生まれてすみませんと言う必要はない

2023-12-07 15:12:00

楊逸凡   ハルビン理工大学

 

『人間失格』は作家太宰治の名作であり、その名声に惹かれて読んだ。小説の主人公である大庭葉蔵から、非常に強いネガティブな感情が感じ取れて、その感情を理解しようとした。

大庭葉蔵は末っ子として、古風な名家に生まれ育ち、その父親は東京の議員である。一般の人よりも特別な待遇を受けていたことで、彼は「名門意識」と呼ばれるものを抱くようになった。しかし、大家族の末っ子として、父権的な圧力にさらされ、また彼には「余計者意識」というものがあった。誇りとコンプレックスが織り成す矛盾によって、おかしな方法でしか自分の価値を確認できない。葉蔵は生きる道を見つけたつもりだが、実際は自分の内面の世界にとどまり、現実から遠ざかっていくだけである。任永子と心中を約束し、彼女が死んで自分だけが生き残ることになり、それが彼の「罪人意識」をさらに強めた。そのため、葉蔵は同棲中のシヅ子と娘が遊んでいる様子を見て、彼女たちの幸福を邪魔してしまうのではないかと心配するのだ。荀子の「性善説」は「人間の喜怒哀楽も、善悪にかかわりなく、すべて本性から出ている」と述べた。しかし、葉蔵は本性や客観的な法則を悪とみなしてしまって、だから彼は人の群れに溶け込むことができず、この世界を恐れて、死から抜け出すしかない、つまり「人間失格」である。

「もののあわれ」の流行により、最初から最後まで喪に満ちたこの小説は、発表当初(日本戦後の経済崩壊期)も、現在(いろいろとストレスがたまる社会)も、若者層の注目を集めている。これは作者、太宰治が敏感な青年の心の奥底にある悲しくて世を嫌う心を描き出し、また青年は最も自己批判に陥りやすいからだと思う。

しかし、悲劇的な物語を読んで、それを自分の生活で実践する人などいないだろう。暗闇の中に光が差し込むとき、それを受け入れるだろうか。多くの人はおそらく断ることはないだろう。しかし、光が暗闇を去ると、絶望を感じるのだろうか。人間としての資格を誰が与えるのか。それは他者ではなく、自分自身だと思う。自分を理解し、自分を受け入れることは重要である。自分を変えようと努力しても、この世界に合わないことを堅持しても、光を見ることができる。

小説の結末は、女将の口を借りて、葉藏は「神様みたいないい子」と評されていた。葉蔵自身の口の中では、彼は自分の価値を見つけることができない「陰影人」であるが、他人の目には優しい子であり続けている。誰でも無価値ではない。発散された善意は必ず捉えられる。ひたすら自省から抜け出して、この敏感な自分と和解してみよう。生まれてすみませんと言う必要はない。健康で積極的な私も、うつむいているような状態の私も、完璧ではない私も、全て真実の私なのである。

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