万葉集についての感想

2023-12-07 15:56:00

呉淑怡  深圳職業技術大学  

 

世界には様々な本がある。書籍の好みは人それぞれである。推理小説が好きな人もいれば、古典名著が好きな人もいる。私なら、詩に夢中になっている。最近、私は日本の万葉集を読んだ。この本は私を深く引き込まれて、夢中にさせた。

詩と言えば、人々は中国の『詩経』やタゴールの『飛鳥集』が思い浮かぶかもしれない。確かにこの二冊はとても有名だ。しかしながら、私は『万葉集』がこの二冊に匹敵する実力があると思う。『万葉集』は日本最古の詩集で、中国の『詩経』に相当する。『万葉集』の詩歌は4世紀から8世紀の半ばにかけて長短の和歌を収集した。多くの詩歌が奈良時代の詩歌だ。私は全ての詩歌がそれぞれの独特な気品があると思っている。その上に、異なる読者がゆっくりと読んだり、じっくり鑑賞したりすることで感じられる気品さは違う。千人の心には千人のハムレットがあるということは、詩歌にも当てはまるということだ。

『万葉集』は内容によって、相文と挽歌と雑文の3種類がある。相文とは贈答歌と恋の歌ことだ。挽歌は亡くなった人を悼んだり、亡くなった人を慰めたりする歌だ。その2つに属さないものは雑文だ。

私は『万葉集』の「雷神の短歌」が大好きだ。「雷神の短歌」は相文の1つとして、特に感銘を受け取った。奈良時代では、恋愛は比較的自由ではなく、多くは婚姻関係だった。それなのに、「雷神の短歌」の中でこの2人は詩歌を通して相手への深い愛情を表現した。風が吹いて雨が降るのみならず、風は穏やかな日も待っている。たとえ現代でも、こんな感情は貴重なものだ。現時点としては、恋愛は比較的自由だ。だからといって、人々は純粋な感情が欠けてしまう。それに、ゆっくり暮らす悠々自適な生活に欠けてかもしれない。しかしながら、『万葉集』の「雷神の短歌」の2人は困難があっても、純粋な愛情があるということに私はとても感動した。

『万葉集』の作品の多くは映像やゲームに使われている。例を挙げると、新海誠の『君の名は』の中で『万葉集』の「夕暮れ時」を引用していた。黄昏の時が一番思いが重いと伝えられている。それに、『万葉集』の夕暮れ時は深い未練を表している。この時、人々は亡くなった人に会うことができると思っているかもしれない。従って、後になって、亡くなった人への思いを夕暮れ時に伝える詩がたくさん生まれた。

詩は当時の人々が感動を表すだけでなく、自分を表現することができると思う。国によって表現や表現の仕方が少し違っても、感情は国境を越えて人の心に届く。

私は詩歌を通して人と人の心の触れ合いの大切さについて考えたい。私は今後の発展の中で、詩を通して中日友好往来のために自分の力を尽くしたいと思っている。詩は国境を越えて世界中の人々の共感を呼び、世界の平和と発展を促すことができると思う。それが詩の意味としての使命だと私は考える。

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