中日野球·ソフトボールの初交流
日本野球·ソフトボール代表団(団長·後藤淳氏、副団長·出川純氏、秘書長·村岡久平氏)が今年の八月、初めて訪中し、中国各地の人びととスポーツ界は、同代表団一行を熱烈に歓迎した。中日両チームの友好試合·技術交流は上海、西安、北京の三市で行われ、これを通じて、中日両国選手間の友好はさらに深まった。
日本野球·ソフトボール代表団は、愛知工業大学野球部の選手と、日本女子体育大学ソフトボール部の選手からなり、一行四十名である。
上海で第一回目の友好試合
八月十日、午後三時五分、上海の滬西(フーシー)体育場に「プレイボール」の声があがり、中国·日本野球チームの最初の正式な友好試合がはじまった。愛知工大チームと上海チームの対戦である―二回裏、上海チームの先頭打者鄧詩聖選手が巧みなバントで一塁へ。次打者王鑫芳選手も、バントに成功しランナーは一塁二塁。ワンアウトのあと、ランナーが重盗し、さらに本塁への悪返球で、両ランナーは一挙にホームイン。先制点二点をあげる。
一方愛知工大は、三回表、崎尾選手の三塁打、相磯選手の二塁打などで二点を返し、四回には中根選手の右越え本塁打、崎尾選手のヒットで二点追加。さらに七、八回にも、久野選手の三塁打、永田選手の二塁打、中根選手のヒットなどでダメおしの四点をあげた。
上海チームは、球歴一、二年の選手がほとんどだが、積極的に打ってでて、バント戦法やフォアボール、ヒットなどで、三、四、五、八回にも出塁したが、得点につながる一打が出ず、結局は、豪快なピッチングとパワーにあふれるバッティングを見せた愛知工大チームが勝った。
試合後、愛知工大チームの川合コーチは、
「先取点をあげたバント戦法はうまかった。強力な投手に向かってきた上海チームの気魄も立派。スピーディーな選手がいた」
と感想をのべた。
主審をつとめた渡辺亘夫氏も、「投手がもう少しコントロールをつけて、投球に変化をもたせるようにすればよくなります」
と印象を語る。
上海での第二試合は、愛知工大チーム対瀋陽学生チームだったが、どの試合でも「友好第一、試合第二」の対戦だった。
初日の上海チームとの対戦前、愛知工大チームの川合コーチはヘルメットを五、六コ上海チームのベンチへ持ってゆき、「これをかぶると安全ですから、思いきり打ってください」とわたした。上海チームの楊承徳捕手のレガスの膝の部分が小さいのを見た松川捕手も、すぐにベンチから取ってきた大きめのレガスを、楊承徳選手の膝の部分がすっぽりかぶさるようにとりつけてようやく安心するという具合だ。
試合中、愛知工大の選手たちは攻撃を終えて守備につくたびに、金属バットをかかえて、
「これで打つと、手もしびれないし、打芯も広いです」
と上海チームのベンチまでとどけていた。
愛知工大チームと瀋陽学生チームが、雨をおかして、ぬかるみの球場でくりひろげた熱戦も、印象深かった。
愛知工大の選手が投手の牽制球に、ぬかるみの中を一塁ベースにすべりこむと、瀋陽学生チームの一塁手は泥だらけになったランナーをすばやく抱きおこす。永田選手が水たまりの中を三塁ヘヘッドスライティングして、顔もユニフォームもぐしょぐしょにぬれ、泥だらけになると、瀋陽チームの三塁手はすぐにタオルをとりだしてそのよごれた全身をていねいにふく……といった場面が続出した。
この日は初日の試合と同じく、観覧席は超満員だったが、あいにく途中で雨が降り出した。上海の関係者は、いく度も試合中止を提案したが、川合コーチは、
「観衆のみなさんが熱心に試合を見ておられるのでこのままつづけたい」
と言う。
とうとう
「五回までで打ちきることにし、それ以前に雨が少しでも大きくなればただちに試合中止」
ということになった。
服も座席も雨でぬれたが、観衆は熱心に観戦しつづけた。
まもなく、降ったり止んだりの小降りとなる。だが、各ベースのまわりは水たまりで、グラウンドはぬかるみだった。ライナー性の打球でもぬかるみに落ちると急ストップし、投手の手がすべってワンバウンドした投球は捕手までとどかず、ぬれたファーストミットからすべり落ちた牽制球は泥の中ヘズッポリ。芝生のあいだにたまった水で手の泥を洗い落せるほどだ。
それでも日本の選手は中国の選手といっしょに力いっぱい打ち、投げ、走り、真剣にプレーした。
中根、永田その他の選手の水たまりでの猛烈なスライディング。ぬかるみの中をバックネットぎわへ捕邪飛を追った瀋陽学生チーム王思哲選手のダイビングキャッチ……
こうした両国選手のプレーとマナーに、観衆は惜しみのない拍手を送った。
試合後、ホテルへもどる車の中で野本投手はいった。「あれだけの雨なのに観衆はぜんぜん帰らない、ほんとに心をうたれました。言葉こそ通じませんが、中国の選手とドロンコの中で一生懸命やって、観衆の方がたとひとつになれたとおもいます」
西安でのソフトボール交流
「オールファイト!」「はいっ!」
「オールファイト!」「はいっ!」
西安冶金建築学院のグラウンドに明るいかけ声があがった。中日両国のソフトボール選手が入りまじって、肩をならべてランニングする。日本女子体育大学ソフトボールチームと、蘭州学生ソフトボールチーム、西安体育学院ソフトボールチームとの合同練習だ。
日本女子体育大学チーム名取コーチのシートノックが始まる。「球を見て、球を見てッ」「両手でキャッチ、はいっ」
と内野ゴロをつぎつぎに打つ。中国選手の好プレーに名取コーチは習ったばかりの中国語で「ハオ(うまい)、ハオ(うまい)」。送球が高めに返ってくると、両手をあげてしゃがみ、低く低く、と動作で意志を伝える。真夏の強い日差しにたちまち汗みずくとなるが、タオルでふきふき、ノックをなおひとしきりつづける。
内野、外野では、中国の選手と日本の選手が、それぞれのポジションにいっしょについてシートノックを受ける。ファーストでは小泉さんが、ゴロを捕球してからすばやくべースに入って二塁へ送球するときの動作を中国の選手にやってみせる。西安体育学院チームの選手が横っとびに伸したグローブのそばをライナーがかすめてとんでいくと、二塁の佐々木さん、「惜しいッ」と我がことのようにくやしがる。打球が伸びて蘭州学生チームの選手の頭上をオーバー、急いでふりむくと、球は素早くカバーにまわった日本選手のグラブにスッポリ。中国の選手も一生懸命日本の選手をバックアップ。
外野ではライトの植木さんたちが、
「バック、バック、はい」
とフライを受ける中国の選手に横から力ぞえだ。
合同練習がおわると、選手たちは、てんでに住所の交換、中国語、日本語の教わりあい、筆談、笑い声と若さがいっぱいである。
日本女子体育大学チームの佐々不さん、野林さん、西安体育学院チームの張瑛さん、蘭州学生チームの王鳳雲さんの四人が睦まじく話しあっていた。
野林さん―「中国の選手はほんとに足がはやくて手首が強いですね」王鳳雲さん―「球歴が短く、経験が浅いので、もっともっとあなたがたに見習わなくては……」
佐々木さん―「わたくしたち、言葉は通じなくても、スポーツをとおして、おたがいに気持がすっかり通じあえたという感じです。中国のみなさんもこんどは日本へきて下さい。日本の土地でもういちど日中友好試合をしたいなあとおもいます」張瑛さん―「ええ、日本の選手の方といっしょに試合や合同練習をして、友好という名の種を球場いっぱいに播けたとおもいます」
いよいよ別れだ。
「『さくら』の歌をうたって別れましょう」
と中国の選手たちから声があがった。
「『我愛北京天安門』もみんなでうたいましょう」
とこれは日本選手の声。
全員すばやく二列に並ぶ。山川副団長の指揮の手がサッとあがって、日本の選手后中国の選手も声をあわせて
「さくら さくら……」
つづく「我愛北京天安門」は、蘭州学生チームの選手が指揮。歌声はグラウンドいっぱいにあふれ、中日両国の選手は肩をよせあい、心と心をかよわせた。
北京での交流の日々
日本野球·ソフトボール代表団が北京についたのは八月十八日だった。
中華全国体育総会の関係部門の責任者牟作雲氏が歓迎の言葉をのべた。
「後藤先生は、月本の卓球チームを率いていくども訪中されたことがありますが、今度は野球·ソフトボールの代表団を率いてこられました。小さなピンポンの球がもっと大きな野球·ソフトボールの球になったことは、われわれの友好交流がまた新しく発展したことをしめしています」
後藤団長もあいさつの中で、「今後、日中の野球·ソフトボール界は固く団結し、アジア·太平洋地域および国際野球·ソフトボール組織において、中華人民共和国の正当な権利を確立させるため、私たちは友好的ないく多の各国·地域のスポーツマンと協力し、障害をうち破って、その実現をはかるため努力してゆきたいとおもいます」
と語った。
北京に新設なった野球場
豊台球場―
ここは北京での友好の球宴の舞台だ。両翼百メートル、中堅百二十二メートル、観衆一万を収容できる。「日本の野球·ソフトボール代表団が友好試合に来る」と聞いた北京の近郊·豊台区の人びとが、政府関係部門の決定がおりてから一カ月半でつくりあげた。
もとここは石コロだらけの荒地だったので、グラウンドは、他所から五千立方メートルの土を運んでつくられた。メイン施設の基礎工事は雨期のため慎重を期して三·二メートル掘り下げ、土をいくども薄くしいてそのたびにローラーでかためた。バックネットは幅二十八メートル、高さ八メートルの一枚づくり。視界をよくするため中間の二本の支柱はとりさってある。そのため、これを立てるときにはネットが大きくぶれて思わぬ困難にぶつかった。二台の起重機をつかい、午後の三時からはじめ、徹夜で翌日の午後三時まで作業をつづけて完成させた。労働者たちは休むように何度もすすめられたが、
「中日野球交流のためにどんなに汗を流してもなんでもないですよ」
とがんばった。
球場の施工中には連日、政府機関で働く入々、学生、野球選手などが応援に来た。
人々はいく日もふりつづく雨をおかして工事をすすめ、日本野球·ソフトボール代表団の北京到着前に球場を完成させることができた。
愛知工大の選手が球場に姿をあらわしたとき、工事に加わった人びとは、「ほんとうにお待ちしてましたよ」とよろこんだ。
球場づくりのあらましを聞いた後藤団長は、
「このようにしてできた球場で最初の試合ができることは光栄です」
と、とくにマウンドに立ってピッチングをおこない、バットを握って愛知工大チームの練習に加わった。「少しでもこの球場のお役に立ちたい」と、日本の選手たちは、それぞれ整地用具でグラウンドをならし、注意深く硬い土くれや小石を拾いあつめ、本塁のまわりへ水をまき足でふみかためる、などして全員が練習後のグラウンド整理に汗を流した。以後、北京での友好試合が終るごとに、新しい十本の整地用具で、中国の選手といっしょにグラウンドを整理するのが愛知工大の選手の「ならわし」となった。この豊台球場で愛知工大チームと天津学生チーム、北京学生チーム、解放軍北京部隊チームとの試合がそれぞれ八月二十日、二十二日、二十四日におこなわれた。このほか二十三日には第三回全国体育運動大会に参加する中国台湾省チームとの練習試合があった。
廖承志中日友好協会会長、荘則棟国家体育運動委員会主任、趙正洪中華全国体育総会主席らが友好試合を見た。
試合はどの日も快晴にめぐまれた。
野本投手の巧妙な下手投げ、本格派崎尾投手のすばらしいピッチング、松橋投手のするどい変化球、永田選手の旺盛な斗志と見事なリード、中根、松川、林、稲垣選手のパワーにあふれたバッティング、浜村、久野、進藤、星野選手のするどいスイングと駿足、今場、相磯選手の堅固な守備と胸のすくような併殺プレー、明快、緻密な試合運び、見事な連携プレーとチームワーク……。中国選手の側は、球歴一、二年ではあるが真剣な試合態度、強チームに力いっぱいぶつかっていく気魄、そして数こそ少ないが、観衆の拍手をあびた好守、好打、好走……。
こうした日本選手と中国選手のプレーとマナーには、さかんな拍手がおくられ、観衆に深い印象をあたえた。
技術と経験を交流
中国選手といっしょに練習するときの日本選手の熱意はたいへんなものである。
上海での合同練習のときだった。野本投手が、
「こういうふうに指のあいだにボールをはさみ、親指で軽くささえ、……」
とボールの持ち方、縫い目への指の掛け方、いろいろな変化球の投げ方を瀋陽学生チームの投手に一時間ほど指導すれば、崎尾投手も上海チームの投手に、
「腰はぜったい開かないように、上半身だけでなく全身をつかって……」
と、足、腰、手首、肩の理想的なつかい方をじっくりと模範動作をしめしながら説明した。
松橋投手はマウンドから中国選手のフリーバッティングのために、一球一球ストライクゾーンヘていねいに投げる。松川捕手も中国投手のピッチングの練習のため、長いあいだ捕球をつづけた。
愛知工大のどの選手も、中国選手の技術の向上を我がことのように考えて熱心に自分たちの技術、経験を伝え、中国の選手たちも謙虚な態度で真剣にそれを学んでいた。
残る訪中日程があと一日という日、愛知工大チームの一行は北京の名所·頤和園に遊んだが、その夜、川合コーチらは、昼の疲れもかえりみず、中国の十人近くのコーチと技術交流会をもった。
ひと昔前、日本の有名投手だった近藤禎三氏がまず、
「投手の踏み出した足は、投手と捕手を結ぶ直線上に踏みおろすべき……」
と黒板にチョークを走らせ、投手の基本動作とその要領を図解入りで詳しく説明した。
早稲田大学の往年の名選手鈴木陽一氏は、ボールとグラブを持ち、「打球の音と角度ですぐ落球点へ走れるよう練習をつむべき……」
と外野のスタート、捕球、送球の動作をいちいち実際にやってみせる。
ついで川合コーチがダウニングスイングの指導。部屋の一隅をあけて金属バットをにぎり、構えから振り切るまでの分解動作をくりかえししめしながら、各動作にくわしく解説をくわえた。
活発な交流が、深夜までつづいた。
「今夜は中国のコーチのかたがたといっしょに経験を交流することができまして大へんうれしくおもいます。今後、日本と中国のスポーツ交流がさらにさかんになることを願っています」
と川合コーチは最後に語った。北京学生チームのコーチも「野球の技術について懇切なご指導をいただきありがとうございました。中国のコーチ、選手たちの友情を日本の人びとにお伝えください。今回、日本野球·ソフトボール代表団が中国へ来て播いた友好という名の種はかならず豊かな実を結ぶでしょう。再び中国で皆さんとお会いできる日をたのしみにしております」
ソフトボール選手の友好
北京での中日女子ソフトボール友好試合は、航空学院グラウンドでおこなわれた。日本女子体育大学チームと天津学生チーム、北京学生チーム、武漢体育学院チームとの三試合がおこなわれたが、両国の選手は見事なプレーを見せ、経験を交流して友好を深めた。日本女子体育大学チームの野林さんは試合の印象を次のように語っている。
「北京学生チームとの試合の最終回、暴投が出て北京学生チームの三塁ランナーがホームへつっこんだとき、わたしはキャッチャーですからその人の表情がよく見えたのです。その表情は、とても親しみにあふれていましたが、また同時にすごく真剣で、どうしてもホームに生還するのだという気構えがはっきりうかがえました。そのとき、あー、ここにもソフトボールをこんなに情熱をもってやっている人がいるのだなあっておもったら、うれしくて思わず涙が出そうになりました」
日本女子体育大学の選手たちは訪中最後の日、北京学生チームの選手たちと八達嶺の万里の長城に遊んだ。北京学生チームの同伴に喜んだ山川副団長は八達嶺へ向かう車の中で、
「わたくしがみなさんを歓迎するために……」といって、
うれしや われらともに
ここにあたらしき友を
むかえ むかえ……
とうたった。
明日はいよいよお別れ、というので、万里の長城からの帰り道、中日両国の選手たちはほんとうに名残り惜しげだった。同じ座席にならんでいた野林さんと北京学生チームのキャプテン鄧小娟さんが話しあう。
「野林さん、卒業されてからはみんな先生になるのですか」
「テストやそのほかの都合でみんな先生になるとはかぎりません」
「先生にならないときは?」
「どこかでソフトボールを教える人になるかも知れません」
「そのときにはりっぱなコーチになってくださいね」
「シェーシェー(ありがとう)。ぜひ日本へいらしてください」
「あなたももういちど中国に来てください、きっとね」
「ええ、大学を卒業してから、お金をためてもういちど来ようと思っているんです」
「わたくしたちはもう旧い友人どうしですから、そのときは友情はもっともっと深くなりますね」
日本女子体育大学チームは中国を離れるとき、訪中期間中ずっと代表団につきそった中国の若い女性の崔亜菲さんに、ビッシリと寄せ書きの入ったTシャツを贈った。その中にはこういう一句があった。
この道より私を生かす道なし
この道をあゆむ
中国の人民と子々孫々まで友好的につきあってゆこうとする日本の選手の願いに、崔さんは強く胸をうたれた。
中国を離れる前夜、村岡久平秘書長はつぎのように語った。
「今回の中国訪問は、日本の男女選手にとってひじょうに楽しく、一生の思い出として残る有意義な十八日間だったとおもう。日本の各界のみなさんがひじょうに期待をよせられていた今回の初の日中野球·ソフトボールの交流は大きな成果をおさめた。野球·ソフトボールは日本でひじょうに多くの競技人口と愛好者をもっているし、中国でもプロレタリア文化大革命をへて、このスポーツがあらためて重視され、普及がはじまっている。こんご野球·ソフトボールの交流が、一つの新しい要素として、日中間の交流の発展、日中両国人民と選手間の友好増進にたいして少なからず寄与するものとおもう」