太宰治「カチカチ山」から考える善悪の問題

2023-12-07 16:20:00

尤弘宇  福州大学外国語学院  

 

善行とは、「誠実・平和・文明・公平」などの原則を守る行為であり、逆は悪である。中国には「善小を以てしてはならず、悪小を以てしてはならない」という古い言葉がある。つまり「良いことをするように奨励し、悪いことはダメだ」という意味だが、人生で出会う物事には、絶対的な尺度では測れないこともある。太宰治の『お伽草紙』にある短編「カチカチ山」がいい例だ。

「カチカチ山」では、狸がおじいさんにさらわれた後、狸がおじいさんの妻のおばあさんをだまして殺害する。それに、おばあさんの親友の兎が腹を立て、狸をだましてやけどを負わせ、傷に唐辛子粉を塗って溺れさせ、復讐するという物語だ。文中の狸は食いしん坊で怠け者で、ウサギの食べ物をむさぼる、「悪の権化」とも言える存在だ。他方、兎は狸を罰するので、「正義の権化」のようだ。しかし、本当にこうした理解でいいのだろうか。

兎は正義のため、大きな過ちを犯した狸を罰したが、狸を苦しめ、最終的には殺害する。また、兎は狸を殺しただけでなく、狸を拷問している。ここから分かるのは、善と正義が発揮されるのは、時には悪の手段によってであるということだ。狸は、当然罰を受けるべきだが、ではどのような罰で、どのように罰するべきなのか。この基準は社会が、既存の法律や約束が決めるべきことである。また狸がそもそも捕まった理由は何か。また、おじいさんは狸をどうするつもりだったのか。狸がおばあさんを殺したのは自分の身を守りたかったからではないのか…。これらの問題にすべて答えてから、罰するべきなのだ。そうしないと、狸を罰する兎が、自らの悪を用いて狸を罰してよいかどうかは、明確ではない。

思えば、各国の死刑制度には、多くの議論がある。死刑は最大化された悪で正義を助長するものだからだ。死刑は人に警告を与えるが、殺人そのものは悪だ。

ここから、善は絶対的なものではないことが分かる。兎は狸に更生の機会を与えず殺した。これは完全な善とは言えない。他方、悪も絶対的ではない。悪の手段の背後には、善があるかもしれない。犬が人を噛む場合、犬を悪だと思うが、犬が人を噛むのは、泥棒や犬が自分の赤ちゃんを守るためだと思った時は、悪だろうか。嘘をつくのは悪だが、不治の病の患者に「大丈夫」と伝えること、成績の悪い学生を励ますこと、それもやはり悪なのだろうか。人を傷つけるのは悪だが、シンガポールでは、鞭刑が刑法にある。

善と悪にはそれぞれの尺度があり、私から見れば、善が悪にならないように、悪の手段が間違って使われないようにするには、法律の尺度を守り、法律と社会の公認の基準に基づいて正義を発揮させ、罪人を罰するべきだと思う。善を悪に変えることはないのである。

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