PART1 南北に連なる名建築の数々

2024-01-08 16:01:00

京の中軸線は、北端にある時報の役割を担う鼓楼鐘楼から、南端の「永遠の安定」を意味する永定門まで全長7にわたる。この都市の「背骨」のように、都のランドマークの一つ一つを貫いている。 

中国の著名な建築家である梁思成氏は、これを「世界で最も長く、最も偉大な南北中軸線」と称賛した。北京の中軸線はなぜ偉大なのか。その魅力はどこにあるのか。その理由をこれから読み解いていこう。 

不断の建設で拡充延伸 

1267年、元の世祖フビライ(1215~94年)が中都(現在の北京、1272年に大都に改名)に遷都。世界の中心になることを目指してその未来像を描き、都の中心部の建設計画もスタートさせた。フビライが最も信頼していた漢人の大臣劉秉忠は、古代の技術書『周礼考工記』にある古人の理想的な都づくりの規範を厳格に守り、左右対称の都市構造を設計した。 

元の大都の中軸線は、北は鼓楼鐘楼から、南は麗正門(現在の天安門付近)までで、都全体を貫いてはいないが、この都の魂が凝縮されていた。その後、明と清の時代はこの伝統的な都市秩序と「中央を尊ぶ」空間配置の考えを踏襲。北京の中軸線は絶えず拡大、充実、整備され、その長さも元代の3から7まで延びた。 

北京は、同じように長い歴史を誇る古都の西安や杭州などの他の都市と異なり、都としての歴史のタイムラインがほぼ連続している。金(1115~1234年)から始まり、元清といった封建王朝はいずれもこの地に都を作った。北京の中軸線が今まで残っているのも、このような都市建設の連続のおかげであり、その進化も都市の歴史と発展の証しである。 

新中国成立後、北京の中軸線には人民英雄記念碑、人民大会堂などの新たなランドマークが作られただけでなく、中軸線沿いの史跡の機能も大きく変化、皇帝一族への奉仕から庶民の日常生活への奉仕と変わった。天壇や太廟などの祭祀の場所は市民公園となり、紫禁城は故宮博物院となった。また、昔の宮殿や庭園は開放されて各地の観光客を迎え、北京の中軸線は人民が共有する公共空間と歴史の記憶となった。 

北京の都市建設が進むにつれて中軸線も延び続け、その延長線上には多くの代表的な建物が集められた。2008年の北京オリンピックの開会式では、29の巨大な花火の「足跡」が永定門を出発し、古い歴史を持つ北京の中軸線に沿って一歩一歩、国家スタジアム「鳥の巣」に向かった。  

北へと延びた北京の中軸線はオリンピック公園の中心線となり、中軸線の両側に位置する円形の「鳥の巣」と四角形の国家水泳センター「水立方」(ウオーターキューブ)の建築形状は、中国古代の「天円地方」(天は円く地は方形)という宇宙観を体現している。 

22年には、「中国国家版本(アーカイブ)館」の中央本館が、中軸線の北延線上の美しい山河の地にお目見えした。歴代王朝の貴重な文書を保護することで、アーカイブ館は中華伝統文化の精華を集中的に展示する場となった。中軸線は、750年余りにわたって北京の人と出来事を結び付け、中華民族の文化の発展の成果に触れ、感じる「生きた博物館」となっている。 

調和ある壮麗な秩序 

景山公園に入って一段一段と階段を上り、北京の中軸線の高台万春亭に着く。南北方向を見渡すと、前後は起伏に富んで巧みに配置された建物があり、左右は対称的な建築空間が組み合わさり、北京中軸線のユニークで壮麗な秩序が一望できる。 

人間が鳥のように空から大地を見渡すことができなかった時代、われわれの祖先は豊かな想像力と優れた技術によって、このようにバランスがとれ、整った鮮やかな構造を構築したのだ。 

中軸線が支える空間構造も、遠くから来た外国の友人を驚嘆させた。陸のシルクロードを通って中国に来たマルコポーロは、少なくとも元の大都で9年間過ごした。その著書『東方見聞録』に、このベネチア人旅行家は、東洋の都に対する美しい印象を残している。「街路は真っすぐで、通りの端から端まで見渡せ、通り沿いにこの門からあの門へと見渡せるように配置され(中略)」とあり、その「碁盤のような」都市計画に酔いしれたマルコポーロは、「その絶妙さは言葉にできない」と絶賛した。 

中国の都市計画の理念は、3000年以上前の周代(紀元前1046年~同256年)に制度化された。歴史書の『周礼考工記』に描かれた理想の都とは、首都の規模は九里(約20)四方▽4面の城壁にはそれぞれ三つの城門を備える▽道路は縦横各9本▽北から見て王宮の左は祖先を祭る霊廟、右には土地五穀の神を祭る社稷壇を置く▽前は朝廷で後ろは市場――である。 

中国の先人が作り上げた理想的な首都のモデルは、中華民族の秩序の美への追求を体現している。元首都博物館館長の韓永氏はこう語る。「中国のさまざまな歴史的に名高い都市のうち、本当に『周礼考工記』に基づいて建設された都市は決して多くないが、北京はこの都市配置の思想に厳格に従っている。梁思成氏の言うように、北京独自の壮麗な秩序は、中軸線の構築によって生まれたのだ。北京の中軸線の歴史的な価値は、『見える』軸線だけでなく、秩序という『見えない』軸線においてより体現されている」 

故宮を中心とし、北京の中軸線の南北両側の建物は、重要度が低いものから高いものの順に中心に向かって集まり、これは礼儀と秩序への尊崇を体現している。中軸線両側の建物は左右対称的な配置方式が多い。例えば故宮の東西両側は、それぞれ先祖を祭る太廟と土地の神を祭る社稷壇となっている。永定門の東西には、それぞれ天を祭る天壇と農業の神などの神々を祭る先農壇となっている。 

新中国成立後に建てられたシンボル的な建物は、依然としてこの建築美学に従っている。1949年の新中国成立式典で使用された国旗掲揚ポールは中軸線上にあり、天安門広場の東側にある国家博物館と西側の人民大会堂も離れて互いに呼応している。一つは中華民族の歴史上の栄光を示し、もう一つは新中国の未来の発展を計っている。北京の中軸線は、対称の美学の集中的な体現と言える。その対称は雄大であるだけでなく、調和の力、バランスの力を形成している。 

庭園が作り伝える詩情 

荘厳な配置と壮麗な建築の他に、詩情あふれる山水庭園は中軸線上で最も生き生きとした存在となった。「襟を正す」ような厳粛な雰囲気の宮殿や、祭祀が行われる壇や廟と比べ、古典的な庭園の魅力はまた別格だ。建築と庭園が相まった輝きは、人と文化、そして自然の調和のとれた統一を作り上げている。 

天下の美景を一カ所に集めるのは、中国の匠がよく使った方法だ。自然の景観をまねたり他の庭園の風景を模倣したりして中軸線の近くに融合させ、その耽美的な味わいを深め、北京の王宮庭園の独特な趣を形作っている。中軸線上の永寿宮花園や景山も、中軸線外の円明園や頤和園も、例外ではない。 

故宮の神武門と通りを隔てて望む景山は、元清の3代王朝の皇帝の庭園だった。景山は自然の山ではなく、800年以上の歴史を持ち、3代王朝の皇帝が築き上げた「築山」である。元の時代、ここは皇帝が散策した庭園で、青山と呼ばれていた。明の永楽年間(1403~24年)、明の最盛期をもたらした永楽帝(朱棣)は元代の宮殿の取り壊しを命じ、その跡地に紫禁城を建設した。その旧宮殿の残土と新たに掘った城壁を囲む堀の土が元代の青山に積まれ、万歳山と名付られた。清代の順治12(1655)年、万歳山は景山と改称された。その後、清朝の第6代皇帝乾隆帝は景山の大規模な改修と拡張を行い、山頂に五つの亭を新たに設け、今日の景山の姿を形作った。 

残土を巧みに積み上げて作った景山は、中軸線の建築配置の単調さを補っただけでなく、北京の町をさらに壮麗に彩り、中軸線を見下ろす最適の場所となった。北京史研究会の李建平会長は、「景山は後世の中国の庭園景観作りに、『湖を掘って山を築く』という賢いやり方を生み出し、また北京の新たな都市建設にも依然として重要な役割を果たしている。今のオリンピック公園は、この手法を参考に仰山や奥海といった生態系を生かした景観を創り上げた」と説明した。 

皇帝の宮殿と築山や池のある庭園を結び付けることは、中国の伝統的な建築美学の基本理念の一つだ。中軸上の至る所にある「春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪ある」という古典的な庭園は、まさにこの理念の最良の実現である。 

伝統の精神と文化を反映 

北京の中軸線は、卓越した古代建築の知恵を体現しているだけでなく、極めて豊かな中華の優れた伝統文化も含まれている。 

中軸線上のさまざまな建造物の命名からだけでも、中国儒教の精神文化の含意を感じ取ることができる。故宮の太和殿と中和殿、保和殿は総称して紫禁城三大殿と呼ばれ、封建社会の最高統治者が政を処理し、盛大な式典を行う場所であり、宮殿建築群全体の核心と見なされている。三大殿に共通する「和」の字から、中国文化の調和や「和を以て貴しとなす」ことへの憧れと「平和思想」への追求がうかがえる。 

また天安門の名称は、歴史書の『尚書仲虺之誥(ちゅうきしこう)』と関係があり、帝王が天を敬い自然を敬ってこそ、統治を強固にできることを意味する。一方、地安門の名称は、歴史書『資治通鑑(つがん)』の「天平地安」と密接な関係があり、社会の平安と調和、人々の幸せで楽しい生活を意味している。 

北京の中軸線上の古建築群は、また「天人合一」という調和の取れた文化を体現している。例えば、さまざまな古い建物の屋根などの先端には、数の異なる神獣の造形物が置かれてある。言い伝えによると、これらの神獣は天に上ったり海に入ったり、邪気を払って災いを避けることができるという。棟の最先端で道案内をする像は、仙人が伝説の鳥鳳凰(ほうおう)に乗る姿だ。この造形は、まるで全ての生き物が仙人に導かれて大空に向かい、天と融合するようだ。そこには、自然の法則に順応し行動し、万物の平安と息災を達成するという寓意が込められている。 

古い建物の軒は普通、中ほどから端に向かって徐々に反り返り、これは「反宇」(宇は軒の意味)と呼ばれている。昔の人は「天」は凸形をしており、太陽や南を意味する「陽」だと考えていた。「反宇」は建物の軒をへこんだ凹形にし、凸形に突起した「天宇」と「一陰一陽」の巧みな融合を形成する。屋根が反宇(凹)の形で天を受けることは、昔の人の天への畏敬の念を意味している。 

北京の中軸線は、中国の文化と歴史の担い手であり、人類共通の財産と記憶である。中軸線は、活力あふれる大動脈のように、旧市街という生き続ける命を養い、市民の豊かで多彩な生活につながり、偉大な都の歴史的骨格と絶えず生まれ変わる美しい容貌を世界に示している。 

人民中国インターネット版

 

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