輝き取り戻した北京・永定河 補水と緑化でエコ回廊を再建

2020-12-04 10:00:38

王浩 郭然=文

王浩=写真

 「永定河がよみがえった」

今年4月、黄河からとうとうと流れる水が、山西省の万家寨ダムを出て、絶え間なく永定河へと流れ込み、永定河エコ補水活動が全面的に始まった。山西省と内蒙古自治区、北京市、天津市の四つの省・自治区・直轄市を流れる永定河は、長年の渇水と静寂の後、再び生気を取り戻し、広く注目された。放水された水の先頭は5月12日、緩やかに北京と河北省の境にある崔指揮営村を流れ過ぎた。これは、永定河の北京区間170㌔が、この25年で初めて全区間通水されたことを意味している。沿岸の多くの人々は喜び河岸に駆けつけ、とうとうと流れる水流が目の前で奔流となって流れ行くのを目の当たりにした。北京の人々から「母なる川」と呼ばれる永定河と北京は、切っても切れない関係にある。永定河の総合的な治水・環境浄化対策によって、グリーンでエコな河川回廊(コリドー)が再び生活に入って来て、人々に潤いを与えている。

 

永定河流域マップ(イラスト・王丹丹)

 

歴代の都・北京とのつながり

永定河は海河水系に属し、上流は(海河の支流)桑干河で、山西省寧武県の管涔山に源を発する。桑干河は、内蒙古自治区から流れてきた洋河と河北省張家口の懐来県官庁鎮で合流。川はそこから永定河と名を変える。その後、永定河はひたすら下り、北部の山々を貫き、北京の門頭溝区三家店で平原に出る。さらに北京の西部と南部を流れ、天津を経て渤海に注ぐ。

永定河の記載が文献に出て来るのは、2500年余り前にさかのぼる。だが、川が形作られたのは数百万年も前のことだ。永定河と黄河は共に黄土高原の土砂を下流に運び、長い時間をかけて洪積・沖積扇状地を形作った。歴史的に永定河は絶えず流れを変え、洪積・沖積扇状地は次第に一体化して平原となった。

20世紀初め、米国の地質学者ベイリー・ウィリスが北京に調査に来た。ウィリスは、北京が西・北・東の三方を山に囲まれ、中央部が平原となった形状から、ここを「北京湾」と名付けた。この北京湾こそ、永定河の氾濫によって作られたものだ。

北京が都として歴史に現れるのは戦国時代(紀元前475〜同221年)からだ。当時、燕国の都は「薊」。この薊城の位置は現在の北京の南、広安門辺りで、その頃の永定河から東に10㌔にあった。三国時代(222〜280年)、魏の国は車箱渠(古代の水利事業)を建設し、永定河から水を引いて農地のかんがいを行い、北京の生産増に長きにわたって寄与した。その後、元・明・清の3王朝は北京に都を据え、町は大きく拡大。永定河は都にたっぷり水を供給する水源となった。明の第3代皇帝の永楽帝(在位1402~24年)の時代、永定河は北京西部の西山から木材と石材を運ぶ重要な水路となった。永定河は、北京3000年の町作りの歴史や800年を越す建都の歴史と密接な関係があり、ゆえに北京の「母なる川」と呼ばれる。

 

永定河に架かる歴史的建造物の盧溝橋は、「北京八景」の月見の名所として知られる

古来、川の流れは都市を育ててきた。しかし、河川の氾濫はまた水害をもたらす。永定河は高原から流れ出て、連なる山並み100㌔余りを激しく流れ、標高を下げ続けて水勢は激しさを増し、北京の門頭溝三家店で急に平原へと流れ込む。その水量が多い時は止められないほどの力を生む。また、永定河は季節によって流れが変わり、増水期には水量は急に増える。歴史的に洪水は北京一帯では最大の自然災害で、中でも永定河の氾濫は最も甚大な被害をもたらしていた。

統計によると、清王朝200年余りのうち、北京で洪水が起きた年は129年に上り、その中で特に大きな洪水が5度あり、うち4度が永定河によるものだった。このため、永定河の洪水を防ぐことは、北京に暮らす統治者たちの大きな課題だった。元王朝が大都(北京の旧称)を建設する際、永定河の洪水を回避するため、都の中心を北東へと移した。明・清王朝では、歴代の皇帝もたびたび永定河の治水を行った。

清王朝・康熙帝(在位1661~1722年)の治世の1689年、永定河は再び堤防が決壊し、人々は大きな被害を受けた。当時、直隷巡撫(京師に直属する直隷省の長官)だった于成龍は、皇帝から永定河の治水の命を受けた。于は多くの人を動員して堤防を築き、1年もかけずに川の南岸41㌔、北岸51㌔にわたって築堤する壮大な事業を成し遂げた。

当時、永定河は渾河と呼ばれていたが、人々は「無定河」(流れが定まらない川)とも呼んでおり、ここから土砂の堆積が多くて川筋が定まらない永定河の特徴が見て取れる。大堤防の工事終了後、康熙帝は「永定河」と命名し、記念の廟と石碑を建立した。永定という言葉には人々の理想とする願いが込められ、永定河の名は今も使われ続けている。堤防の建設は、当時の都・北京を守るために間違いなく役立った。

 

門頭溝区三家店から平原地帯に入る永定河。だんだん川幅が広くなっていく

永定河の堤防については逸話が残っている。『中国水利史典』専門家委員会の蒋超副主任はこう語る。「歴代王朝が永定河の左岸(上流から下流の方を見て左側)の堤防を右岸より高く、より頑丈にしたのは、北京の町が永定河の左岸にあったからです。北京が洪水から逃れるように、このような大堤防を作ったのです」

中華人民共和国の成立後、政府は大規模な水利工事を進めた。永定河の治水のため、1951年、上流に官庁ダムの建設を始めた。当時、これは全国が注目した水利プロジェクトで、各地から支援を受けた。ダムは53年、正式に完成し運用を開始した。

官庁ダムは永定河の水量を調節し、水害・洪水防止と北京への給水、発電に大きく役立っている。その後、永定河に大きな水害はほとんど起きていない。かつて「じゃじゃ馬娘」だった大河は、すっかりおとなしくなった。

70年代後半、気候変動や都市の工業化、人口増加などの影響で、永定河上流は流水量が絶えず減少し、地下水の水位も大幅に低下した。三家店から下流の永定河は常に渇水状態となった。90年代になると、永定河の都市流域は完全に干上がり、河床がむき出しになり、さらには砂嵐の発生源となっていた。永定河の生態環境保全は、日増しに差し迫っていった。

 

総合治水手段となる「補水」

永定河は、峡谷区間を進むにつれ、山あいを曲がりくねりながら激しく流れ、川の両岸は木々がうっそうと茂る森となる。門頭溝の三家店辺りに至ると、川幅は突然広がり始める。流れは両岸のビルディングを水面に映しながら、都市の間を通り抜けて行く。

永定河補水プロジェクトは今年、3カ月近くにわたり延べ2億5000万立方㍍の補水を行った。補水は永定河を生き生きとよみがえらせただけでなく、北京の地下水の水位も大幅に上昇させた。

実は、永定河の治水は早くから始まっていた。2003年、国は「21世紀初期の北京の水資源の持続可能な利用計画」を策定。当時、上流の河北・山西省などに対して工業・農業の構造調整を行い、多くの汚染物質排出企業を閉鎖・操業停止にした。同年、水利部(省に相当)は、河北・山西省と調整して北京への送水を行った。15年に国は「京津冀(北京・天津・河北)協同発展計画大綱」を発表し、永定河は北京・天津・河北地域の重要な水源かん養地区であり、生態防壁・生態通路であると明確に打ち出した。16年には、国家発展・改革委員会は「永定河の総合治水と生態系浄化実施プラン」を策定、発表した。同プランは水資源の調節と節水から、湿地の保護、河道の修復、汚染源の管理・抑制、川沿いの防護林の植樹など多くの分野にわたっている。

北京市の永定河総合治水・生態系浄化指導グループ事務局総合チームの劉景海副リーダーはこう語った。「数年の努力を経て、今のところ永定河の生態の各指標は徐々に好転しており、すでにエコ効果が現われ始めている。例えば、今回の補水により河川の中下流では大小の湖沼ができて、流路周辺の動植物に栄養分を供給し、魚介類などの水生生物やシラサギなどの水鳥たちが目に見えて増えている。またここ数年、川沿いの緑化・植生面積は拡大し、水質も大きく改善された」

もちろん、生態環境の修復は長い過程である。劉副リーダーは、「われわれの最終目標は、永定河を流れと緑が豊かで清潔・安全な川に変えることだ。流域の治水を完成させるためには、上下流が心を一つに協力しなければならない」と気を引き締めた。

北京市は16年、都市3文化ベルト整備プランを打ち出した。西山・永定河ベルトはその一つ(ほかの二つは大運河と長城)だ。永定河沿いのルートは、明・清時代の皇帝が遊んだ庭園と行宮(仮の住まい)である「三山五園」と、大仏寺や臥仏寺などの古刹・遺跡と永定河が一体になって、北京の西北部の重要な文化コースとなっている。沿線の文化財・旧跡はさらに保護を受け、永定河は今、北京のグリーン文化回廊となっている。

 

永定河をまたぐ新首鋼大橋は北京西部の新たなランドマークだ

 

補水によって水量も豊かになった永定河のほとりで川の風景を楽しむ市民

 

水が補給される時期、永定河の下流沿いの多くの村民が岸辺まで見に行く

 

枯渇から新生 永定河の記憶

永定河の変化を語るなら、侯秀麗さんはもってこいの人だろう。50代の侯さんは、生まれも育ちも永定河沿いだ。小さい頃に住んでいた侯荘子村は、永定河が峠から流れ出て2㌔のところにある。侯さんの記憶では、その頃の永定河は水量も十分で、毎年増水期になると、洪水にしっかり備えるようしょっちゅうスピーカーで放送されたという。そして、いったん大雨が続くと、家々は皆いつでも避難できるよう荷物をまとめて準備していた。

侯さんが中学生の時、上流でダムと発電所の建設が始まると、家の前を流れる川の水質も徐々に悪化していった。その頃、永定河の水量はすでに少なくなり、時には渇水状態になったが、毎日の通学で、やはり水の流れる川を渡ることが必要だった。1980年代、侯さんは教師となった。その頃、永定河は完全に枯渇してはいなかったものの、子どもたちを連れて、干上がった河道でたこ揚げや標本採集をよくやったと侯さんは覚えている。長女が生まれた90年代、永定河の中下流域はすでに完全に干上がっていた。侯さんにはある情景が忘れられない。ある日、娘に付き添って永定河の河床で自転車の練習をした時、娘から「お母さん、ここは草原だね」と言われて、侯さんは泣いていいのか笑ったらよいのか、何とも言えない気持ちになったという。

 

定河のほとりにあった首鋼集団(大手鉄鋼企業)は移転し、当時の工場の跡地は産業文化ゾーンに生まれ変わった。ここには2022年北京冬季五輪の組織委員会が置かれ、スキーのジャンプ競技も行われる(左は建設中のジャンプ台)(東方IC)

ここ数年、永定河流域のエコ対策事業は徐々に広がっている。河床の砂利を採掘した後の大きな穴が埋め戻され、川沿いの自動車修理工場や掘っ立て小屋が一つずつ取り壊され、清潔できれいな公園や整備された河道に変わるのを侯さんは見てきた。永定河の環境は再び良くなり始め、侯さんはほっとしている。

侯さんは、若いころから永定河の歴史と文化に興味を持ち、研究を続けてきた。今は民間団体の永定河文化研究会のメンバーでもある。さらなる研究と永定河文化のアピールのために、侯さんはよく現地調査を行い、その成果を発表している。

今年、永定河のエコ補水は社会的にも注目され、静かに「永定河文化ブーム」が起きた。侯さんも、永定河に関心を持つ仲間たちと一緒に補水が流れるところに行き、調査を行った。補水が周辺の地域に及ぼす影響を観測し、川岸に住む人々と永定河にまつわる物語を集めた。友人の中には、冗談半分に侯さんを「永定河の娘」と呼ぶ者もいる。侯さんは、「ここで生まれ育ち、永定河はもう私の命の一部です。永定河の研究と宣伝を通して、もっと多くの人に永定河に関心をもってもらいたいと思います。同時に、この私たちの古里をもっと美しく、もっと素晴らしくしたいと思います」と語る。

 

永定河で取材する侯秀麗さん(左)(写真提供・本人)

毎日多くの人と永定河や水利に関係する物語や情報の交流を行い、侯さんは多くの知識を学んだ。侯さんは力を込めて言う。「これからの永定河は、きっと北京西部で一番美しい観光スポットになると信じています」 

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