悟空の内なる火

2023-12-07 12:07:00

朱欣 四川軽化学大学 

 

「彼は火種。世界は彼のために用意された薪。」

「我々鈍根のものがいまだに茫然として考えも纏まらないうちに、悟空はもう行動を始める。」これら長く私の心に響いている文章は中島敦の作品『悟浄歓異』の中にあるもので、主人公である悟浄の目に映る悟空のイメージだ。

『悟浄歓異』は中島敦さんが第一人称で主人公の悟浄の目を通して悟空、八戒、三蔵法師の人間像および悟浄自らの反省を描いた作品だ。日々自我そのものに迷い込み、この世を生きる不安感を抱えている二十代にある私は、読み進んでいるうちに悟浄に共鳴を覚えながら、悟空の魅力にも感服し、それは私に対する何らかの示唆となった。

 私は悟浄とほぼ同じく、過剰な自我分析や不安などが頭の中でスペースを取っているためともすれば自分を苦しめることを繰り返しがちだが、それによって何かを成し遂げたことはほんのわずかにすぎない。これに対して、悟浄と完全に逆となる悟空にはそのような不安や悩みは何一つもなく自分に対して抱いている信頼感が生き生きと溢れており、体の中には常に衰えない火のようなものが絶えず燃えている不思議な人物である。

悟空は決して過去を語らず、過去の個々の出来事を忘れてしまう。だが、経験や教訓を一つ一つ吸収して自分の一部にしている。このようにや楽さえも覚えていないだけに、決して過去に執着せぬ、純粋なものだ。人間の多くは、過去の暗闇を引きずり過去の幸せに未練がましくなりそれと別れられないものではないか。このように悟空は、まさに来し方行く末を顧みず現在の一分一秒を生きるのだ。

悟浄は明けても暮れても物事の意味合いに拘るが、悟空は目的地に到達する道以外の一切を見えない、かつ目的地が明瞭なので努力を惜しまず直ちにやっていくだけだ。つまり、できるかどうかは少しも恐れず、そこまで到達できるようにあらゆる力を込めるのだ。それが悟浄にせよ私にせよ見習うべきものでなくて何だろう。

確かに、いくら考えても思いあぐねることはいつでもあるので、物事の意味や本質にばかりひたすら頭を絞っていればきりがないだろう。意味への探求、もしくはそのような答えを追い求めるためには、思い切って足を踏み出してからでなければ目的地にどうしても近づくことができないのではないか。それに答えは決して雲をつかむような妄想からは出てこないため、無限に考えを続けていくよりも敢えて実践の山を跋渉し、山野で一つずつ答えの欠片を拾い、出会った棘をも折って薪とし、苦労を重ねて自分なりの謎を究明していこう。

いうまでもなく、中国で描かれている悟空も魅力の持ち主で私を含め多くの人にとって長年憧れる存在だが、『悟浄歓異』を読み、その悟空像の中身はより一層豊かになった上、私の幅を広げる師となった。さらに、悟空の内なる火によってエネルギーをも得、私も自分の火種に火をつけたくなり、その熱をもったエネルギーで行動と希望の炎を燃やしていこうと思うのだ。

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