私と檸檬

2023-12-07 15:19:00

李宇寛  黒竜江大学

 

私は中学生から日本文学に触れ始めた。その時よく暇つぶしとして小説を読んでいて、自分もまだ幼く、文章の表していることがよくわからなかった。そのため、あまり感想らしい感想は出てこなかった。

しかし、高校生になってから、だんだん成熟し、この「暇つぶし」の考えが変わってきた。それは多分共感したためだろう。高校生の時、何冊かの短編小説集を読んだ、梶井基次郎の「檸檬」はその一つである。初めて読んだ時、なんとなく可笑しい気がした。「丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう」とは突然何を言っているのだろうか。狂気のような可笑しさがあり、この文章は私の心に残り、私に深い印象を与えた。

高校の時、成績がとても良かったせいか、私は自分のことを、一般人とは違う偉い存在なのだと思っていた。食事をしに廊下を群がって歩いている生徒を見て毎回、「あいつらの人生は割り当てられているようだな、俺はそんな風になりたくないよ。」と思って蔑んでいたような気がした。成績と大学入試を何よりも重要なものと位置付ける先生と、成績の悪い生徒を孤立させているクラスメイトのほぼ全員が嫌いで、まったく関わりたくなかったのである。それで、一緒に話をする人がいても、心からそんな人を親友とは思わなかった。私は囚われたような暗い日々を送っていた。それでも、高校の毎日を過ごし続けなければならない。時々、心が寂しかった。これは自分が優れていると思っているわけではなく、周りの人が私の心を理解できなかったためである。中学生のころからずっと読み続けている日本文学は私の内なる孤独から逃れるための手段であったというより、むしろそれは自分自身についての理解を深めるためのものであって、言ってみれば、日本文学はいつも私のそばにいる仲間のようなものである。そして、時々梶井のその『檸檬』が思い出される。その「実際あんな単純だが、ずっと昔から探していたこればかり」のものも、だんだん理解できるようになった。そんな、単純だがずっと探しているものとは、実は心の落ち着く場所だと気づいた。梶井の文字でいえば、多分「檸檬」のことなのである。

私はもう一年あまり日本語を専攻として大学で勉強している。大学志望を書く時から、日本語を勉強する決意をした。それは私の心の拠り所を探し助けるということである。すべての人は必ず自分の心の拠り所が必要であり、私にとって、それはその灰色の翳の日の「レモンエロウの絵具をチューブから搾りだして固めたような単純」な綺麗な檸檬の黄色だからである。それは私の「檸檬」、私がずっと探しているものなのである。それが、私の日本語を選んだ理由の一つである。

そして、なによりも、自分が日本文学という仲間をより深く理解したい、より多くの人に自分たちの「檸檬」を発見してもらいたいと思ったから、というそれだけの理由である。

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