PART1 「中国」はどこから来たのか

2022-11-23 18:24:11

徐豪=文 

「中国」はどこから来たのか? 中華民族の「源」と「根」はどこにあるのか?今世紀に入ってから始まった「中華文明探源プロジェクト」は、一連の重要な考古学的発見と学際的研究を通じて、「5000年の中華文明」が事実であることを証明した。考古学はそれまで知られていなかった中国を再構築したと言える。 


山西省の陶寺遺跡にある観象台。一部の研究者はここが最古の中国の地だと考えている(新華社) 


「満天星斗」から「月明星稀」へ 

多くの考古探源プロジェクトによって、中国には100万年の人類史があり、1万年の文化史があり、5000年余りの文明史があることが証明された。 

中華文明の起源について、考古学者の蘇秉琦氏は「満天星斗」説を提起し、新石器時代の中華の大地には、同等レベルに発展した文明が、空に星々が輝くように、多数存在していたと考えた。考古学者の厳文明氏も「重瓣花朶」理論を提起し、中華文明の起源が「中心があって多元的」であることを論証した。 

「実際、約8000年前に中華の大地の各地域間にはすでに横のつながりがありました」。「中華文明探源プロジェクト」第1~5期の首席専門家で、中国考古学会理事長の王巍氏は、中華文明の形成は多元一体の歴史的過程であると考えている。玉器を例にとると、内蒙古自治区赤峰の遺跡で8000年前のや玉斧、、玉佩などが発掘されており、そのころにはすでに玉を美とする概念があった。7000年前の河姆渡遺跡(浙江省)でも、興隆窪遺跡のものと同じ形の玉玦、などが出土しているという。「このことは、遠く離れている上記の2カ所に、直接的あるいは間接的な文化的関係がある程度あったことを示しています」 

王巍氏は考古学的発見によって次のことが証明されたと言う。5800年ほど前、遼河流域、黄河流域、長江中流域などの地域に、文明の兆しが現れた。5500年前から、中華の大地の各地域は続々と地域文明の段階に入り、多元的な文明の「百花斉放」の局面が現れた。最終的に相互交流・参考の中で、4300年ほど前、中原地域を中心とする一体化の構造が徐々に形成され、それから数千年、途絶えることなく続いてきた。 

この過程を、「満天星斗」の状態から「月明星稀」(明るい月とまばらな星)の状態になった、と説明する研究者もいる。 

「5500年ほど前、各地域の文明化が加速するにつれて、多くの共通のものが生まれました。例えば龍の概念ですが、黄河中流域では貝殻を並べて作った龍が現れ、同時期に長江下流域では玉龍が現れました。さまざまな面で共通の要素が増えたことが、『中華文化圏』の形成につながったのです」と王巍氏は言う。 

5500年前、黄河中流域の仰韶文化末期の彩陶が周囲に広がり、長江流域、黄河流域、遼河流域は中原文明の影響を受けるようになった。王巍氏は、約4300年前、長江中・下流域の文明が相対的に衰退し始め、中原地域は台頭し続けたと言う。「例えば山西省襄汾の陶寺遺跡(約紀元前2600年~前2000年)では、さまざまな地方から集まった文化的要素――黄河下流域の陶礼器や、長江下流域の良渚文化のや玉璧など――が見られ、中原地域の文明の特徴を鮮明に示しています」 

夏王朝の時代(約紀元前2070年~前1600年)まで、中原は周辺地域の先進的な要素を吸収し続けていた。夏朝の中・後期、河南省偃師の二里頭遺跡(約紀元前1900年~前1600年)を中心に、整った儀礼制度が形成され、二里頭の玉礼器や青銅容器の制作技術が周囲に大きな影響を与えた。「二里頭のや牙璋の分布範囲は、中国の南東沿海、北西地域、北東地域まで広がり、ひいては三星堆を通じてベトナム北部にまで影響しました。中原文明は再度周囲に影響を与え、このときに伝わったのは礼器や儀礼制度でした。これは中原王朝が文明の進展をリードしたことの重要な表れです」と王巍氏は言う。 

  

伝説と史実 

「大禹の治水」は太古の伝説だが、大禹に関する記載は史実か、それとも作り話か? 先秦の典籍と周朝の青銅器の銘文には、大禹に関する記載があるが、「大禹の治水」の真実性を証明できる直接の証拠はないため、禹が夏朝を建てたことを証明するのはより難しい。「夏商周年表プロジェクト」首席科学者で、北京大学教授の李伯謙氏は、先秦の文献と『史記・夏本紀』の大禹の事跡に関する記載内容を五つにまとめた。つまり、①治水②塗山での諸侯との会見③陽城への定都④九州の分割⑤南方の三苗民族の討伐――である。 

2006年から、考古学者たちは安徽省蚌埠の禹会村にある「禹墟」で発掘調査を行い、最終的に2000平方㍍余りの大型祭壇跡を発見した。これは4140年ほど前に人工的に造られた会盟のための大型施設で、禹が諸侯に会見した際の要求に合致している。祭壇跡には50㍍にわたって一列に並んだ35の穴があり、研究者は、これは会盟に出席した諸侯が旗竿を立てた穴だと考えている。「大禹が治水を行い、『塗山で諸侯と会見した』という伝説は、信憑性があるものです」と李伯謙氏は言う。 

夏朝が存在したかどうかについて、『尚書』『古本竹書紀年』『史記』などの記載に手掛かりはあるものの、なお考古学的な証明が必要とされていた。 

「二里頭遺跡の発見が『夏』の存在を証明したと言えます」と王巍氏は言う。「二里頭遺跡を見ると、中心地での首都建設、中心地での宮殿建設、中軸線の理念が形成され、龍に対する崇拝があり、青銅礼器や玉礼器などの整った儀礼制度があり、周囲の広範囲に大きな影響を及ぼしており、中国史上最初の『王朝の姿』が出来上がっています」 

当然ながら、考古学は単に典籍の記録や伝説を証明するためのものではない。考古学によって発見された古代文明もある。その一つが良渚遺跡だ。 

「中華文明探源プロジェクト」は、四つの最も重要な地域的・中心的な遺跡――浙江省の良渚遺跡、陝西省の遺跡、山西省の陶寺遺跡、河南省の二里頭遺跡――を定めた。中でも良渚遺跡は、中華文明5000年の証明に、最も直接的な証拠を提供した。 

5300~4300年前の良渚古城遺跡は、規模が広大で、遺物の類型が複雑で、内容が豊富で、そこには、城跡、周辺の水利システム、等級別の墓地、良渚玉器を代表とする出土品など、人類文明の要素が含まれている。2019年7月6日、良渚古城遺跡は「世界遺産リスト」に登録された。世界遺産委員会は、「良渚古城遺跡は中国の5000年余り前の偉大な有史以前の稲作文明の成果を代表しており、傑出した都市文明の代表である」と評価した。 

だが、史籍に「良渚古国」に関する記載はない。その姿は、80年余りに及ぶ発掘調査を経て、徐々に現れてきたのである。 


浙江省の良渚遺跡で発掘された玉牌飾は、古代中国の人々が透かし彫りと陰線刻技法で彫刻した神獣の姿をしている(新華社) 

 

どこが「最古の中国」か 

史籍の記載によると、夏朝は中国の最初の中央王朝であり、「最古の中国」である。しかし、良渚遺跡や陶寺遺跡、石峁遺跡、河洛古国などの考古学的成果が発表されるにつれて、人々の認識は更新され続けてきた。 

中国社会科学院考古研究所の研究員で、二里頭考古チームの隊長の許宏氏は、王朝時代を切り開いた二里頭文明が「最古の中国」だと考えている。彼は『最早的中国』という著書の中で、龍山文化の時期、広大な中原が「(政権争奪戦)」の戦場になり、最終的に二里頭を代表とする王権国家を生み出すことになったと主張している。 

一方、中国社会科学院考古研究所の研究員で、山西作業チームの隊長の何駑氏は、陶寺が「最古の中国」だと考えており、その考えは、「中国」という言葉の最初の意味が、「圭表(古代の天文計器)で測定された地中(地の中心)または中土(中央の土地)に建てられた都・国」であることに基づいている。彼は、陶寺中期の墓から出土した、日光でできた影を計測する「圭尺」が「地中」を示していると考えている。年代測定のデータによると、少なくとも4000年余り前の人々の意識における「地中」は、陶寺がある晋南(山西省南部)一帯だったと言える。 

山西省襄汾の陶寺遺跡は、中国の有史以前の「都市の要素を最も完備している」城跡だ。そこでは、現時点で世界最古の観象台遺跡が発見され、龍盤(龍が描かれた皿)、朱書扁壺(赤い文字が書かれた扁平な壺)、(ワニ皮の太鼓)、(石製の打楽器)、玉獣面、および中国最古の「銅器群」などの「重器」が発掘された。多くの人が、陶寺こそが文献に書かれた「堯の都・平陽」の証しだと信じている。 

しかし、中国考古学会副理事長で、北京大学教授の趙輝氏は、「国家」は最初中原ではなく、良渚にあったと考えている。「数多くの考古学的発見が示しているように、良渚は一つの国家政権として、すでに発達し、成熟していました」 

興味深いのは、5000年余り前の中華文明の「満天星斗」の時期、後に「王朝の姿」をリードすることになる中原地域は逆に静かだったことだ。このことを「中原地域の文明の窪地現象」と表現する研究者もいる。 

しかし、2020年に発表された河南省の双槐樹遺跡に関する考古学的発見が、この「窪地現象」のイメージを変えた。この「河洛古国」と命名された約5300年前の遺跡では、三重の大型環濠、封鎖式で規則的な配置の大型の中心住居跡、3カ所の版築の祭祀台などの遺跡が発見され、さらに大量の文化財が出土した。「双槐樹遺跡が黄帝時代の都邑があった場所であることは否定できません。少なくとも初期の中国の醸成段階でしょう」と李伯謙氏は考えている。 

「実際、私個人としては、どこが『最古の中国』なのかはあまり悩む必要がないと思っています」と言う王巍氏は、重要なのは「最古の地」がどこなのかではなく、5500年前に形成され始めた初期の「中華文化圏」が一つの文化共同体であり、それこそが後の中国のひな形だということだ、と言う。「初期の中華文化圏が形成され、相互に融合・促進し、中原文明が不断に吸収・結集したことにより、後の『王朝の姿』ができたのです」 

浙江省文物考古研究所研究員の王寧遠氏は、「良渚が最古の中国である」という主張に対するコメントで、王巍氏に似た観点を述べた。「一般の方は、考古学的発見の『最古』を真の歴史上の『最古』だと考えますが、実は、5000年前の中国には、良渚のような地域国家が『百花斉放』のようにたくさんあったのです」 

  

「中原逐鹿」と国家の概念 

 4300年前から、考古学的発見における中原文明には新たな勢力が現れ始め、一方、かつてまばゆく輝いていた良渚文明は終わりに近づいた。 

 中原文明の台頭について、王巍氏はさまざまな要因があると考えている。彼の説明によると、中原文明は周辺の他の地域文化を全て受け入れていた。一方、外来文化に対しても、例えば西アジアの術を吸収したように、同様に長所を取り入れ短所を補い、不断に発展していた。さらに、気候と地理の要素もあった。「黄河中流域には多様な地形があり、、、稲、麦、豆の五穀の栽培に適しているため、農業が発展し続けました。一方、良渚文明があった長江下流域は4000年余り前に洪水が起こり、農業が壊滅的な打撃を受け、巨大な社会を支えられなくなったのです」 

 3800年ほど前、陶寺文化や石峁文化などが次々と衰退し、夏代の中・末期の中心都市だった二里頭文化が台頭し、その政権が黄河・洛河の交わる地域に中国最初の王朝を建てた。中原地域はそれから「天下の中心」と見なされるようになり、後に続く数千年において歴代政権の必争の地となった。 

 なぜ「中原逐鹿」(中原での政権争奪戦)が起こったかについて、許宏氏は、中原地域は資源が集中し、人口が密集し、物流・情報ネットワークの中心であり、同地の経済・文化・政治・科学技術が相対的に先進的で、成熟していたからだと考えている。 

 西周初年の青銅器「何尊」の銘文の中にある「宅茲中国」という文字は、現在発見されている文化財において最も早く「中国」に言及した文字資料だ。この「中国」が指すのは、伊河・洛河が合流する洛陽盆地のことで、周の人々の地理・政治観念における「天下」の中心地である。 

 「『宅茲中国』は西周の銘文ですが、この概念は西周以前にすでに形成されていたはずで、だからこそ、この言葉があったのです」と王巍氏。「堯・舜の時代には、すでにぼんやりとした天下観があった可能性があります。後の『尚書』禹貢に記された九州は、天下観のひな形でしょう。夏代の後期になると、その影響範囲は、少なくとも河南全域・山西南部を含んでいました。この頃には、すでに初歩的な天下観が形成されていたと考えられます。商(殷)朝を経て、西周の時代になり、中国人の天下観は基本的に固まりました」 

 許宏氏は次のように述べている。「中国全体の地形はよく、北西を背にして、南東を向いた大きな椅子にたとえられますが、『椅子の中』の山地・高原と平原・丘陵の交わる地域がまさに異なる文化がぶつかり合い、混ざり合う場所です。高度に発達した文明は往々にして、このような場所でできた結晶です。最古の『中国』もここで生まれたのです」 

 

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