就ければ、それが一番楽しい仕事になるでしょう。

 

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