刺しゅうで紡ぐカザフ族の伝統
王鳳娟=文 趙渓=写真
キムエスグリー・ヌルタンアーケンさん(54)と会ったのは、ちょうど刺しゅうのお針子さんたちとフェルト刺しゅうの文様について話し合っている時だった。民族的な文様が刺しゅうされたロイヤルブルーのビロードのワンピースを着たキムエスグリーさんは、情熱あふれる笑みを浮かべ、エネルギッシュにてきぱき指示し、独特の風情を漂わせていた。
体に流れる民族愛
カザフ(哈薩克)族の刺しゅうは、草原での遊牧生活から生まれた文化的な産物だ。民族衣装やフェルトでできたテント型の移動式家屋「ユルト」(パオ)の飾りなど、生活用品の至る所で見られる。母親と娘はいっしょに嫁入り道具の刺しゅうをする。新婚の部屋にかけるタペストリーは、新郎の母親が刺しゅうし、結婚の際に新婚夫婦に贈られる。
カザフ族の刺しゅうが他と違うのは、絹糸で絹織物や綿布に刺しゅうするだけでなく、フランネルやフェルトにも毛糸で刺しゅうする点だ。また、その文様や刺しゅう自体にも美しい寓意と祝福が込められている。
「小さい頃から刺しゅうの飾りに囲まれて暮らして来たので、生まれながらに親しみを感じ、その愛が私の血の中に流れているのです」
キムエスグリーさんの生家は3代続く仕立屋で、彼女も小さい頃から母親が色とりどりの絹糸を使って刺しゅうするのを見てきた。7歳の時、自分の枕カバーに1羽の小鳥の刺しゅうをしたことから、刺しゅうに強い興味が芽生えた。大学で文学を専攻していた時は、カザフ族文学の中の情景や人物がいつも彼女の目の前に浮かび現われた。そして、本の中のアクセサリーや華やかな服、フェルトのユルトの全てに魅了された。
丹精込めてカザフ族伝統の刺しゅうをするキムエスグリーさんの会社のお針子たち
キムエスグリーさんは昔を思い出して語る。父親は地元の郵便配達員で、家族に物語を読み聞かせるのが大好きだった。幼い彼女は、いつもそばで真剣に耳を傾け、本の中のお姫様や英雄、物語のシーンを本当に再現したいと思っていた。
「刺しゅうの模様にはとても深い意味があります。模様によって意味が異なり、色の違う布や刺しゅう糸を組み合わせることにより、伝わるメッセージや寓意も違ってきます」。模様を選ぶ規則を研究するため、キムエスグリーさんは関連する書籍を渉猟した。そして、服飾の模様が最も豊富で、年齢や職業、シチュエーションが異なることによって変わることに気付いた。
例えば未婚の少女には、帽子にフクロウの羽根を挿す。女性が嫁ぐ時は、シャオクレと呼ばれる、繊細な花模様の刺しゅうが施され金銀宝石が飾られた帽子をかぶる。このような帽子は貴重な馬とも交換できるほどだった。
カザフ族文化の宝庫
民族の刺しゅう文化を継承するため、キムエスグリーさんはためらうことなく公務員の職を辞したが、今でもそれを後悔していない。当時、両親は娘が苦労するのを心配し、この選択を支持しなかった。だがキムエスグリーさんは、実際の行動により、カザフ族の千年に及ぶ伝統文化を継承するだけでなく、お針子さんたちと共に豊かになる――と両親に伝えた。
1999年9月12日は、キムエスグリーさんにとって最も忘れられない日だ。起業した当初、彼女はカザフ族の衣装の特徴を元に、民族の伝説と関連文献を結び付けた刺しゅう衣装制作に挑戦。広さ40平方㍍ほどの地下室に半年閉じこもった末、ついに32着の民族衣装をデザイン・制作した。長期間にわたって薄暗い地下室にこもっていたので、外に出た9月12日は、光を見た途端に目から涙があふれ出てきた。
努力は志ある人を裏切らない――。この32着の衣装は、新疆ウイグル自治区のイリ(伊犁)・カザフ自治州で行われた「アーケン弾き語り会」のファッション部門で1等賞に輝いた。この後、キムエスグリーさんの服はさらに広く注目されるようになり、彼女はいっそう自信を深めた。
民族衣装の特色をさらに深く探るため、キムエスグリーさんは、よく農村や牧場に足を運んだ。「宝探し」のため、カザフ族のお年寄りの家を訪れては、服飾文化と関係のある品物や書籍を探し集めている。イリ州テケス(特克斯)県の山間部を訪れた時は、87歳のおばあさんに教えを請うた。
帰り際、おばあさんは目に涙をため、「今は刺しゅうを習いたいという人は少なくなったけれど、一生かけて積み重ねてきた技術を伝えることができて、もう死んでも悔いはないよ」と語った。その半年後、このおばあさんは亡くなった。キムエスグリーさんは、あの時の話に深く心を打たれた。
キムエスグリーさんが持つ「一番のお宝」は、牧畜民の家から「救い」出してきたものだ。ある日、彼女は、ナンを焼く釜の上にほこりがかからないよう1枚の毛布が乗せられているのを見つけた。一目でその毛布のかすかな模様に引き付けられた。
そこでこの毛布を買って帰り、水の中に10日間さらすと、巧緻を極めた古い刺しゅうの本当の姿が現われた。「この刺しゅうを救った時は、もう作られてから183年もたっていました。あれから10年が過ぎ、間もなく200歳になりますよ。この刺しゅうの多くの技法は、ほとんど途絶えてしまいました」
ここ数年来、キムエスグリーさんは、二十数種の刺しゅう法をはじめ、トウヤマツツジやオランダカイウ、カラー花など130種余りのカザフ族の伝統的な図案のほか、「王女宮殿」ユルトや結婚用ユルト、遊牧民ユルト、芸人の殿堂ユルトなど20種余りのユルトの様式を収集・整理した。さらに、これらを基に1000種類にも上る図案をデザインした。地方や村落、服装によって刺しゅうの織り方も異なる。「カザフ族の歴史・文化は巨大な宝庫のようなもので、先人たちの知恵が凝縮されており、私たちは研究し現代人の生活に生かす必要があります」
キムエスグリーさんが最初に両親に約束したように、お針子さんの得意とする技術に基づいたファイルを作り、会社がサンプルをデザインした後、お針子さんに渡し注文を出す。現在、1000人にも上るお針子さんがカザフ族の文化を伝承する人材として参加している。
お針子さんの1人、バハ・グリーさん(48)は、キムエスグリーさんの下で働いて8年になる。今では見習いの生徒たちに授業で教えるベテランのマイスター(師匠)だ。暮らし向きも大きく改善し、「1人牛1頭」という時代から「家あり車あり」へと発展していった。こうしてキムエスグリーさんに率いられ、130余りの貧困世帯が国が認定する登録貧困人口から抜け出した。
モデルが着るカザフ族のきらびやかな民族衣装は、キムエスグリーさんとお針子たちが刺しゅうしたものだ
伝統文化を活性化
「自分の手で建てた大ユルトに来るたびに本当に達成感を感じます」
イリ州のグルジャ(伊寧)市にあるカザフ族の伝統的な大ユルトに入ると、円錐状になった屋根の天窓からギョリュウ(柳)の枝が放射状に丸い壁に向かって伸び、さらに格子状になって壁の骨組みを形作っている。フェルト製の壁のタペストリーやじゅうたんなど、内も外もカザフ族の刺しゅう模様が使われている。日の光が天窓からユルトの中に差し込むと、まるでカザフ族の人々が遊牧する広大な草原にいるように感じる。
カザフ族は「馬上の民族」と呼ばれる。遊牧生活の時代、ユルトは分解・組み立てが簡単で持ち運びが楽なため、カザフ族遊牧民の「移動する家」となった。カザフ語でユルトの天窓は「チャングラク」と言い、一族が受け継ぐ盛衰の歴史の重要な象徴だ。老人がそれを末っ子に与えるのは、将来の一族の栄光と財産、文化を託すことを意味する。カザフ族の遊牧民にとって、ユルトはただ雨風を防ぐ家であるだけでなく、一族の冠婚葬祭と代々受け継いできた生活の風情を反映したものである。
ユルトの形は住む人の身分の特徴で決まる。嫁ぐ前の娘のために建てる女性部屋には、ヨモギやウンスギなどの香りのする植物の枝葉を門の上の横木(まぐさ)に挿す。芸能人の公演用に建てられたユルトには、さまざまな楽器が並べられる。さらに陰干し肉を作るためには、四方が柱だけの「あずまや」に似たユルトを使う。高さ1㍍以上の高床式で、空気の流れを良くして換気を図っている。外に狩りに出掛ける狩人のユルトはシンプルで、解体や搬送、組み立てに便利でなければならない。
「私の心の中で一番の事業とは、カザフ族の文化を継承することです。息子と一緒にユルトの特色を生かした民族文化村を建てたいと思っています」。キムエスグリーさんの息子マルホラン・ガルケンさん(28)は、北京北方工業大学で広告学を専攻している。夏休みに帰省し、母キムエスグリーさんとじっくり話した時、母親の頑張りとその気力に感動した。「伝統を受け継ぐ母がいれば、それを受け継ぐ息子も必要です」とマルホランさんは感慨深げに話した。
今では、ユルトはもう新疆を出て、中国のその他の地方で、カザフ族の伝統文化や、ありのままのイリの風情を紹介している。若者たちが参加したおかげで、キムエスグリーさんは将来への希望に満ちあふれている。そして今、カザフ族の文化をもっと多様な形で伝え、古い文化を「生かしたい」と考えている。
天窓から骨組みの木が放射状に伸びるキムエスグリーさんの大型ユルト