想いを伝え信頼関係を確かめ合う「手の触れ合い」

2023-12-07 16:19:00

邱倩霊  福州大学外国語学院  

 

「本当に先生の授業を受けているのだろうか」。コロナ禍は終わりを迎えたが、私の大学では、まだ日本人教員は帰国できず、オンライン授業が続いている。そんな先生の授業中に、私はどこか「違和感」を感じつつ、それをうまく表現できないでいた。

そんななか、一本の映画に出会った。それは、中国の映画“隠入塵煙”。「小さき麦の花」という邦題で、日本でも有名となった作品だ。中国の農村を舞台に、そこで暮らす夫婦の物語が描かれる。その夫婦は、家族の厄介者扱いの寡黙な夫・馬有鉄と障害を持つ妻・曹貴英である。広大な大地のもと、自然や社会の厳しさを背景に、麦を植え、ジャガイモを収穫するといった夫婦の慎ましい生活が活写される。小麦をお金に換えて、少し贅沢をすることが、彼らのささやかな幸せだ。

映画では夫婦はほとんど言葉を交わさない。しかし私にとって「狂おしいまでの夫婦の愛」を感じた場面がある。ようやく、小麦が売れる季節になり、幸せな日が来るという時だ。妻・貴英が過労のため、水の中に落ち溺れてしまう。そして、麦も家さえも手放していく夫・有鉄。普通であれば、心が折れそうになる状況だ。そうした中、夫婦が無言で寄り添い、互いの手にそっと触れる場面がある。そして、夫婦はお互いの手の甲に、麦で花の印を作るのだ。言葉はないが、夫婦は、互いの手の温もりを感じ、共に生きてきた道、そこでの苦楽を労わり合ったのだろう。そしてなにより、愛を伝え合ったのだろう。私は、そんな夫婦の所作に「付き添うことは永遠の愛だ」という中国の名言を思い出しつつ、「狂おしいまでの夫婦の愛」を感じ取ってしまった。手に描かれた花は、今までの、そしてこれからも続く「愛」の象徴なのだ。

 私がオンライン授業で感じた「違和感」の正体。それは「手による触れ合いの欠如」だった。先生の言葉は理解できても、先生が歩んだ人生、先生の人柄は、分からない。しかし、映画で私が感じたように、手によって触れ合う交流には、手の温かさを通して、互いの人生、性格、人柄、そして今後の関係性までもが、心に瞬時に伝わるのだ。私はここで、「人の心つのは言葉ではなく、手だ」と考えた。

思えば、コロナ禍で「非接触」が繰り返し強調された。食卓を囲んで楽しく食事をするという当たり前のことが、高望みになった。他人が咳き込む時、相手の背中をさすることもできない。それはまさに、「手による触れ合いの禁止の時期」だったのであり、人間関係は一変した。

だがコロナ禍を脱した現在、中国と日本の往来も活発化している。中国と日本を巡る情勢は微妙だが、今後、中日交流を再出発させるために、言葉だけでなく、まさに手を差し出し合い、触れ合いながら、想いを伝え、信頼関係を取り戻していけたらと思う。そして将来、映画のなかの馬有鉄と曹貴英のように、中国と日本がずっと寄り添い、共に歩める夫婦のようになることを切に願ってやまない。

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