PART4 発展促した各種技術交流

2022-11-23 18:12:21

王哲=文 

人類文明は交流を通して互いに学び合い、発展してきた。新石器時代より、ユーラシア大陸には、玉器の加工、冶金・鍛造、農耕・牧畜など技術の伝播の通路が次第に形成された。中央アジアや西アジア、ひいてはより遠い場所の文明がこの通路を通じて次々と中国に入り、中原地域の文明と融合して、輝かしい中華文明が生み出された。その後、中華文明は東進・南進を続け、東アジア文明の発展につながっていった。

 

中国国家博物館の商周青銅鼎特別展は昨年914日から開催され、40点近くの殷・周時代の代表的な青銅礼器が展示された(写真・滕言妍) 

 

冶金技術の導入と改良 

考古学的発見や歴史的文献によると、中国の発達した青銅鋳造技術は、初期の頃、ユーラシア草原地帯東部の遊牧民の青銅器文化の影響を受け、それが技術革新のきっかけとなったようである。 

北京大学考古文博学院教授の陳建立氏によると、銅の製錬は西アジアで発明され、これまで7000~8000年の歴史がある。中国北西部で出土した初期青銅器は、主に銅製の小型の道具、武器、装飾品で、形状・種類共に中央アジア・西アジアのものとよく似ている。銅製錬の方法は中原地域の1000℃の高温製錬技術との融合により、夏・殷・周の時代(紀元前2070年~前256年)に、世界でも指折りの、高度な青銅容器の鋳造技術へと発展した。 

陳氏は次のように考える。青銅製錬・鋳造技術は、中原地域で、簡単な製錬技術から、「塊範法」といういくつかの鋳型を使う鋳造法へと、創造的な転換を遂げ、独自の特色がある陶製の鋳型を利用する鋳造技術体系が生み出された。武器や生産用具に青銅が使われていた西洋と異なり、中国では殷(紀元前1600年~前1046年)・周時代に、美しい器形と複雑な細工、高い性能を持つ青銅礼器が数多く作られ、輝かしい青銅礼器文明が形成された。その後、中国の青銅器鋳造技術は、朝鮮半島や日本列島に伝播し、北東アジア地域の青銅器時代を生み出した。また一方では、四川地域の三星堆遺跡を経由して東南アジアへも伝播したと考えられている。 

また、約4500年前には、鉄器がすでに西アジア地域に現れていた。中国で現時点で発掘されている最古の鉄器は紀元前1000年以降のもので、しかも中央アジアに近いほど鉄器の出現が早いため、初期の製鉄技術も西アジアから伝わってきたと考えられる。しかし、西アジアの塊錬鉄を使う鉄冶金技術は、低温製錬と鍛造が中心で、効率が悪かった。春秋時代(紀元前770年~前476年)の初・中期になると、中原地域では製錬温度を上げ、液状のを製錬して鋳型に流し込む鋳造法が発明され、鍛造技術を銑鉄の製錬・鋳造技術に転換し、また、銑鉄を利用して鋼を製錬し、生産効率を大幅に向上させた。 

陳氏は次のように説明する。「銑鉄による鋳造技術体系は、中原地域の独自の発明で、世界の冶金史の中でも特異なものです。この技術は発明直後からすぐに周辺地域に広がり、北東アジアなどの社会の進歩に大きな影響を与えました」 

  

農作物の双方向の伝播 

2003年、北京の東胡林遺跡から約1万年前の粟と黍が発掘された。これは世界最古の栽培粟・黍と考えられている。この発見は、栽培粟・黍の華北地域起源説にとって、重要な考古学的証拠となった。 

中国が発明した粟・黍の栽培技術は、6500年前から、福建、台湾を経て、東南アジアへと次々に伝わった。少し遅れて稲作技術も同様に福建、浙江、台湾を経由して太平洋の南西地域に広がっていった。また、農耕技術や絹織物の生産技術も、山東半島や遼東半島から朝鮮半島や日本列島へ広がり、さらに、ユーラシア草原地帯から西アジアや欧州へと伝播していった。 

西アジア原産の作物である小麦は、5000~4500年前の馬家窯文化遺跡(甘粛省と青海省東部に位置)から出現し始める。その後、4500~4000年前の黄河中・下流域の遺跡でも少量ながら発見されている。そして、約3500年前の殷王朝初期になると、黄河中流域で小麦が明らかに増加、北方地域の主要作物の一つとなった。また、青海・チベット地域で盛んに栽培されているハダカムギは、近東地域から中国に伝わったオオムギの一種だ。 

黄河中流域で発掘された黄牛と綿羊の骨から、西アジア原産の黄牛と綿羊のDNAが検出されたことは、これらの家畜が西アジアから渡来したことを示唆している。約3300年前、家畜化された馬や馬車もユーラシア草原地帯を経由して、殷王朝に伝わってきた。 

外来の農業・牧畜技術を取り入れることで、中原地域の農作物や家畜の種類が豊かになり、黄河流域に粟、黍、米、小麦、豆の五穀農業体系と、豚、犬、牛、羊、馬を中心とした家畜飼育体系が形成され、中国の農業文化が育まれた。 

  

交流と相互参考の歴史的痕跡 

中国国家博物館考古院院長の戴向明氏は、中国の輝かしい悠久の玉文化にも、初期文明の交流と相互参考の歴史的痕跡があると強調する。 

玉器は中華文化において重要な位置を占めている。早くも8000年余り前に、中国人は「玉器の時代」をスタートさせた。新石器時代の紅山文化、凌家灘文化、良渚文化、石家河文化などの遺跡で大量の玉器が発見されているが、そのうち一部の原材料は西域から来たものだ。中華文明の礼制を反映した牙璋、玉璧などは、夏・殷の時代に南西部の三星堆―金沙と華南地域を経て、東南アジアに広がった。 

ガラスは西アジアで発明された。中国で発掘された最古のガラスは、春秋時代末期の貴族の墓で出土したものだ。その成分はソーダガラスで、中央アジアの遊牧民が交易品として中原地域に輸入したものである。中国では戦国時代の中・後期にはすでに、西アジアのものと外観は似ているが、組成は全く異なる鉛バリウムガラスの玉を製造できるようになっていた。 

「秦代以前に、中国のシルクはすでに西域、さらには西アジアで人気を博し、地中海沿岸まで販売されていました。中央アジアや西アジアの同時代の貴族の墓で、美しい中国産のシルクが数多く発見されています」と、戴氏は説明する。 

前出の中国考古学会理事長の王巍氏は次のように指摘している。「異なる文明の交流と相互参考は、人類文明の発展を推進する原動力です。中華文明は他の文明との絶え間ない交流の中で、周辺地域の先進的な文化要素を吸収・学習し、革新を行ってきたことにより、生命力にあふれ、勢いよく発展することができました。これも、中華文明が今日まで繁栄し続けている要因の一つです」 

前出の北京大学の陳建立氏も、「中華民族は、外来文化が中国に来ると、豊かな創造力によって、それに新しい力を与え、自分のものにすると同時に、世界へ還元することができます。これは中華文明の最も核心的な特質の一つです」と述べている。 

 

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