程永華・前大使が語る東日本大震災 危難と闘った中国外交官
呉文欽=文
今年の3月11日、日本は東日本大震災から10年目を迎えた。あの日、東北地方で発生したマグニチュード9の大地震は巨大津波を引き起こし、直撃を受けた福島第一原子力発電所は放射能漏れ(メルトダウン)に陥った。人類史上かつてない「3災害同時発生」だった。
警察庁のまとめによると、今年3月10日までに死者1万5900人、行方不明者2525人に上っている。さらに災害後の「長期避難による健康悪化」などによる死者3775人を加えると、少なくとも2万2200人が死亡・行方不明となっている。
発生から10年目に当たる今年、犠牲者を追悼するとともに、当時災害を自ら体験した前駐日本中国大使で、現在は中日友好協会の常務副会長を務める程永華氏が本誌の取材に応じ、中日各界が手を携え震災の危難を乗り越えた感動的な物語を語ってくれた。
本誌の取材に当時の緊迫した状況を語る程永華氏(写真・呉文欽/人民中国)
2011年3月11日、金曜日の午後。週末の東京は全てがいつものように過ぎていた。
程大使(当時)は執務室で仕事中だった。壁時計が午後2時46分を指した時、建物が激しく揺れ始めた。隣の応接室から「ガチャン」とグラスが床に落ちて割れる音が聞こえた。日本滞在20年余りの経験で、程大使はすぐに地震と分かった。
大使館の中庭は職員とその家族でいっぱいだった。地面はまだ揺れ続け、亀裂が入りそうだった。外では救急車や消防車のサイレンが鳴り響かせ行き交う。皆が緊張した顔つきで、ただ顔を見合わせるだけだった。
大使館のトップとして程大使は、まず大使館員を落ち着かせようと考えた。当時、館内には140人余りの職員がおり、その家族も加えると300人近くに上った。程大使は「すぐに大使館員をチェックし、全員の安全を確保しろ。一人も漏らさないように」と最初の指示を出した。
程大使は直感的に、この地震の規模はこれまで経験したものをはるかに上回っていると感じた。しかし、マグニチュード9の大地震に加え、高さ数十㍍にも及ぶ津波が東北地方を襲い、福島原発で放射能漏れが発生するとは思いも寄らなかった。人類史上初めての「3災害同時発生」が日本を襲ったのだった。
「私たちは決してひるまない」
程大使は、直ちに2人の公使と各部署の責任者を集めて会議を開き、速やかに緊急指揮部を立ち上げ、非常体制を発動した。人員の安全と作業の効率を確保するため、全館の事務を大使館のロビーに集中させて行った。
同夜、さまざまなルートから周辺の多くの外国大使館の職員が避難し始めたことを知った。程大使は全館大会を招集し、災害状況を詳細に分析して具体的な分担作業を取り決めた。最後に、程大使は館員たちに力強く呼び掛けた。
「われわれは他とは違う。中国大使館は中華人民共和国の代表機関だ。人は試練に鍛えられて輝きを放つのだ。祖国と人民がわれわれを見ている。中国の外交官は決してひるまず、断固として任務を全うする」
文句も出ず、異議を唱える者もいなかった。大使館の全ての職員が直ちに緊急事態体制の分担に応じて配置に就いた。11日当夜から、大使館が前線に派遣した作業チームは連夜にわたって北上。深刻な被害を受けた宮城県に駆け付け、日本で暮らす同胞への救援活動を緊急展開した。その後数日、大使館の他、新潟総領事館、札幌総領事館も被害の大きかった近隣の数県に作業チームを派遣して救援活動を展開した。
当時、道路は各所で損壊し、高速道路は通行止めになっていた。大使館の車は一般道を使うしかなく、一刻を争って北上した。前線の作業メンバーは後に程大使にこう語った。「11日夜に東京から北に向かった車両は、日本の自衛隊を除くと中国大使館ぐらいでした」
岩手、宮城、福島と茨城の4県には3万2000人の中国人同胞がおり、中でも留学生と技能実修生の状況は最も厳しく、大使館・総領事館の重点的な救援対象となっていた。
当時、被災地の避難民のほとんどが各地の学校体育館などに避難していた。避難所内は人であふれかえり、大使館員は「有中国人没有(中国人はいますか)」と声を張り上げて回った。その時に救援を受けた同胞は目に涙を浮かべながら、「あの時の中国語の6文字が一番感激し、一番心が温まった声でした」と大使館員に話した。
大使館では前後して六つの作業チームを被災地の最前線に派遣し、7000人余りの同胞を救援した。また中国から増派された臨時航空便と連携し、9000人余りの同胞が祖国に戻るのを助けた。
10年が過ぎた今でも、程氏は救援バスの同胞たちの姿をはっきりと覚えている。「同胞たちは互いを見て涙をこらえきれず、誰もが涙を流して『中国万歳』と叫んでいました」
絶え間なく余震が続く中、被災地の前線で救援チームが現地の同胞を助けていた時、大使館では電話の呼び出し音が途切れることはなかった。救助の求めや安否確認の要請が殺到していた。大使館員は日本で暮らす同胞の安全を確認し、その無事を速やかに本国の家族に知らせなければならない。
大使館は3交代制勤務を始め、24時間体制で対外的な事務を確保するとともに、職員が交代で休めるようにした。しかし館員たちは時間を惜しみ、一日3時間ほどしか眠らず、目が開いていれば仕事を続けた。電話に受け応える声がひっきりなしに上がった。情報収集担当の館員は、生存者の手掛かりを一つも見落とすまいとテレビの画面を食い入るように見つめていた。
被害状況が深刻化するとともに、安否確認の電話もますます増えた。人手が足りず館員の家族たちも「参戦」し、携帯電話を手に次々に電話を掛け、受け続けた。電池が切れれば充電器につないだまま掛けた。電池が過熱するほど携帯を掛け続ける者もいた。
「当時はウイーチャットも今のように便利ではなく、メールは一本ずつ発信し、電話も一本ずつ掛けなければなりませんでした。最終的に大使館は計1万5000人余りの無事を確認しました。私たちは、同胞1人当たり少なくとも5、6回は電話しましたよ」。程氏は感動した面持ちで振り返った。「前線であろうと後方であろうと、同胞のために、上から下まで全ての外交官は厳正に規律を守る部隊のように常に勇敢に作戦を遂行しました」
ろうそくを灯し東日本大震災の犠牲者を追悼する福島市の人々(今年3月11日、新華社)
犠牲となる心づもりも
大使館では11日から、地震による被害程度や災害規模、被災地の状況などを絶えず本国に報告し、当時の日本が直面していた困難についてできる限り詳しく説明した。
中国では、中央の指導者から各関係部門まで全てが日本の状況に非常に関心を寄せていた。中国政府は3月12日、日本へ3000万元の緊急災害援助の提供を発表した。災害状況の拡大に伴い、中国側はさらに2000万元の追加経済援助も発表した。中国の紅十字会と中国側の友好都市も次々に寄付金や物資を送った。
中国政府が日本への援助提供を発表したのとほぼ同時、程大使は、大使館員と日本の中国系企業代表が自発的に集めた寄付金を携え外務省を訪れた。同省の担当者は程大使の手を固く握り、「これは、今回日本政府が受け取った最初の義援金です」と語った。
3月の福島や宮城、岩手一帯はまだ寒く雪も舞う。程大使は、どうやったら最も効果のある援助を日本側に提供できるか、ずっと考えていた。日本のテレビニュースでは、津波に襲われた後の被災者が避難所に縮こまって薄い毛布にくるまり、飲み水や食べ物も限られた状況を伝えていた。
程大使は、当時の日本政府のある大臣に電話を掛け、なぜ日本の緊急救助物資が宮城や福島などの被災地に遅々として届かないのか聞いてみた。
この大臣は、「地震の被害で被災地一帯のガソリンスタンドなどのインフラ設備が全てまひし、ガソリンや軽油などの燃料が非常に不足して救援物資を運ぶことが全くできないのです」と焦った口調で説明した。
「中国から少し燃料の支援をいただけませんか」。大臣は丁重に申し出た。
大臣が長く待つことはなかった。中国側は3月17日、ガソリン1万㌧と軽油1万㌧の緊急援助を日本政府に回答した。
程大使がずっと神経をとがらせていたもう一つのことは、福島第一原子力発電所の状況だった。津波による福島原発の放射能漏れ事故について、日本政府は当初、国際原子力事故の評価尺度のレベル3(重大な異常事象)としていたが、その後、最悪のレベル7(深刻な事故)にまで引き上げられた。人類史上、レベル7の放射能漏れ事故は2件しか発生しておらず、もう一つは旧ソ連で1986年に起きたチェルノブイリ原発事故だ。
当時、日本で公開されていた情報によると、福島原発の原子炉は水素爆発を起こしていた。大津波が沿岸に打ち寄せ、福島原発の通常の運転を維持していた電源(バックアップ電源も含め)は海水に冠水して全てが失われた。原子炉は完全に制御不能となり、燃料棒の温度は上昇し続けた。直ちに温度を下げなければ燃料棒は溶融(メルトダウン)し、原発は爆発を起こす恐れも考えられた。
現地ではさまざまな試みを行っていたが、いずれも局面を好転させることはできなかった。その後、東京電力は中国の建機企業「三一重工」が世界最長アームを持つコンクリートポンプ車を製造していることを知った。日本側は早速、福島の放射能漏れ事故に対応するため、この長尺アームポンプ車を緊急購入したいと申し出た。
このことを聞いた三一重工はすぐさま、もともと他国に出荷予定だったアーム長62㍍のポンプ車1台を無償で日本に寄付することを決めた。同社は日本側の要求に応えてポンプ車を改装し、ポンプ車のアームにカメラとリモコン装置を取り付け、福島原発の緊急事態に投入できるようにした。同社の技術者はポンプ車の操縦方法を全て日本の技術者に教えた。
「当時、福島原発の事故処理を担当していた大臣が私に、あのポンプ車は福島原発でずっと作業し続け、原子炉に注水して温度を下げて焦眉の急を解いたと話してくれました」と程氏は語った。
震災発生後、福島原発事故は刻々と悪化していった。東京に暮らす多くの外国人が、翌朝目が覚めたら恐ろしい放射能が自分に降りかかって来るのではないか、と心配していた。
外交部(外務省に相当)の幹部は程大使に幾たびか電話し、大使館の仕事をサポートするために本国から人員を増派する必要があるかどうか尋ねてきた。程大使は謝意を伝えるとともに、前線の人手は足りており、断固として任務を完遂するので、祖国は安心してくださいと述べた。
「福島原発の放射能漏れを知ってから、大使館員の上から下まで犠牲となる心づもりもしました。本国から人手の増派は無駄な犠牲を増やす危険性がありました。私たちは、前線の外交官によって同胞を助け、日本を支援するという任務を全うすると決めました」と程氏は率直に語った。
大使館員と協議して具体的な作業分担を取り決める程大使(左から2人目)(写真提供・程永華)
望み1%でも諦めない
第一線に身を置く外交官たちは決して孤軍奮闘ではなかった。程大使は同13日、都内の羽田空港に向かい、中国の国際救助隊を出迎えた。
11日に日本で大地震発生のニュースを受け、中国の救助隊は直ちに被災地への支援の準備に着手した。12日早朝、救助隊員80人は北京の首都国際空港に集結し、支度を終え出発の命令が下るのを待った。何人かの隊員はニュージーランド地震の被災地から北京に戻って来たばかりで、スーツケースを開くこともできないでいた。日本政府の要請に応え、中国は最終的に隊員15人を日本に派遣した。
羽田空港に到着後、中国国際救助隊は大使館員に基本的な状況を尋ねた。だが、福島原発事故に潜む危険について隊員たちはひと言も触れなかった。
救助隊はそのまま羽田空港から自衛隊のヘリコプターに乗り込み、岩手県大船渡市に向かった。大船渡市は津波による被害が最も大きい地域の一つだった。
日本側との意思疎通と連携を円滑に行うため、大使館から外交官を同行させ、救助隊と共に北上した。現地に到着後、救助隊は連日早朝6時半に被災地に向かい、遭難者の捜索と救助を行った。夜6時に宿営地に戻ると当日の状況報告や情報交換を行い、深夜零時になってようやく休む日々を送った。
宿営地は地元の小学校の校庭だった。隊員たちは小さなテントを張り、インスタントラーメンを食べ、寝袋に包まって地面に寝た。
ほどなく救助隊の食糧が切れた。道路が損壊し天候も悪いため、大使館からの物資の補給が一時的に困難な状況に陥ったからだ。救助隊は、救助の合間に近くのスーパーに行き、飲み水や食べ物を買うことしかできなかった。
このスーパーの店長は中国の救助隊と聞くと、食べ物と飲み水をてきぱきと段ボール箱4個に詰め救助隊に渡してきた。だが一切代金は受け取らなかった。店長は、たどたどしい中国語で感極まったように「ニイハオ。謝謝」と何度も繰り返したそうだ。
「災害発生後72時間は(生存者)救助の黄金時間」と言われている。行方不明の遭難者が生存する可能性がほとんどなくなった後、日本政府は海外の救助隊と被災地からの撤収を協議し始めた。
福島原発事故の危険は、200㌔離れた救助隊がいる大船渡市にも日一日と近づいていた。だが救助隊は、このまま大船渡市に残って救援活動を続けたいと申し出た――たとえ1%の望みでも決して諦めないと。
「彼らから『もう少し頑張りたい。一体でも多く遺体を見つけられれば遺族の慰めにもなる』と言われました」。程氏は救助隊員との当時のやりとりを振り返り、こう話した。
8日間に及ぶ奮闘の後、中国の国際救助隊は大船渡市を離れた。被災地で活動した各国と地域の国際救助隊・医療チームの中で、最後の一隊だった。
1年後の2012年2月13日。程大使夫妻がお供して当時の天皇皇后両陛下(現上皇上皇后ご夫妻)が、東京国立博物館で開催されていた「国宝観瀾――故宮博物院文物精華展」を鑑賞された。参観後、天皇皇后両陛下は20分間の懇談の時間を設け、程大使に対して丁重に感謝の気持ちを述べられ、東日本大震災の際に中国が日本に提供した力強い援助に謝意を表した。
通訳に協力してもらい現地の被災者と話し合う救助隊員たち(新華社)
手を携え共通の敵と闘う
新型コロナウイルス感染症の発生以来、すでに大使を退任し帰国していた程氏は、国内で中日両国の「山川異域、風月同天」(国は離れていようとも、同じ天の下でつながっている)という助け合いの美談を目にした。程氏から見れば、中日両国は地理的にも文化的にも近く、大災害や大疫病が起きている現在、両国の協力と助け合いは最もうまく「焦眉の急」を解決できる。
「2008年の四川(汶川)大地震から11年の東日本大震災、16年の熊本地震、そして新型コロナ感染症のまん延まで、21世紀の初めの20年を回顧すると、中日が感染症拡大下で『力を合わせて試練を乗り切る』というのは、決して偶然ではありません。両国は実は防災や防疫の面でも、隣国に難があれば駆け付けて互いに助け合う運命共同体をすでに形作っています」と程氏は指摘した。
ポスト・コロナ時代に目を向けると、中日間には依然として意見の相違が存在する。大切なのは、両国がいかにして感染症の予防・抑制の中で積み重ねた「意見の相違を棚上げし誠意を持って協力する」という経験をさらに幅広い分野で生かし、「山川異域、風月同天」という互助の精神を発揮し広げていくか、ということである。
「感染症との闘いであれ、『一帯一路』の協力であれ、中日間の協力の潜在力は非常に大きい。両国はアジアひいては世界の繁栄と安定に一層貢献できます」。程氏はそう結んだ。