まったく同じ形のパズルのピースは合わせることはできない

2023-12-07 16:18:00

顧镭  上海外国語大学賢達経済人文学院  

 

 縁というものは本当に不思議なものだ。すれ違った二人を引き合わせることができるから。

 ある晩、終電に乗り遅れた大学生の山音麦と八谷絹は、駅で偶然出会う。居酒屋で一杯やることになったのが最初の出会いだった。その場に押井守がいることに自分たちだけが気付いたことで、心の距離が少し近くなった。そして、好きな文学や映画、音楽などの趣味が、まるで合わせ鏡のように似通っていると、お互いに感じ惹かれ合っていく。同じ靴を履き、同じ趣味を持つ二人は、まるでこの世界のもう一人の自分に偶然出会ったような気がして、瞬く間に恋に落ちた。

 二人は多くの物事に対して同じような考えを持っていたので、様々なことを議論したり説明したりする必要はなかった。このような関係性だったからこそ、愛の悲劇が待っていたのかもしれない。この悲劇という言い方は適切ではないかもしれない。愛し合う者にとって、愛が悲劇であるはずはないからだ。

 秋は春にとって悲劇なのだろうかと、ふと思った。このような結末にはどのような名前をつけるべきだろうか。しばらく考えてみたが、それは待つこと、四季が繰り返すのを待つことであろうという考えにたどりついた。恋愛とは、気候のようなものだと思う。春の山が青々としているときもあれば、大雪が舞って険しいときもある。胸の奥に刻まれる愛は夕陽のように輝き、情熱的でロマンチックだが、はかないものでもあり、瞬く間に消えるかもしれない。別れた人に対して、消えない思い出を残すだけだ。愛という言葉の意味のひとつには、失うという意味も含まれているのだと思う。

しかし、これは軽々しい後悔ではなく、かつて愛し合っていた二人が結局はお互いを失念してしまったことに由来する痛恨の極みである。ミラン・クンデラが「恋愛は帝国のようなもので、信念の上に築かれ、信念がなくなれば、帝国も一緒に崩壊する」と言っている。山音麦と八谷絹が喧嘩することさえ考えられないほどになったとき、愛の意味もまた終着点、つまり喪失に至ったのである。

 時は流れ、山音麦は変わり八谷絹も成熟していくが、どんなに時間が経っても二人の愛に対する思い出は、21歳の時の終電のバス停の記憶で止まっている。それは二人が共有する思い出であり、たとえ最終的に結ばれなかったとしても、その瞬間は永遠なのだ。

 良い恋愛映画は、必ずしもお菓子のような甘い話ばかりではない。花のように咲き誇る喜びもあれば、色褪せた苦しさもある。そんな優れた恋愛映画である『花束みたいな恋をした』を人生の18年目に観ることができたことは、とても幸運なことである。

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