中日友好のために種をまいた友人たち
一九七二年九月二十九日は中日両国人民にとって記念すべき日である。この日、中日両国政府は共同声明を発表して、両国間のこれまでの不正常な状態に終止符がうたれ、外交関係が樹立されたことを宣言した。これによって、長いあいだ両国人民が強くのぞんでいた中日国交正常化が実現されたのであった。中日国交正常化は、中日両国人民が長期にわたりともに奮闘したたまものである。
広はんな日本人民、日本の各階層の友人ならびに組織が、中日国交関係樹立のために、うまずたゆまず努力をつづけたことを、中国人民は永久に忘れないだろう。
中日両国人民の友好往来
「日本人民と中国人民とはよき友である」と中国人民の偉大な指導者毛主席はのべている。
中日両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、二千年にわたる長い伝統的な友好の歴史をもつ。しかし、過去半世紀にわたり、日本軍国主義者が中国を侵略する戦争をおこしたことによって、中国人民はきわめて大きな災難をこうむり、巨大な犠牲をはらわされた。それはまた、日本人民にも大きな損害をもたらした。中国人民は、毛沢東主席の教えにしたがい、ひとにぎりの軍国主義分子と広はんな日本人民とを一貫して厳格に区別してきた。中日両国間の戦争状態が終了しておらず、各種の原因により国交が回復されていなかったにもかかわらず、中華人民共和国成立後、両国人民は友好的な往来をたもってきた。中日両国人民の友誼の増進をめざして、中国政府はすべての戦犯を釈放し、帰国を希望する数万の日本人居留民の帰国を助け、多数の日本人の遺骨をおくりかえした。
中日両国間に国交関係が樹立されていない状態のもとにあっても、わが国の関係部門は、日本の多くの友人を中国にまねいたし、自由民主党の有識者多数を中国に招待した。この二十数年らい、日本の労働者、農民、婦人、青年·学生、政界、財界、宗教界の人びとおよび映画、ラジオ、テレビ、新聞、出版、文化·芸術、美術、教育、スポーツ、医療·衛生、漁業など各界の人びと、旧軍人の代表がたえず中国を訪れた。中国を訪れた外国の友人のなかで、ここ十年らい、日本の来賓の数がほとんど毎年首位をしめてきた。訪中する日本の友人のなかには、多くの障害を突破してきた人もいれば、自力で旅費をつくってきた人もいる。また、闘争のすえ、はじめて中国訪問の機会をかちとった人もいる。
この二十数年らい、日本各界の人びとの招きにこたえて中国の労働者、青年、婦人、経済·貿易、科学·技術、文化·芸術、スポーツ関係の多くの代表団が日本を訪問した。そのなかで、第二次世界大戦後初めて日本を訪問したのは、一九五四年、李徳全女史を団長とする中国紅十字会代表団であった。ついで日本を訪れたのは、一九五五年、郭沫若中国科学院院長のひきいる中国科学代表団である。中国代表団は、日本滞在中、各界の人びとからあたたかい歓迎ともてなしをうけた。労働者、青年·学生、文化人、芸術家、友好団体に所属する友人は、寝食を忘れて中国代表団に便宜をはかり、援助をあたえ、縁の下の力持ちの役をつとめてくれた。
経済·貿易の面では、日本各界の人びとは中日両国間の友好貿易、覚書貿易、民間貿易にすすんで参加した。日本の財界人は、毎年春と秋に広州でひらかれる交易会に勇躍参加し、両国間の貿易を促進し、相互の理解を深め、両国の国交回復のために力をつくした。一九五五年十月から一九六六年十二月までのあいだに中国は前後三回にわたり東京、大阪、北九州、名古屋で商品展あるいは経済·貿易展をひらいたが、入場者は八百万を数えた。一九五六年十月から一九七二年四月までのあいだに、日本側も北京、上海、広州、武漢、天津で前後九回にわたり商品展あるいは工業展をひらいた。以上の事柄は、中日両国間での経済交流をうながすうえで大きな役割をはたした。
日本各界の友人の努力
日本人民と各界の人びとからなる日中友好関係の組織は、両国間の民間交流と日中国交回復をうながすうえで重要な役割をはたした。
この数年らい、日中友好協会(正統)、日中文化交流協会、日本国際貿易促進協会などの友好団体は、日本の各地で各種の展覧会、講演会、座談会をひらき、中国における社会主義革命と社会主義建設を広はんな日本人民に紹介して、中日両国人民の相互の理解を大いにふかめた。
藤山愛一郎氏を会長とする日中国交回復促進議員連盟、蠟山道雄氏を呼びかけ人代表とする日中国交正常化国民協議会、中島健蔵氏を議長とする日中国交回復国民会議などの日中友好関係の組織が相ついで誕生し、日本の各地にその支部をおき、有益な活動をくりひろげ、日中友好と日中国交回復運動の発展を促した。
社会党、公明党、民社党などの野党は、日中国交正常化をうながすために、大きな努力をはらった。
一九五七年および一九五九年には、浅沼稲次郎社会党中央執行委員会書記長と張奚若中国人民外交学会会長は二回にわたり共同声明を発表した。
社会党は、日中国交回復のためにあくまでたたかう決意をしめし、日中関係に対する社会党の基本的な立場をも明らかにした。
中国側はそれにたいして歓迎の意を表した。
浅沼稲次郎先生は、不幸にも暗殺され、すでに十二年になる。氏は日中国交正常化に貢献し、自分の生命をも犠牲にした。
佐々木更三社会党前委員長と成田知巳委員長および多くの社会党の友人もまた、日中国交正常化の促進に大きな努力をはらい、大きく貢献した。
一九七一年七月、竹入義勝公明党委員長を団長とする公明党訪中代表団は、北京において、中日友好協会と共同声明を発表した。公明党代表団は、声明の中で、有名な日中国交回復に関する五原則をはっきりとうち出した。
一九七二年の三月―四月、春日一幸民社党中央執行委員長を団長とする民社党訪中代表団が、中日友好協会と共同声明を発表し、すみやかに中日両国間の戦争状態を終了させ、両国間の国交を回復させることを主張した。
さきごろ、田中角栄内閣総理大臣は、「日中国交正常化の有利な点は、すなわちいままでの野党と日中国交回復促進議員連盟の努力により、すでにある程度までの軌道ができあがっていることである。これらの苦労を評価するとともに、かれらが今後も協力されるように、希望するものである」とそれを評価した。
中国人民は、中日関係の正常化促進のためにたゆまぬ努力を払ってきた日本各界の友人に対し、こころから感謝の意を表するものである。
中日両国政府の共同声明の発表にさいして、中日国交正常化のために奮闘努力された友人たちのことを、人びとは思いおこさずにはいられなかった。
バンドン会議の前後に、日本の名士久原房之助、村田省蔵、南郷三郎などの諸氏があいついで中国を訪問した。
与党である自由民主党からも、石橋湛山、高碕達之助、松村謙三氏らの識者が、日中友好と日中国交回復促進のために、長期にわたって積極的な貢献をなした。
日本の元首相石橋湛山先生は首相であったときに、日中関係改善の意志を明らかにした。氏は、一九五九年九月、招きにこたえて中国を訪れ、周恩来総理と会談コミュニケを発表した。それは「中日両国人民は主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存の五原則とバンドン会議の十原則にもとづいて、中日両国人民の友好促進に努力し、両国人民相互間の信頼を深め、両国の現存の関係を改善し、また一日も早く両国の正常な関係を回復するよう協力すべきである」とのべている。
また、石橋湛山氏は、見識のある日本の人士は、過去中国を敵視し、「二つの中国」を作り出す思想や行動を容認したことなく今後も容認しない、とその考えを明らかにした。
十七年前、高碕達之助自由民主党国会議員·経済企画庁長官は、日本政府代表団をひきいて、バンドン会議に出席した。
そのさい、周恩来総理は氏と中日両国間の関係について意見を交換した。その後、一九六〇年および一九六二年に、高碕達之助先生は二回にわたり中国を訪れた。
一九六二年十一月九日、廖承志と高碕達之助の両者のあいだで、覚書の調印が北京でおこなわれ、平等互恵の基礎に立って両国の民間貿易をいっそう発展させることが決定された。高碕先生は逝去されるまで、一貫して日中両国関係の発展のために力をつくされた。
松村謙三自由民主党顧問は、覚書貿易の創始者である。かれは、一九五九年以降、五回にわたって中国を訪れ、わが国の指導者とたびたび会見した。一九六四年には、廖承志弁事処と高碕事務所は相互に代表を派遣し、相互に連絡所を設置すること、中日双方の新聞記者の交換をすることについての会談メモ、および覚書貿易についての会談メモを交換する儀式に出席した。かれは日中友好促進と両国関係正常化のために貢献したのである。去年の八月、松村先生は逝去した。王国権中日友好協会副会長は日本におもむき、先生の葬儀に列席し、中国人民を代表して敬意を表した。
「水を飲むときには、井戸を掘ってくれた人を忘れてはならない」
いま、中国と日本の両国人民が長期にわたって奮闘をともにした結果、ついに中日国交正常化というゆたかな実りを結んだ。中国人民は中日友好のために種をまいた日本の友人を、永遠に忘れないであろう、と周恩来総理はのべた。国交回復後における往来のなかでも、あれこれの困難に直面するだろうことは、いうまでもない。しかし、中日両国人民がともに努力することによって、あらゆる困難は克服され、新しい進展がみられるものと、われわれは信じている。
中日国交正常化がついに実現した今日にあたって、中日両国人民は、新たな情勢のもとで、両国の人民が子々孫々にいたるまで友好をたもつという崇高な目標を実現するために、努力をつづけてゆくであろう。