普通ながら偉大

2023-12-07 14:14:00

範旭含  西安外国語大学  

 

中国に「女は弱し、されど母は強し。」という諺がある。

この言葉を初めて耳にした時に、まさしく真理だと思った。しかし、小説「坂の途中の家」と出会ったことでこの諺について改めて考えるようになった。

女性は本当に母親になってから強くなるのだろうか。

私たちは家族に至れり尽くせり世話をする母親がどのような生活を送っているのかを本当に理解しているのか。この小説を通し、母親たちが子育てで受けたストレスを知った。「坂の途中の家」は女性視点からの小説である。専業主婦の理沙子は家事をしながら、3歳のお転婆娘を育てている。時々夫の陽一郎も手伝ってくれるが、育児の疲れや周りからの目は理沙子を不安とストレスを与え、彼女は自信を失い始めていた。ある日、理沙子は児童虐待裁判の陪審員候補者に選ばれた。被告の安藤水穂は一歳未満の娘をバスタブで溺死させた母親だった。事件を審理するに際して、理沙子は被告が犯した罪を許せなかった。しかし、被告の夫と義理の母の証言を聞き、次第に考えを改め始めた。被告に自分の人生を重ねるようになり、彼女を思いやるようになった。

理沙子は、朝に娘を2時間かけて夫の実家に送り、裁判が終わると、また急いで娘を迎えに行く忙しい日々を送っている。陽一郎は一見、理沙子の不安とストレスを思いやり、時には外食を買うことを許してくれるが、実は「お前は無理だよ!仕事と育児なんて!」と不満を漏らしている。彼の優しい言葉の裏には理沙子を貶め、見下す気持ちが潜んでいる。男性が育児に悩む母親を常に人並み以下だと決めつけ、劣等感を植え付けることはある種の暴力ではないだろうか。

多くの人にとって、育児を父親が手伝わないのは普通だ。一方がお金を稼ぎ、もう一方がもちろん育児も含めたそれ以外の全てを引き受ける。よって、小説の中でも、泣く子をあやすことができない妻を詰り、缶ビールを飲む為に妻を支配しなければならない夫がいるのだ。

結婚というものは、両方がお互いを理解し、生活の困難を乗り越え前に進むものではないだろうか。本来、生活に幸福という花を添えるべき結婚が、「男は仕事、女は家事。」という世間が求める価値観に囚われてしまい生きることが辛いのだ。子供に笑っていてほしいのに、泣かせてしまうのが苦しいだ。ささいなことの積み重ねに蝕まれ、母親が自分を責めてしまうのだ。

しかし、家事も育児も仕事も完璧にこなせるスーパーウーマンのような母親は本当にいるだろうか。子育ての経験が全くない女性でも子供が生まれた瞬間に何でもできる母親になれる訳ではないのだ。

私にとって、母親が最も偉い人だ。彼女には自分の時間を犠牲にし家庭に尽くすのではなく自身を我が子と同様に愛することを忘れないでほしい。

結婚と子育ては母親の生活の一部だが、仕事・社会生活・パーソナルスペースも必要なのではないか。普通ながら偉大な母親に私の敬意を払う。

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