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あこがれの人と。~国際交流研究所にて。

ジャスロン代表 笈川幸司

大森先生はわたしのあこがれの人だ。あこがれと書いたが、いまのところ、よりふさわしい言葉が見当たらない。

大森先生とはどんな人か。もしかしたら知らない人がいると困るので、話を進める前に少々説明を加えたい。

20数年前から中国で日本語教育を普及されてきて、中国における日本語界でもっとも影響力のある日本人が大森先生だ。そして、大きな事業を長らくされてきたのが大森和夫、弘子先生ご夫妻だ。いま、中国の日本語界でトップを走る人たちはみな、大森先生を「おやじ、おふくろ」と呼んでいる。

中国の大地に降りたち、日本語教育をはじめた2001年。新米教師だったわたしには目標と呼べる目標などなかった。夏休みに一時帰国した際、新宿の紀伊国屋書店で山積みにされたベストセラーを手に取ってみると、大森先生の本だった。大森先生がされている事業を目標にしようとは思えなかったものの、ひとすじの明るい光を見ることができた。自分が必死にやっている仕事に、明るい未来を感じた瞬間だった。

今でも、作文コンクールと言えば、大森先生が主催するコンテストだ。大森先生ご夫妻は、私財を投げ打ってこの事業を続けた。周囲の人たちからは、いったい何をやっているんだ?と変な目で見られていていたそうだ。

大森先生はいう。この事業はもちろん、中国で日本語を教える教師や日本語を学ぶ学生のためでもあるが、根本的には日本のためであると。わたしは大森先生の考えに反対するところはないつもりでいるが、少なくともこの点においては100%大賛成である。

自分も大森先生と同じようなことをやりたい。もちろん、能力や資金を考えると、まったく同じことをすることは100%無理だし、同じような大事業ができる器ではない。しかし、大森先生と同じ方を向いていたいという気持ちで11年間過ごしてきた。

いまから6前に大森先生に出会い、それからは他界したわたしの父代わり、いや、それ以上に親身になって相談に乗ってくださる。わたしが北京で学生を集めて毎月のようにイベントを開催していたときも、中国人の先生方と仲良くし始めたときも、日本語講演マラソンをやろうと決意したときも、常に大森先生がそばにいた。昨年、41歳にして再婚を果たし、もっとも喜んでくださったのも大森先生だ。

今回、妻と息子を連れて、はじめて大森先生のいる国際交流研究所を訪ねた。

弘子先生はいつものように終始笑顔で接してくださった。妻の夢は、弘子先生のような人になることだと言う。わたしの夢が和夫先生のようになることなのだから、なんとも面白い。

和夫先生は、これまでの苦労話を笑顔でしてくださった。そのひとつひとつの言葉に愛情があふれているのを感じた。実は、国際交流研究所には日本に留学にきていたわたしの教え子たちもきてお世話になったが、きっとどの学生も同じように暖かく接してもらったにちがいない。

あこがれの人から山のようなご助言をいただき、胸がいっぱいになった。わたしはたまに胸の中が空っぽになってしまうことがある。しかしそんな状態では、震災後一年たったいまでも避難生活をしている母を励ますことはできない。

大森先生に感謝の気持ちを伝え、母の住む福島へ向かった。

 

笈川幸司

1970年埼玉県所沢市生まれ。元衆議院議員公設秘書。元漫才師。

2001年に北京に来て、10年間清華大学、北京大学で教鞭を取る。10年間、中国人学生のため、朝6時に学生とのジョギングから始まり、夜中までスピーチ指導を無償で行い、自ら日本語コンテストを開催、中国全土の日本語学習者に学ぶ機会を提供している。また、社会貢献をすることで、日本大使館、日本国際交流基金、マスコミ各社、企業、日本語界から高い評価を得ている。2011年8月から2012年7月までの一年間、中国540大学で11万人の日本語学習者を相手に「日本語の発音、スピーチの秘訣」についての講演を実施する予定。「ジャスロン日语学习沙龙」のホームページ:http://neo-acg.org/supesite/

 

人民中国インターネット版 2012年5月

 

 

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