「学び合い」という教育の本質

2023-12-07 15:49:00

葉淳  福州大学外国語学院  

 

  近藤喜文監督のスタジオジブリの長編アニメ『耳をすませば』は、主人公の月島雫と天沢聖司の2人を中心とした青春映画だ。しかし、この映画は、単なる青春映画ではない。そこには、夢に向かって切磋琢磨する人々が描かれており、興味深い。

  雫と聖司はお互いの趣味や夢を熟知しており、友情を育んでいる。聖司はバイオリンに興味があるので、イタリアにバイオリン作りを学びに行きたいと思っている。そして雫は、そんな聖司の夢への強い姿勢に喚起され、自分の最初の小説を完成させようと決めることになる。そして雫は、物語を書く過程で、聖司のおじいさんに励まされていくのだが、聖司がイタリアを離れてバイオリンの勉強をしている時、雫はついに、自分の小説を完成させ、聖司のおじいさんに手渡すことに成功する。聖司のおじいさんは雫の小説を読み、「素晴らしい、素晴らしい」と言って激励する。雫はその言葉に感動し、彼女は引き続き執筆に励むことを決心し、聖司の帰りを待つのである。

 映画は雫と聖司の交友関係を表現しているだけだと見ることもできる。しかし、ここには、たとえ「先生」や「生徒」「学生」という肩書がなくとも、互いに学び合い、自身の能力を向上させていく関係がある。それはまさに、「教育の本質」と言ってもよい。聖司の立場から見れば、雫のことが気になって、自分の夢と未来を率先して追求することが、自分にとっても雫にとっても大切なことだ。そして、その確固とした決心が、雫も動かしていく。自信を持って、自分が選んだ道を歩む人は、他人にとって、まるで夜空に上がっていた花火のように、他人を照らすことだろう。聖司が前に進むことで、雫もまた前に進むことができる。逆に、雫が努力していると思うからこそ、聖司はバイオリン作りに集中できるのだ。これはまさに、「学び合い」である。

  私はここに「教育の本質」を見た。聖司も雫も優等生だが、二人とも型にはまった勉強生活がつまらないと思っている。ただし、つまらなくても、夢があるため、勉強は勉強としてしっかり行いつつ、互いに切磋琢磨するのだ。つまり、教育の本質は、私たちに、各学科の専門用語や知識を暗記させることではない。「どうやって自分の能力を向上させるか」「私の長所は何か」。そうした問題について、互いに学び合い、自分で答えを見つけられるようになること、それが教育なのだ。

  中日交流も同じだ。古代中国の国力が全盛だった時代。日本が中国に使者を派遣して、中国の政治や文化などを学んだ。中央集権体制や漢字、仏教などである。他方、近代になると、中国は、日本の立憲君主制などを学んでいった。こうした関係を見ると、中日交流もまた「学び合い」なのだ。他国の優秀な部分を謙虚に受け入れると同時に、自国の国の状態も豊かにすること。聖司と雫のように、今後も中国と日本の学び合いが加速することを切に願っている。

関連文章