超高圧活線作業に従事する婦人たち
班員は二十余名、そのうちの四名だけが三十過ぎの子持ちの主婦だが、あとはみんな若い。一九六九年の夏だった。中国共産党第九回全国代表大会がうち出した団結·勝利の精神にはげまされて、広州供電公司で活線作業の技術革新の大衆運動が大きく盛りあがっていった。婦人の電気労働者たちも、男の電気労働者がそびえ立つ鉄塔の上で、送電状態のまま点検·修理を自由におこなっているのを目にして、決意をかためた―男の同志のように、わたしたちも送電状態で作業する技術を身につけ、社会主義建設に力をささげよう、と。
超高圧線上で、送電状態のまま自由に作業をする。これは、ここ数年らい、はじめて実行されるようになった、電力設備の点検·修理の新しい技術だ。いぜんは、わりあいに高い技術を身につけた男の電気労働者しかこれはできなかった。それまではもっぱら地上での仕事にたずさわっていた婦人の電気労働者が、高いところで、しかも送電状態の超高圧線上で作業をしようというのだから、あれこれと困難も多かった。だから、かの女たちが自分たちにもやらせてほしいと言いだすと、「その作業は、数十メートルもの高いところで、電気を相手にする仕事だ。すこしでも油断をすると、ひどい事故をおこす。だから、女の同志にはむかない」と男の電気労働者から言われた。それはかの女たちの身を気づかってのことばだった。しかし、かの女たちは、
「毛主席は『時代は変わって、男女ともに同じになった。男の同志にできることは、女の同志にもできる』とわたしたちに教えています。社会主義建設のために、世界革命を支援するために、わたしたちにもそれがやれると思います!」
と自信をこめてこたえた。
こうして誕生したのが「三·八」活線作業班である。
この作業をするには、まず高いところにあがっても、あわてたりびくびくしたりしないよう、自分を訓練する必要がある。これがまず第一の難関だ。
そのころは暑いさかりだった。はげしい日ざしをあびて、かの女たちはナワばしごをのぼる練習をした。高所にわたした角材の上をあるく練習や鉄塔によじのぼる練習もした。ひどい日焼けで、腕の皮がむけた。それもいちどや二どではない。手や足にも血マメができた。それでもかの女たちはがんばりつづけた。張桂英さんは、体力がないほうなので、ナワばしごのぼりの練習をはじめた当初は何段かのぼるともう汗だくになった。夜、寝床についても、足腰がいたみ、とても体がつらい。かの女は、毛主席の輝かしい著作「愚公、山を移す」をひもといた。老いた愚公のりっぱさが自分を励ましてくれる。(いまのわたしは困難にぶつかっている。けれども、長征当時の赤軍の困難にくらべたら問題にならない!)とかの女は思った。で、翌日、かの女は体の痛みをこらえて練習にはげみ、やがて困難をのりこえた。
つぎは高所にわたした角材の上をあるく練習だ。これがまたかの女たちにはむずかしかった。地上十数メートルの高所にかけ渡されている角材は長さ百メートルあまり、幅は四、五十センチほどしかない。角材の上に立ったとたん、体がふらつく。それに風でも吹いていたら、ぐらぐらする。下をみると目がくらむ。それはかの女たちにとってきびしい試練であった。そのころ、公司の革命委員会の責任者がかの女たちの様子をみにきた。そして「決意をかため、犠牲をおそれず、万難を排して、勝利をたたかいとろう」という毛主席語録をいっしょに学んだ。裏切者、敵のまわし者、労働者階級の奸賊劉少奇の「存命哲学」をはげしく批判した。その批判を深めてゆくにつれて、かの女たちの考えははっきりしてきた。「愚公は山に道をゆずらせた。わたしたちは電気に頭をさげさせなければいけない」とかの女たちは言った。苦しい練習がつづけられた。半月あまりたつと、全員が高い角材の上を自由にあるくことができるようになった。
ひとつ困難をのりこえると、また新しい困難がまちかまえていた。鉄塔によじのぼること、これが最大の難関だった。
高い山の上にそびえる鉄塔は空にとどくかと思われる。塔の上に立てば、雲は身近かにただよい、地面ははるかに下だ。はじめて塔にのぼるときは、しっかりと安全ベルトをかけていても、目がくらんだ。それでもかの女たちは一歩もひるまなかった。鉄塔によじのぼる作業を、かの女たちは私心とたたかい、修正主義を批判し、世界観をあらためる闘いとみなした。きびしい練習がかさねられていった。ついに、数々の困難をのりこえて、この難関も彼女たちは突破した。いよいよ塔上作業だ。
よく晴れた朝、彼女たちは作業をおこなった。はじめにおこなったのは、おなじ電位のもとで、送電状態での作業だった。二十二万ボルトの超高圧線が数百キロにわたってつづく。それは空をとぶ銀蛇を連想させる。その強力な電界に入ると、「パチパチ」と放電の音がする。かの女たちは興奮と緊張につつまれた。だが、毛主席のために栄誉をかちとり、この作業に婦人が従事する道をきりひらくのだと思うと、みんな大胆になった。誰もが先を争った。共産党員の鄭水銀さんと鄧翠瓊さんのふたりは「共産党員は困難な、危険なところであればあるほどみんなの先に立つべきです。この作業はわたしにさせてください!」ときっぱりした態度で申し出た。公司の指導者は、安全措置を入念に点検したあとで、鄧翠瓊さんをまず最初に指名することにした。かの女は、『毛主席語録』を胸のポケットにおさめ、勇敢に、しかし落着きはらってナワばしごをのぼっていった。強力な電界を目のまえにしたときだった。地上で見守っていた同志たちは、「決意をかためて前進しよう!」と声をそろえて叫びつづけた。それがかの女をどんなに励ましてくれたことだろう。放電の音がひびく。かの女は二十二万ボルトの電圧を身につけた。とみる間に、班の同志がつぎつぎにのぼり、作業をはじめた。こうして超高圧を征服するたたかいでみごとな勝利をおさめた。
かの女たちは勝利に乗じて、二十二万ボルトの高圧線上での自由作業をめざしてすすんだ。最初に指名されたのは林玉明さんだった。作業当日は、風がつよく、電線も碍子もゆれつづけた。かの女は胸につけている毛主席のバッジに目をやった。とたんに、あたたかいものが体にそそぎこまれる思いをした。つきることを知らない力が身内にみなぎった。小さな赤旗をベルトにはさみ、上へのぼっていった。同志たちはかの女をじっと見守っていた。電界に近づいた。林玉明さんはたくみに電線の上をすすむ。一歩ごとに足の下で放電の音がする。だが、毛沢東思想にはげまされるかの女は、二十二万ボルトの超高圧の電界に身を入れ、送電状態のまま自由に点検·修理をみごとにやってのけた。
「毛主席万歳!」
人びとの歓呼の叫びを耳にしながら、かの女は小さな赤旗を電線にむすびつけた。勝利をつげる赤旗は風にはためいた。それはとりわけ美しく思われた。
いま、この班の者はひとりのこらず、十一万ボルト、二十二万ボルトの電線路での同電位作業、二十二万ボルトの電線路での活線自由作業をこなすようになった。
(高征宇)