沈黙の表、醜悪の裏
孫天宝 景徳鎮芸術職業大学
高校時代、一度宮崎駿氏の代表作『千と千尋の神隠し』を見たことがある。心に焼き付いて離れないので、この頃も見返りしているが、実に興味深い文芸作品だと思っている。
映画の中に、千尋が銭婆の所に行く時、電車の中の乗客やホームステイで電車を待ち合わせる乗客が全部黒っぽい姿で、無口で、無表情な面影で、自分のことをやっている。このシーンに目を向け、宮崎監督がどうして通常のように乗客達を人間本来の様子を表現しなくて、史上に前例のない特別な表現手法を使ったのか。また、それを通じて視聴者達に何を伝えたいのかという二つの疑惑が頭に浮かんできた。
映画を顧みると、異世界をバックグラウンドとして、現代社会の典型の公共エリア――電車は空想と現実の交わりとして、日本文芸作品によく見られている。
このシーンで電車での黒っぽい姿の乗客達が偽善な異世界原住民で醜い世界を代表しているのに対して、現実世界から来た千尋が元々真実な色で理想な真善美を代表している。その鮮明なコントラストによって、千尋の存在が浮き上がられるのだ。
一方で、そもそも理想な日本社会には何も言わずに着実的に仕事をこなし、責任を負う人が高く評価されているが、沈黙を人の美徳として励まされ、「沈黙は金、雄弁は銀」「言わぬが花」「知らぬが仏」などの美徳がその典型の例である。
しかしながら、どっしりとした物腰でしみじみ考えて見ると、現実の日本社会は逆に正反対であろうと思われる。多くの無口で沈黙の日本人は責任を逃れ、公共エリアに自分発言の間違いを避けように、いっそのこと誰しも話す権利を諦め、極端的な方向へと進んでいくのではないだろうか。同じことが他にもあり、加藤秀俊氏『沈黙の世界』という著作で、まさしく映画の中に表現されることが描かれ、異曲同工な役割を果たした。
「満員電車で、乗客たちの行動を見ていて気がついたことがある。それは、このおびただしい数の、押しつぶされた人間たちが、例外なしに無表情で、しかも無言だ、という事実である。みんな、むっつりと黙って、つまらなそうな顔をしている。」
そうして、映画の乗客達が大和民族の具体的な映像であり、大和民族の国民性もこの沈黙文化に徹底的に暴露させられるのであろうと思われる。にもかかわらず、純真無垢の千尋は暗闇の光のごとく、率直で勇敢に他人に手助けし、真実な自分自身を見つける旅は沈黙文化との戦いと言っても過言ではないだろうかと考えられる。
沈黙の表で裏には一体どういうことであろうか。その点について日本人の視聴者達に検討させたいと思い、宮崎監督の真意をやっと飲み込むような気がした。