川端康成と『雪国』

2023-12-07 15:15:00

職源  海南師範大学  

 

川端康成は独特の美感と感受性を持っている。その美感と感受性はどこから生まれただろう。肉親の死をよく見ているからだろうか、子供時代に孤独だったからだろうか、憂鬱はずっと晴れなかったのだろうか。

いろいろな疑問を抱きながら、私は『雪国』への「列車」に乗った。

川端は『雪国』の物語に理想郷を創造したようだ。その理想郷は山々に囲まれ、隠蔽された清い夢幻の世界の片隅である。島村は東京から三回雪国を訪れ、雪国で温泉町で働く芸者の駒子と出会い、そして、男女関係になった。駒子に出会いに乗った列車で清楚で声が綺麗な葉子にも惹かれた。

作品に、島村と駒子の会話がたくさんある。また、風景も多く描かれた。

風景の移り変わりと会話の内容から時間の流れていくことが何となく感じることができる。島村は雪国へ行ってから、駒子の運命を洞察した。そして、行男の死を知り、葉子の死を見た。作品に運命の浮き沈みと命の消え去りは「物是にしては人非でなり」という寂しい感じが溢れていた。また、物語に虚無の物悲しい色彩を加え、同時に時間の流動性を示した。人々の運命は無常であるが、この無常も時間の流れとともに薄くなっていく。雪が溶けるように、死は一瞬で終わり、命の美しさをその時間に定着する。これも川端が追求した生命の美学だろう。

静寂で素朴な環境は人の感覚と情緒を拡大し、島村のすべての情欲と感受は雪国で自然に出ている。川端は自然な美を尊ぶ。川端のこういう気持ちが、島村を通して表現しているのではなく、時々自然に託して示していた。たとえば、島村が駒子からの愛と駒子の読書好きなことを虚しいと思っていた。しかし、それを直接に表現せず、「萱の草が眩しい色と言っても、それは秋空を飛んでいる透明な儚さのようであった」と書いた。

島村は東京で豊かな暮らしをしているのに、感情が乏しく、心が空虚だった。どんなに努力しても無駄だ、何をしても意味なし。こういう島村の何に対しても心が動かず、喜びもない気持ちが作品に表現されていた。

作品を読んでいると主人公たちの矛盾が少ない、クライマックスが少ない、ただ日常の会話をしていて、温泉宿のまわりを散歩をしているだけに見えるかもしれない。

大学生にとって、最後まで読み続ける人が稀だと思う。

川端康成は女性のビューティーを描くのは独特だ。『雪国』の駒子、誰が読んでも、印象的だろう。島村が初めて駒子と会って、「足の裏の窪みまできれいであろう」と書いた。駒子の寝姿、「閉じ合わした濃い睫毛がまた、黒い眼を半ば開いているように見えた」と述べた。ここを読んで、細かいと思わず感心するだろう。また、木の下で立っている駒子の「その首に杉林の小暗い青が映るようだった」、自然と人物が美しく融合された。こういう川端の鋭い感覚は『雪国』でたくさん描かれている。

『雪国』をもう一度読みたい。

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