哀しみとの出会い
劉妍荻 長江師範学院
哀しみとは一体なんだろう、と考えながら、『美しさと哀しみと』という川端康成の老年作を読み終わた。その内容は今でも映画のように自分の頭の中で浮かんで いる。この様な、桜のように美しく、幻な悲劇とは思わなかった。
それは二十四年間にわたる、愛と復讐の物語だった。小説家の大木は浮気で、二十歳未満の音子と悲恋した。そして二十四年後画家になった音子の弟子、景子に復讐された。音子は何年たっても大木のことが忘れられないと同時に、若くて美しい景子は音子に恋した。こうして、三角関係が因果となり、悲劇が起こった。
初めて読んだ後、私はこの本の繊細さに驚いた。倫理的な本筋の印象と違って、各時期人物の繊細な感情を強調した。その感情は一度も告白していないのに、冥々の中で物語が進んでいた。まるで水面に落ちた小石で、さざなみが消えずにいつまでも終末を迎えられない。
その時、中学校で学んだ日本文学の「物の哀れ」を思い出した。日本文学は悲しみの基調に長じて、哀れの美を描き出すことができる。この物語も同じく、秋や冬の山景色と黄昏の光が思う存分に表現のみならず、大木と音子の二十四年間にわたる悲劇も終焉を迎えることを暗示していた。
『美しさと哀しみと』は、主人公大木をめぐって三人の女性の悲劇を描き出した。二十四年前、十七歳の音子が難産と自殺未遂から、大木を忘れることができなかった。弟子の景子は大木に復讐するため、災いを招った。そして大木の妻の文子も長年の不公平を受けされ、精神は傷つかれた。三人の女性は間違いなく心を込めて、愛する人を大切にしようと努力した。それでも、いい結局を迎えられなかった。もし除夜の鐘を聞かずに、大木は京都へ行かなかったなら、音子に二度と会えないかもしれない。だが、何年が経ってもお互いに忘れていないから、再び出会うのも必然となった。それも美しくて悲しい「物の哀れ」だと思っている。
誰かの愛の悲劇を話しただけなのに、私はどうしてそんなに寂しく感じしてしまったのだろう。その原因は、中国文学は日本文学に比べて、より強い喜びと悲しみを強調しているが、日本文学は生の為に死を賛美し、そして生活の現実を平凡に表現していたのかもしれない。悲しみと喜びはもっと近くになったから、主人公の現実感がより鮮明で、どこかで平凡に生活しているみたいな感じがした。
「物の哀れ」は悲しみをもっと悲しくなった。そのおかげで、私は生活に対する新しい理解ができた。それは予想不可能ほど細長く、悲しみさえ繊細すぎるものだ。だから私は、生活の意味を考えて、「確かな幸せ」という言葉を初めて理解した。大きなことを求めるのではなく、身近にあるほんの小さな出来事に目を向けるべきだ。物事と出会うのは偶然で、悲しい定めに泣くより、今の時間を大切にするこそ、自分にとって一番の答えだ。