私は生まれた「自己」という人間である
林家琪 天津外国語大学
「世界の正常な部品」と「自己」は、どちらを選べばよいのかという問いを考える。
初めて「コンビニ人間」を読み終えた後、この小説が生み出した多くの解説文の中でも「社会のアウトサイダー」に共感が湧いてきた。
感情エンジンが動かない古倉さんは、両親が彼女の「変な」行動に悩んだ末、コンビニの店員になった。古倉さんは、統一された制服を身に着け、他のことよりもコンビニの仕事に没頭し、「世界の正常な部品」と呼ばれるものになったことを楽しんだ。しかし、白羽さんと出会った後、古倉さんは「普通の人」の基準により深く引き込まれてしまった...
古倉さんの姿や体験は、まるで現代社会の縮図のようである。自分や周りの人に迷惑をかけない生活を送ることが、他人から指摘されることがよくある事例が見受けられる。そして、この世界では、人々が常に「普通の人間の基準」に従い、親切な言葉で「異常」とされる人々を排除しなければならないという現実が存在する。
そう考えると、私は小学生時代の経験を思い出した。その時、読書に夢中になっていた私は、家にある何十枚ものプリントアウト用紙を自分で厚い原稿用紙に綴じ、人生初の小説を書き始めた。しかし、周りの女の子たちがK-POPに夢中で、私はジャズ音楽を聴いていたことに違和感を感じた。幼いながらに、人々は「変な人」を排斥し、議論する本能を持っていた。やがて、私は友達が少なくなり、小説を書いていることには口にしなくなった。
机のそばにある黄ばんだ小説の草稿を見つめながら、「どうして諦めたんだろう?」と自問した。小学生時代の私は、他の人に合わせて流行の音楽を聴き、小説を書くことを諦めてしまった。古倉さんと似て、私も他人の影になってしまったのである。
しかし、私は「普通の人」という基準に完全に合わせたにもかかわらず、針でを刺された風船のように、夢への情熱を失い、「自己」認識を失いつつある。「これで本当に楽しいの?」と自問した。私は「社会の秩序を守る」ためだけに生きているようで、豊かな「自己」のために生きたことは一度もなかった。心の底ではまだ悔しい思いをしているようで、少しずつ自分が変わっているようである。
今の私は、人々が均一化された「世界の正常な部品」や標準をあまり気にしなくなった。自分の個性を生かすことを選んだおかげで、今の私は、より自由に夢を追求することができるようになった。
改めて冒頭の質問に対する答えを考えると、私はこの本の最後のページでの言葉が最も相応しいと感じた:
「気がついたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです...誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。」
古倉さんのこのセリフに何回も心を打たれ、ずっと心に響いている。将来同じような状況に直面した時、もっとしっかりと答えを叫んでいくと信じている:
『私は生まれた「自我」という人間である---』