風雨経た五十年 友好が正しい道

2022-09-15 11:59:30

国務院発展研究センター研究員 張雲方=文


1970年代末に始まった中国の改革開放は、中国経済の飛躍の時代を切り開いただけでなく、中日両国の友好交流とウインウインの協力関係の高まりをもたらした。 

78年、鄧小平氏は日本を訪問した際、天皇と首相に向けて、「歴史は過去のものであり、われわれは前向きに考え、中日両国の平和と友好を代々築いていかなければならない」と述べた。訪日中、日産自動車には「向偉大、勤労、勇敢、智慧的日本人民学習、致敬(偉大で勤勉で勇敢で英知のある日本人民に学ぶとともに敬意を表する)」、新日鉄君津製鉄所には、「中日友好合作的道路越走越寛広,我們共同努力吧!(中日友好協力の道はますます広がる。われわれは共に努力しよう)」という題字を残した。 

改革開放初期の中国は資金と技術、人材が不足していた。79年、谷牧副総理と大平正芳首相の尽力により、日本政府は中国への円借款を実施し、中国の改革開放を全面的に支援することを表明した。この年、中国のインフラ建設資金のうち、日本円による低利融資が20%以上を占めていた。 

84年、中曽根康弘首相が中国を訪問した際、中国政府は最高の礼を尽くした。鄧小平氏は中曽根首相と会談した際、以下のように強調した。「中国と日本は友好協力し合うべきです。これは歴史がわれわれ双方に与えた使命です。ある時期には一部の問題について、中国と日本が異なる見解を持ち、困難が生じることもあるが、それは一時的で細かい問題であり、中日友好の全体的状況から見れば、解決可能なものです」。また、「中日の政治家は中日関係を長い目で見ていくべきです。近視は有害で好ましくないものをもたらします。アジアと太平洋地域の情勢を考えると、中国と日本は良い関係でいなければなりません。少し拡大解釈すると、両国の関係が良くなることは、国際情勢全体にとっても意義があると思います」とも述べた。 

両国の指導者が歴史的な機会をつかんだため、中国は戦後の日本の経済発展モデルを参考に、改革開放の帆を張り、経済が軌道に乗り始めた。日本も、80年代には中国で利益を上げている日本企業の数が90%以上に達するなど、絶好の成長のチャンスに恵まれていた。 

90年代に入ると、中日間の経済協力はより成熟した。両国の合弁企業は技術面での向上を迎えただけでなく、日本の独資企業の現地化レベルも大きく向上した。ピーク時の在中国日本企業は5万1000社に達し、日本の海外企業の5割近くを占め、1000万人以上の雇用を創出した。一方、日本は中国にとって10年連続で最大の貿易相手国であり、中日間の年間貿易額は最高3400億㌦に達していた。日本は毎年、中国に数十億㌦以上の投資をしており、中国で利益を上げている日本企業の数は常に80%を超えていた。中日間の経済貿易協力の深化は、中日関係を安定させ、発展を促すバラストとプロペラになっている。 

2019年、京都で「日中不再戦(日本と中国は再び戦わない)」と刻まれた石碑を見て、杭州にも同じような石碑があることを思い出し、深く感動した。今日、中日国交正常化から半世紀がたち、その間に浮き沈みがあったものの、両国の国民は大きな幸せを得ている。これこそが中日の友好協力の結果ではないか? 

  

杭州の西湖友誼園(左)と京都の中之島公園にある「日中不再戦」の碑。二つの石碑は両国の平和友好関係の発展に対する願いと誓いを見守り続けている(写真提供・張雲方)  

関連文章