世界の医学史上まれにみる奇跡

2023-05-24 14:41:00

衛生科の医療要員は十余時間にわたる緊張した大手術に成功し、ついに張秋菊さんの腹部から45キロもある大腫瘍をとりだした。
衛生科の医療要員は十余時間にわたる緊張した大手術に成功し、ついに張秋菊さんの腹部から45キロもある大腫瘍をとりだした。

人民公社に救急車がきた

去年の二月のある日、腫瘍に苦しむ婦人公社員張秋菊(チヤンチユウチユイ)の家のまえに中国人民解放軍某部隊の救急車がついた。それをみて村中の貧農·下層中農の喜びようといったらなかった。

「毛主席が張秋菊の病気をなおすために解放軍をよこしてくださったぞ」

とかれらは隣近所に知らせてまわった。

もよりの家々から老若男女がどっとかけつけた。張秋菊の顔を洗ってあげたり、髪を梳いたり、衣服の着替えを手伝ったりで忙しい。

腫瘍のため大きくふくらんだおなかをかかえ、オンドルにひざをついて、ものによりかかっている張秋菊のよろこびは格別だ。やつれた顔に久しく見られなかった笑いを浮かべ、まわりの人びとにこう言った。

「みなさん、わたしはこの大きなおなかをかかえてあちこちの病院をかけずりまわりました。大病院の『大先生』たちは、ダメだとかムダだとかいってわたしを追いかえしました。ところが解放軍は自動車まで出してわたしを迎えにきてくれるんです。わしらのような農民を入院させるためにわざわざ迎えにきてくれる兵隊さんの話なぞ、むかしは聞いたことがありません……」

かの女は声をつまらせ、熱い涙で頰をぬらした。


毛沢東思想の活学活用の経験を話しを合う衛生科の軍医と張秋菊さん
毛沢東思想の活学活用の経験を話しを合う衛生科の軍医と張秋菊さん

かの女がこれほど感動したのには、つぎのようなわけがある―

鉄道労働者の訴え

一九六八年三月のある日、鉄道労働者の崔炳午(ツイピンウー)は、病気の妻張秋菊を荷車にのせて、中国人民解放軍北京(ペイチン)部隊某部の衛生科をたずねた。病人の腹部は異様なほどにふくれあがり、坐ることもできず、ひざをつき両手でからだをささえているありさまだ。衛生科の係員に面会すると、崔炳午は身内の者に会ったときのように、しっかりと相手の手をにぎりしめ、

「解放軍の同志、死をまつばかりの病人をつれてきました」

と言った。

軍医たちはすぐさま張秋菊を診察した。顔色は悪く、やせこけているのに、体重は九六キロもある。大きな腫瘍が腹部と胸半分にひろがっている。軍医たちは、この階級姉妹に限りない同情をよせた。どうしてこんなになるまで治療をしなかったのだろう?

崔炳午はため息をつき、妻が発病いらいの苦しみを語った。

張秋菊の腹部に腫瘍ができたのは一九六四年のことだった。さっそく、大病院に診察をうけにいった。病院では病因をよくつきとめずに、卵巣囊腫と判断して手術をした。腹部を切開したが、婦人病ではなかった。外科にまわされた。外科でも腹部を切開した。腫瘍、それも茶碗大のものが発見された。

さわらぬ神にたたりなしをモットーとするかれらは、患者に三時間も苦しい思いをさせたすえ、腫瘍には手をつけずに切口をぬいあわせ、「腹膜外悪性線維肉腫、切除のすべなし」と診断書に記入した。そのごも、有名な大病院を二つたずねてみたが、どちらもくびを横にふって受け入れてくれなかった。こうして、かの女は「不治の病」として病院から見離されたのだ。

腫瘍は日一日と大きくなり、やがて立つことはおろか、横になることもできなくなり、オンドルの上にひざをつき、ものによりかかっていなければならないので、両ひざには厚いタコができた。自分の身のまわりのことさえできなくなってしまったのだ。


手術前の張秋菊さん
手術前の張秋菊さん

そのごも、かの女は大きな病院をいくつもまわった。旧衛生部にも手紙を出して頼んでみた。しかし、そうした努力は水の泡だった。病はかの女をさいなんだ。……そこまで話すと、崔炳午は衛生科の同志たちに頼んだ。

「こちらには『専門家』なぞいないのはよく知っています。今日、こうして来たのは専門家や権威者が目当ではありません。毛主席が指導しておられる軍隊を訪ねてきたのです。どうか病人をうけ入れてください!」

張秋菊こそは、中国のフルシチョフ―劉少奇(リユウシヤオチー)が医療衛生面でおしすすめた反革命修正主義路線の被害者だった。崔炳午のことばは、大裏切者劉少奇が無形の刀で勤労人民を斬りさいなんだ大罪への怒りの糾弾だった。それは衛生科の同志たちの心に革命の烈火を点じた。大裏切者劉少奇がおしすすめた反革命修正主義の医療衛生路線は生きている人間を墓穴におしこんだのだ。われわれは、毛主席のプロレタリア革命路線を指針として、階級姉妹の張秋菊の病気を治してみせよう、と衛生科の同志たちは言つた。

衛生科の党支部はただちに部隊の党委員会にこのことを報告した。すると部隊の党委員会は、「われわれの衛生科は小さいが、貧農·下層中農には大いに門をひらくように」と指示してきた。

そんなわけで、張秋菊を一応帰宅させてから三日目に、救急車をおくって入院させる運びとなったのだ。

最初にあたえたもの

張秋菊は入院した。かの女を迎えて衛生科の同志が直面した問題はほかでもない、病気にうち勝つ信念をかの女自身が失っていることだった。

かの女は約四年まえにブルジョア反動衛生工作路線から「死刑」を宣告されてきた人間なのだ。入院当初はよろこんでいたが、やがて、絶望感がぶりかえし、どうせ死ぬんだと、いつも暗い顔で、ひどく無口だった。「この病気をなおすには、手術しなければならない。手術をすると、その日のうちに死ぬそうな……」かの女が口にすることばといえばいつもこれだった。

そうしたかの女に希望と信念をとりもどさせること、これが治療の成功を左右する鍵であった。


衛生科の軍医たちは毛沢東思想学習班をひらき、毛主席著作を活学活用して誠心誠意、人民に奉仕する思想を身につけている。

衛生科の軍医たちは毛沢東思想学習班をひらき、毛主席著作を活学活用して誠心誠意、人民に奉仕する思想を身につけている。

どうすればよいのか。

よく慰めて、病気はかならず治ると保証してやればよい、と言う者がいた。

口先だけではだめだ。実際に効果のある方法をみつける必要がある。

これまで多くの大病院でも手をこまねいて施す術がなかった。この小さな衛生科に起死回生の大手術をやってのける力があるだろうか。

ビタミンをたくさんあたえればよい。そうすれば体力がつき、信念もつよまる、と提案する者がいた。

ビタミンと聞いて、同志たちはかの女にいまもっとも必要なビタミンはなにかについて討論をはじめた。いまのかの女にもっとも必要なのはビタミンではない。薬にはかの女の気持ちをかえさせる力がない。かの女に必要なのは、世界でもっとも大きな威力をもつ毛沢東(マオツオトン)思想、この最強の思想的武器だ、ということにみなの意見が一致した。

かの女が入院してから衛生科が最初にあたえたものはほかでもない、毛沢東思想だった。毛沢東思想でかの女を武装させ、病気にうち勝つ信念をつよめさせることだった。

衛生科は、かの女が毛沢東思想を活学活用する手助けとして、軍医ひとり、衛生員ひとりをとくに指名した。衛生員の李維超(リーウエイチヤオ)はかの女が毛沢東思想を活学活用するのを援助し、また日夜つきっきりでかの女の面倒をみた。ふたりはいっしょに毛主席の著作を学び、ふるい社会で勤労人民がなめた苦しみを、ふるい中国でのわが家の苦しみを思いおこし、毛主席と共産党の指導のもとに解放をかちとったいまの仕合わせな生活をそれとひきくらべた。大裏切者劉少奇がすすめた、人をなぶり殺すブルジョア反動路線を、ふたりでいっしょに批判した。

張秋菊は幼いころに七ヵ月しか学校にかよったことがない。そのとき学んだわずかばかりの文字も、三十七歳になるいまではすっかり忘れている。

衛生員の李維超は、毛主席の語録を一字一句読んで聞かせ、その意味をくりかえし説明した。

ある日、李維超はかの女にたずねた。

「あなたの腫瘍をそんなに大きくしたのはだれだとおもいますか」

「大病院でしょう」

「いやちがう、劉少奇という大悪人ですよ」

「どうしてですか、劉少奇がわたしをこんな目に?……わたしを診察したこともないのに」

すかさず李維超はこう説明した―大病院が貧農·下層中農の患者に悪らつな態度をとったのにはわけがある。大裏切者劉少奇がおしすすめたブルジョア階級の反動的な医療衛生路線を、かれらは執行していたからだ。この反動路線は、もっぱら都市の「旦那」どもに奉仕するもので、貧農·下層中農の病人をまるきり念頭においていなかったのだ、と。

路線闘争について教えられ、張秋菊は目がさめたかのようだった。

「わたしをこんな目にあわせたのは、あの劉少奇だったのですね、あの男がわたしを生かしておくまいというのならわたしはぜがひでも生きぬいてみせる。あの男がわたしを殺す気なら、わたしはどんなことがあっても死にはしない!」

かの女は怒りの叫びをあげた。かの女は李維超に手をとってもらい、「中国のフルシチョフ―劉少奇打倒」と大書した。

劉少奇はわたしをこんな目にあわせた。それにひきかえ毛主席のりっぱな戦士たちはわたしを死の淵から救い出そうとしてくれる。それに気づいたかの女は、毛主席に、毛主席の革命路線に、限りなく深い階級的感情をよせるようになった。いつも見れるように、毛主席の肖像をベッドの枕辺にかかげてほしいと李維超にたのんだ。学習をはじめて二十日もたたぬうちに、かの女は、毛主席の語録を二十あまり暗唱できるようになった。「決意をかため、犠牲をおそれず、あらゆる困難を克服して、勝利をたたかいとろう」 


大裏切者劉少奇がおしすすめたブルジョア医療衛生工作路線を徹底的に批判する衛生科の医療関係者
大裏切者劉少奇がおしすすめたブルジョア医療衛生工作路線を徹底的に批判する衛生科の医療関係者

「われわれの同志は、困難なときには成果に目をむけ、光明に目をむけ、勇気をふるいたたせなければならない」 

このふたつの語録をかの女は座右の銘として毎日暗唱した。

かの女の気持ちはすっかり変わった。まえには人と顔をあわせたがらなかったのに、いまでは衛生員にたのんで、入院している婦人の患者を自分の病室に連れてきてもらい、〈父母よりも親しい毛主席〉など、偉大な指導者毛主席をたたえる新しい歌を教えてもらった。かの女はよくしゃべり、よく笑うようになった。悲観した様子はすっかりなくなった。「毛主席、毛主席、あなたの教えを守って、どんな大手術も恐れはしません」

とかの女は、いつも毛主席の肖像をみつめて、自分に言い聞かせた。

毛主席はかならずわたしのいのちを救って下さる。毛沢東思想で武装した解放軍の戦士たちはかならずわたしの病気を治してくれる、と、かの女は信じてうたがわなかった。かの女は病気にうち勝つ信念をつよめ、階級意識を高め、正しい死生観をうちたてた。

ある日、見舞いにきた夫に「病気が治ったらひきつづき革命のために働き、社会主義の建設につとめます。万が一、手術中に死ぬようなことがあったなら、解放軍の同志にお願いして腫瘍をとり出してもらい、治療の方法をみつけ出すようにあなたから話して下さいね。そうして貧農·下層中農が二度とこの病気に苦しめられないようにして下さい」とかの女は言った。

かの女は毛沢東思想で自分を武装したのだ。もう手術をおそれる気持ちはない。これが手術を成功させる重要な要素なのだ。

正しい診断をくだす

張秋菊の思想上の問題は解決した。つぎに衛生科の同志が取り組んだのは、かの女の病気が治せるものかどうか、病状をはっきりつかむ仕事だった。

衛生科の党支部は、まえにかの女の病気を手がけた病院に学習班をおくって様子をしらべさせた。学習班は、大病院のプロレタリア革命派と革命的な大衆の熱心な協力をえて、かの女の症状と大病院での治療状況をつぶさに知ることができたし、かの女のカルテにも目をとおした。

発病は一九六四年、左の下腹部に小さなかたまりができた。翌年の六月、北京のある大きな病院に入院した。はじめは産婦人科で、のちに外科にまわされてそれぞれ手術をうけた。手術の結果、腹の中に茶碗ほどの腫瘍があるのがわかった。腫瘍のあるところは深くて血管が多く、臓器の各部とはりついている。腫瘍は下部が大きく、柄がない。切除すればひどい出血をともなって命が危い。というわけで、三時間もかけながら、腫瘍のごくいちぶの組織を切りとり、病理科へまわした。検査した結論はさきにのべたように「腹膜外悪性線維肉腫」ということになった。こうして腫瘍はそのままで切開口はふさがれてしまった。その病院はかの女を同じ北京のもうひとつの大病院にまわした。そこでは、抗ガン剤をあたえただけである。一ヵ月あまりも抗ガン剤をのんだが腫瘍はいっそう大きくなった。

そのご、かの女はもういちどその大病院へゆき診察をうけた。内科のカルテには「治療の必要なし」、化学治療科のカルテには抗ガン剤を一ヵ月あまり服用したが効果がないため、かさねて治療するのは「意味なし」としるしてあり、外科は「切除のすべなし」とみなした。

で、病院はかの女の退院をすすめ、「帰ったらもうどこにもみせる必要はない。家計にゆとりがあれば、せいぜいおいしいものでも食べさせてあげなさい」とかの女の夫につげた。

一九六六年、かの女はまた、北京にある第三の大病院にでかけた。だが、「専門家」や「権威者」が結論をくだしていると聞くとその病院ではくわしい診察もせず、薬すらくれなかった。

以上のようにして、かの女はブルジョア「専門家」「権威者」から「死刑」を言い渡されたのである。

衛生科の学習班はそれらの病院で、広はんな革命的な人びとの熱心な協力をうけて、かの女の病状と治療経過をくわしく調べる一方、腫瘍の治療に関する知識や経験もいろいろと身につけた。……

学習班の同志たちは、調査結果をたずさえてもどり、経過をみなに報告した。この報告を聞いて一部の者には、かの女の治療に自信を失う、思想的なさまたげが生じた。

「大きな病院では手術をして腫瘍をその目で見、組織の病理学的検査もしているのだから、結論をくつがえすわけにはゆかない。『不治の病』にまちがいない」「こんな大手術は、大きな病院でも九九パーセントまで死んでいるという。われわれのこの小さな衛生科では一〇〇パーセントのぞみがない」

などの意見をはく者があらわれた。

こうした考え方をとらえて、衛生科の党支部は毛沢東思想学習班をひらいた。

まず討論したのは、かの女の病気が「不治の病」かそれとも「治せる病」かだった。


大胆に考え、大胆に行動する革命精神を発揮して、自分たちの手でつくった模型で手術のさいの切口をくりかえし研究する衛生科の軍医。
大胆に考え、大胆に行動する革命精神を発揮して、自分たちの手でつくった模型で手術のさいの切口をくりかえし研究する衛生科の軍医。

「人類はたえず経験を総括して、なにかを発見し、発明し、創造し、前進してゆかなければならない。停止の論点、悲観の論点、無為徒食と傲慢不遜(ごうまんふそん)の論点は、みなまちがっている」 

と毛主席はのべている。

「不治の病」などという考え方は悲観の論点であって、毛沢東思想に反する、とみなは言った。病気のなかには、すぐには治らないものもある。だからといって、その病気の治療法がないというわけではない。そうではなくて、自分たちの考え方が実際の病気に追いつかないからだ。いつかはその病気を治せる日がくるのだ。

「死にひんしている者を救い、負傷者をたすけて、革命的人道主義を実行しよう」 

と毛主席は教えている。

ブルジョア「専門家」とか「権威者」は「不治の病」を口実に、人民大衆を病院からしめ出してしまった。毛主席の革命路線に忠実な戦士の本分は、死にひんしている者を救い、負傷者をたすけることなのだ。これがプロレタリア階級の医療関係者のもつべきプロレタリア階級の感情だ。したがって、張秋菊の病気にどう対処するかは、二つの路線のどちらを実行するかの大問題なのである、と。

「百分の一の望みをかちとるか、それとも、百分の一の望みを放棄するか」についてふれたとき、それは方法の問題ではなく、二つの路線の闘争だとみなが言った。もしも反革命修正主義の立場にたち、ブルジョア的医療観点で問題をとらえるなら、「私心雑念」が先にたち、名声や利益を失うことをおそれ、危険をまえにして二の足をふむことになる。そうすれば、たとえ九分九厘まで望みがあったとしても、のこりの一厘の危険をおかすのがこわくなるわけだ。それに反して、毛主席の革命路線にたち、誠心誠意、人民に奉仕し「少しも利己的でなく、ひたすら人につくす」精神で、名声も利益も無視するなら、たとえ百分の百の危険でもあえてひきうけられる。毛沢東思想をもってこのたたかいを指揮するのだから、階級姉妹の張秋菊に百分の一の望みでもあるなら、それはかならず百分の百の現実に変えてみせる。かの女を治せるという百分の一の望みでも、これをかちとる義務こそあれ、放棄する権利はないのだ……


人民に誠心誠意奉仕する先進的な衛生科の人びと
人民に誠心誠意奉仕する先進的な衛生科の人びと

こうした激しい論争をへて、同志たちはみな、二つの路線のたたかいにたいする意識をつよめ、決意と勇気をいっそうつよめた。ブルジョア階級の反動的な「専門家」や「権威者」がくだした結論に盲従してなるものか!

「青年は大胆に考え、大胆に意見をのべ、大胆に実践し、なにものをもおそれぬ創造精神をふるいおこすべきで、有名人や権威におびえてはならない」 

と毛主席は教えている。

この教えを守らなければならない。実践して自分たちの結論を出そう、とかれらはきめた。

衛生科の同志たちは、張秋菊の病状について三〇余項目にわたる全面的な検査をくりかえした。かの女の体質や腫瘍とそのまわりの組織との関係などにいたるまですべてはっきりつかんだ。弁証法にもとづく真剣な科学的分析によって、「悪性腫瘍ではない」との結論に達した。かの女の病は「不治の病」ではなく、「治せる病」だと、かれら独自の結論をくだしたのである。

大衆こそ真の英雄

かの女の病を治すには、ひとつしか方法がない。大きな腫瘍を切りとって、階級姉妹をおしつぶす「大きな山」をとりのぞくことである。

「大きな山」を移すには誰にたよるか。

事務関係者はこう言った。

―必要なものはすべてわれわれの手でととのえる。ただし、医術の方は軍医にまかせる、と。

衛生員はこう言った。

―たとえ三日三晩ねむらなくても看護はりっぱにやってみせる。だが、腫瘍を切りとるのは軍医にお願いする、と。

軍医はこう言った。

―腫瘍を切りとるには執刀者が頼みのつなだ、と。

誰にたよるかは医術上の問題ではない。二つの路線の闘争という大問題なのだ。衛生科の党支部は、毛主席の大衆路線についての教えをみなといっしょに学んだ。この学習で、同志たちの認識は大いに高まった。大衆を信じ、大衆に依拠すること、これが毛主席の提唱する革命路線のなかの大問題だ。毛主席の革命路線をわれわれが守るかどうかの鍵がそこにある。それはまた、張秋菊の病気を治せるかどうかの鍵でもある、と同志たちは考えた。もしもかの女の病気を治す望みを執刀者数名に託すなら、それは「専門家路線」の変形であって、かの女にまたしても苦しみをあたえる破目になる。専門家の技能には限りがある。だが、大衆の知恵には限りがない専門家に治せないからといって、大衆に治せないとはかぎらない。われわれは政治的には大衆路線をとる。技術面でもわれわれは大衆路線をとらなければならない。衛生科の党支部は、かの女の治療に医学の専門家をまねかず、毛沢東思想で武装する同志たちにたよる決意を固めた。この同志たちは、業務の学習と医術の向上に明け暮れているのではない。かれらは、毛主席の革命路線に忠誠をつくしたい一心なのだ。

党支部は、衛生科全員の総決起大会をひらき、毛主席にかぎりない忠誠心をしめした。

毛主席の革命路線をまもり、衆知をあつめる高まりがおこった。軍医、衛生員、炊事係、飼育係はもとより、入院中の傷病兵もこの「たたかい」に身を投じた。事務室、炊事場、病室のいたるところで、張秋菊の病気を治すにはどうすればよいかが議論された。ひとつの難題を提起するのは、敵をひとり捕えることだ。ひとつの措置を考え出すのは、毛主席への忠誠心のあらわれだ。そうした心構えで、衛生科の全員が何百もの問題を出した。それを党支部は十の問題にとりまとめた。いずれも、これまでにぶつかったことのない難題である。いくら書籍を読みあさっても答えはみつからない。大衆を動員して対策をねった。


張秋菊さん(左から3人目)は、偉大な指導者毛主席への限りない熱愛の情を胸に展覧館にでかけてゆき、観衆とともに自分の腹部から切りとった45キロの大腫癌を見た。
張秋菊さん(左から3人目)は、偉大な指導者毛主席への限りない熱愛の情を胸に展覧館にでかけてゆき、観衆とともに自分の腹部から切りとった45キロの大腫癌を見た。

麻酔の問題、これが大きな難題のひとつだ。小さなこの衛生科にはまず麻酔の専門医がいない。軍医の高家政(カオチヤチヨン)は麻酔を学んだとはいえ、わずか三ヵ月である。かの女のようにまれな患者に麻酔をかけた話なぞ聞いたこともない。こんどの手術に、かれは他のふたりの同志と麻酔の任務をうけ、麻酔組をつくった。三人は夜を日についで他の人びとと研究に没頭した。手術中に発生すると考えられる麻酔上の事故についてかれらはいろいろと対策をねった。麻酔をかける設備を三組用意し、発生可能な事故にとるべき措置もねりあげた。それでも三人は安心できず、手術のはじまるまえに、カン詰のあきカンを利用して「簡易麻酔罐」をつくって、いざというときにそなえた。

執刀のさいのメスの入れ方についても、みなの知恵で理想的な案をさがした。炊事係は食事の用意をすませると、鉢を腹部にみたててメスの入れ方を考えた。入院患者は病室で枕を相手に案をねった。軍医や衛生員は、ひょうたんや泥でつくった模型をかこんで、患者の腹部の組織をなるべく傷つけずに腫瘍を完全にとり出すための切口について、昼夜の別なく研究した。

深夜だというのに、衛生員の馮学明(フオンシユエミン)はその問題を考えつづけていた。階級姉妹が大裏切者劉少奇の反革命修正主義路線にさいなまれる情景が走馬灯のようにまぶたをかすめる。かれはベッドから起きあがると、服をはおって机にむかい、考えては描きつづけた。三十数回描きなおしたすえ、ついに、かなり理想的な「切開図」をまとめあげた。執刀のさいの最終案が、衛生科全員の一致協力のもとに完成した。

「張秋菊を救い、毛主席の革命路線を守るためにたたかおう」この考えが赤い線のようにすべての幹部、戦士、労働者、家族、入院患者の心をしっかりとひとつに結びつけた。営繕科は、手術に特種な台がいると聞いて、夜なべしてつくりあげた。家族は手術のさいにガーゼのタンポンがたくさん入用だと聞くと、すすんでタンポンつくりをひきうけた。軍械所(兵器の整備や修理にあたる部門)と通信大隊は手術中の不慮の停電にそなえて発電機を二基用意した……

衛生科の同志たちの奮闘ぶりはとりわけ目ざましかった。寝食を忘れて二十日あまり知恵をしぼり、十の問題に対処する一二〇余の具体案をまとめあげた。

こうして、多くのプロレタリア革命戦士が心血をそそいだ手術計画ができあがった。


大腫瘍を切りとってすっかり健康をとりもどした張秋菊さんは、畑仕事もできるようになった。
大腫瘍を切りとってすっかり健康をとりもどした張秋菊さんは、畑仕事もできるようになった。

毛沢東思想で戦闘を指揮

昨年の三月二十三日の朝、七時三十分、衛生科の全員は朝日を浴びながら、偉大な指導者毛主席に誓った。

『死にひんしている者を救い、負傷者をたすけて、革命的人道主義を実行しよう』というあなたの教えを必ず守ります。どんなことがあっても張秋菊の大腫瘍をとりのぞき、偉大な毛沢東時代に生をうけるかの女に、仕合わせな生活と楽しい労働をあじわってもらいます」

七時四十分、政治指揮、手術などの八つの戦闘組が各自の持場についた。

手術室内の壁には、毛主席の肖像と語録がかかげられ、厳粛ななかにも明るさがみなぎっている。

解放軍という毛沢東思想の大きな学校の中で三十日ちかく暮らした張秋菊は、「決意をかため、犠牲をおそれず、あらゆる困難を克服して、勝利をたたかいとろう」と毛主席の語録を暗唱しながら手術台の上に安らかに身を横たえている。毛沢東思想で武装する革命戦士たちがりっぱに手術をやってくれる、とかの女は信じてうたがわないのだ。かの女にはかり知れない勇気をあたえたのはほかでもなく毛沢東思想なのであった。

表の人びとは、注意力をこの手術室に集中していた。兵営に居住する指揮員、戦士の多くが手術室のそとをとりまいていた。入院患者も衛生員に助けられてやってきた。だれもがかたずをのんで勝利の知らせを待っている。

手術がはじまった。予想どおり、危険な事態がつぎつぎにあらわれた。

麻酔をかけて五分たたないうちに、張秋菊は呼吸困難におちいり、血圧がさがった。心臓ははげしく鼓動し、顔には冷たい汗の玉がにじみ出た。あっというまのできごとである。事前に準備をととのえてはいたものの、あまりにもとっさのことなのでいささかたじろぎ、手筈がくるいそうになった。手術の成否を左右するこのとき、立会っていた部隊の責任者は、

「われわれの必要とするものは、熱烈であるが沈着な態度と、緊張しているが秩序のある活動である」 

という毛主席の教えを朗読して、みなをはげました。

危険な事態をまねいた原因はただちに判明した。軍医の高家政は思いきって手早く「簡易麻酔罐」にきりかえた。こうして、すべてが正常にかえった。

だが、腹部を切開したときに、また困難に直面した。腫瘍の表面が膜におおわれている。この膜は、はたして腫瘍のものか、それとも腹膜か、という疑問が生じたのだ。はじめの案では、内臓の汚染による手術後の併発症を防ぐため、腹膜のそとで腫瘍を切りとることになっていたのである。

腹腔に手をつけないようにするには、まずこの膜がどちらのものかをみきわめる必要がある。そのとき、党支部書記は、毛主席の教えをもってみなを元気づけた。

「われわれの責務は、人民にたいして責任をおうことである。一言一句、一つ一つの行動、一つ一つの政策がすべて人民の利益にかなっていなければならない……」 

仕事にたいしては「極度の責任感」をもち、人民にたいしては「極度の熱誠」をもち、「技術については、研究のうえにも研究をかさね」なければならない、という毛主席の教えにしたがって仕事をすすめるよう、支部書記はみなにもとめた。毛主席の輝かしい教えをみなの胸に

きざみつけ、どのような動作にもこの教えを活かすことをみなにもとめたのである。

メスをにぎる五人の同志は、精神を集中してすこしずつはがしてゆき、ついにそれが腹膜なのをたしかめた。手術は終始腹膜外ですすめられた。これが手術後のかの女の健康回復をはやめるうえに大いに役立った。

腫瘍が姿をみせた。表面には血管が網の目のように走っている。しかもそれは腎臓、血管、輸尿管、腹膜などにはりついているのだ。手術組の五人は手分けして、くっついている部分をはがしていった。メスは使わず、タンポンをはさんだピンセットですこしずつはがしてゆく。他の臓器をそこなわず、大出血をふせぐためだ。五人はちょっとした動作にも、毛主席の革命路線への限りない忠誠心を、人民大衆への限りない熱愛の情をこめて、手術をすすめた。

手術は十時間におよんだ。人びとは手術台から一歩も離れなかった。のどの渇きも、空腹も感じなかった。軍医の何思義(ホースーイー)はひどい胃病で、いつもなら二、三時間と立っていることはできなかった。そのかれが腫瘍を手でうけとめる仕事をすすんでひきうけた。何十キロもある腫瘍を手にうけとめて、身動きもできない。腕がだるくなり、胃が痛む。

「この軍隊は勇往邁進の精神をそなえている。この軍隊はあらゆる敵を圧倒するのであり、けっして敵に屈服するようなことはない」 と毛主席語録を心の中で暗唱しながら、かれは最後までがんばった。


衛生科の先進的な思想と事績が中国各地にあまねく伝わると、多くの医療要員が経験を学びに続々と衛生科をたずねてきた。
衛生科の先進的な思想と事績が中国各地にあまねく伝わると、多くの医療要員が経験を学びに続々と衛生科をたずねてきた。

腫瘍をはがしている最中に、張秋菊の血圧が急にさがった。

輸血担当の軍医はすばやく輸血量をふやした。張秋菊の血管に血が注ぎこまれる。用意してあった血液五〇〇〇ccは残り少なくなった。手術室のそとで待機していた幹部や戦士たちが、階級姉妹のために血を提供しようと先を争ってつめかけた。階級兄弟三八人の若い戦士が提供した七五二〇ccの血液が、張秋菊の血管に休みなく注がれていった。血圧は正常にもどり、手術は順調にすすんだ。

腫瘍はまわりからはがされ、底部があらわになった。戦闘は決戦の段階に入った。太い血管が底部を走っている。それを傷つけたら、あっという間に、全身の血が失われてしまう。最大の難関だ。ということは、最後の勝利をおさめる鍵でもある。軍医の車利義(チヨリーイー)は、主な戦闘任務をひきうけた。二本の太い血管を腫瘍からはがすのである。

車利義が人民解放軍に参加したのは十三歳のときだ。これまでずっと毛沢東思想にはぐくまれてきたかれは、張秋菊が入院してから、気持ちの安らぐときがなかった。かれはいつも抗日戦争の砲火のとどろいたころ、解放戦争のころのことを胸に浮かべた。そのころはまだ幼かった。張秋菊のような貧農·下層中農が荷物をのせたロバをひいて行軍をたすけてくれた。われわれの部隊のために担架をかつぎ、布靴をつくって、われわれが勝利から勝利へと前進するのを助けてくれたのは、そうした貧農·下層中農ではなかったか。わが中国共産党と、党の指導する軍隊が何十年間にわたって決死のたたかいをつづけてきたのは、広はんな勤労人民をまもり、解放するためだった。いま、階級姉妹を救うためにかれは自分のもつ能力と知恵、階級姉妹への深い階級的感情を指先に集中し、メスをうごかしてゆく。二本の太い血管は腫瘍の血管網につながっている。それをつぎつぎにたどり、切断していった。

最後の細い血管が切りはなされた。時刻はもう夜の七時半だ。医学史上まれにみる大腫瘍は、ついに張秋菊の体からとりのぞかれた。計ってみると、それは四五キロもあった。

手術室の内外はよろこびにわき立った。

「毛主席万歳!」「毛主席万万歳!」

と叫ぶ歓呼の声がいつまでも兵営をゆるがした。

第二の青春

手術後四時間たって張秋菊は意識をとりもどした。かの女は腹部にそっと手をやってみた。熱い涙がとめどなくあふれた。かの女は、壁にかかっている毛主席の肖像を仰いだ。

「毛主席万歳!あなたのおかげでわたしは救われました!」

とかの女はさけんだ。それは限りない感謝のさけびであった。

夫の崔炳午は子どもをつれてかの女のそばにつきそっていた。四年ものあいだ、かの女の病に一家の者はどんなに心を痛めたことだろう。いま、毛主席にはぐくみ育てられた解放軍の戦士たちが、この子の母、自分の妻を死の淵から救いあげてくれたのだ。崔炳午はわが子の手をとり、限りなく深いプロレタリア的感情を胸に、毛主席の肖像のまえに立ち、えりを正して、毛主席の長寿をこころからいのるのだった。

多くの革命的大衆は手術成功の知らせを聞くと、毛主席の肖像をかかげて遠路をものともせずに祝いにきた。かれらは、この小さな衛生科が世界の医学史上にまれにみる奇蹟をうみ出したのを心から祝った。大きな腫瘍をみ、死の淵から救われた張秋菊の姿をみて、かれらは毛沢東思想の偉大な勝利を心からたたえ、怒りをこめて劉少奇を糾弾するのだった。

手術後六日目から、九五センチの切開口(補助の切開口をもふくむ)の抜糸にとりかかった。八日目には、かつてはひざをついて死を待つほかなかったかの女が、はじめてベッドをおり、立って歩いた。

現在のかの女はすっかり健康をとりもどし、麦刈り、家畜の世話、掃除その他なんでもやれるようになった。

「張秋菊は病気が治っただけじゃない。毛沢東思想を学び、階級闘争、二つの路線の闘争についての自覚も高めた。読み書きもできるようになった。ほんとに十歳も若返った」

と言われると、かの女は偉大な指導者毛主席への限りない感謝をこめて、

「若がえるのはあたりまえですよ、わたしのからだには、三八人の若い戦士の血が流れているのですから。毛主席がわたしに新しいいのちをさずけて下さったのです」

とこたえるのがつねである。

× × ×

毛主席と林彪(リンピヤオ)副主席は、この衛生科がしめした先進的な思想と事績を表彰するために、中国共産党中央委員会軍事委員会が「誠心誠意、人民に奉仕する先進衛生科」の栄えある称号をおくることをみずから批准した。中国人民解放軍と中国各地では、この衛生科に学ぶ運動をひろく展開している。

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