四つの現代化をめざす中国の青年
中国において、新たな長征をおこなう時代が、ついにおとずれた。今世紀中にわが国を、農業、工業、国防、科学技術の現代化した社会主義強国に建設することが、新たな長征の目標である。
「中国は新たな万里の長征をおこなう」というスローガンにわたしがはじめて接したのは、一九七五年のことだった。その年、かつて赤軍の二万五千華里の長征に参加した老幹部が、党中央と国務院の指示で、中国科学院の整頓の仕事にやってきた。ある日の報告会でこの老幹部は「われわれはいよいよ新たな万里の長征を始めることになった」というスローガンを提起し、参会者の血をわきたたせた。このスローガンは世間に伝わって、強烈な反響をよんだ。
だが、間もなくわたしは「新たな長征を宣伝してはならない、あの報告は『毒草』なのだそうだ」という話を聞いた。
ついで、王洪文、張春橋、江青、姚文元の「四人組」が周総理と鄧小平副総理をあしざまに攻撃しだした。「四つの現代化」を公然と口にするものは「資本主義の復活を企てるもの」という罪名をおしつけられた。
こうした重苦しい、陰うつな日々において、親しい者の間でひそかに論議された中心問題は、国家の前途と民族の運命だった。毛主席が指示し周総理が提起した、現代化した社会主義強国を建設するという目標は、歴史の潮流と人民の念願にかなっている、中国はこの目標に向かって前進すべきであり、後退は人心にそむくものである、と誰もがかたく信じていた。だが、当時の政治的なふん囲気から推して、前進するためには流血の革命が避けられないかもしれない、とわれわれは心配してもいた。ことに深刻に考えていたのは、古い世代の革命家が年とったいま、若者たちはその後継ぎという任務をりっぱに担っていけるかどうか、ということだった。
わたしは多くの青年たちを知っていた。当時、かれらは、いいかげんに仕事をする職場のふん囲気に強い不満を感じながら、どうすることもできないでいた。「四人組」がデッチあげた「右からの巻きかえしの風」なるものを批判する学習会に参加しながらも、発言する気などなかった。青春を無為にすごさないよう、余暇を利用して好きな学問をし、技術を身につけようとすると、政治に無関心だ、ときめつけられた。理想を抱きながらも前途が見当らず悩まざるをえなかった。
某部門の指導グループに入った青年幹部は誰よりも革命的なことをいっておりながら実際に追求しているのは名誉と私利私欲だ、某青年は堕落した、十年前に「紅衛兵」の小勇将だった誰々は、いまでは念頭にあるのは「わが家」を営むことだけだ……といった青年たちにとって不利な風評が少なくなく、こうしたうわさを聞くたびに、わたしの心は痛んだ。
中国の未来は青年の双肩にかかっている。かれらはこの重任を担えるだろうか。わたしは確信がもてなかった。
このようなわたしが、現代の青年にたいする認識を変えはじめたのは、一九七六年の春以後のことだった。
周総理逝去の悲しい知らせが、中国の大地を揺るがせた。地方にいたわたしは大急ぎで北京に帰り、天安門広場の人民英雄記念碑の前で、総理の逝去に哀悼の意をあらわした。
記念碑をうずめる花輪とおびただしい人群れのなかに、大勢の青年が腕をくみあい、パリ·コンミューンの砲火の中で生まれた〈インターナショナル〉の歌を低い声で歌いながら、重い足どりをはこんでいるのをみたとき、悲しみにとざされていたわたしは、自分の心がかれらの心と一つにむすばれているのを感じた。
周総理の死を悼む大衆の行動は、一にぎりの野心家、陰謀家の恨みをかった。「四人組」にもっとも厳しく支配されていた清華大学の電子工業学部の学生九名が、周総理の逝去を悼んで、白い花を捧げた。
この白い花にはつぎのような言葉が書き添えてあった。
「敬愛する周総理、あなたにもっとも深い崇敬の念をこめて、この白い花を捧げます。人民の深い心情をあらわす何千何万もの花輪のなかで、わたくしたちの白い花は、粗末なものにみえるかも知れません。だがこのような花でさえ、かれらはつくるのを許さないし、それを学園から持ち出すのを許さないのです。わたくしたちはやむなく校外で、この花をつくるよりほかはなかったのです。わたくしたちのすべての愛情、憎しみ、尊敬の念、憤激を、この白い花に心をこめて託します。敬愛する周総理、あなたはきっと、わたくしたちの行為を理解してくださるでしょう」
この白い花は、「四人組」のげきりんに触れた。清華大学にいる「四人組」の腹心は激怒し、白い花をささげた行動をきびしく追求して、関連者を捕える指示を下した。
北京の青年たちが「四人組」のファッショ的弾圧に抗して不屈の闘いをすすめていたとき、「四人組」のきびしい支配下にあった上海でも、大勢の青年が、拘置所や監獄ので真理を守って勇敢な闘争をくりひろげていた。
真理を叫びつづけて
上海化学工業機械工場の仕上工陸国樑さん(二十八歳)は、これらの勇敢な青年のうちの一人である。かれは一九七六年の春、「毛主席に矛先をむけた」という罪をきせられ、「上海民兵指揮部」によって、不法に逮捕された。
陸国樑さんはマルクス·レーニン主義、毛沢東思想を守り通したばかりに、迫害をうけたのである。
一九七五年の暮れから一九七六年の始めにかけて、「四人組」の上海における腹心馬天水らは、中央の指導者葉剣英、鄧小平、谷牧、胡耀邦同志らの談話を大量に集め、これを印刷して配布し、これらの談話は「マルクス·レーニン主義、毛沢東思想にそむく反動的言論である」と攻撃し、大衆にこれを批判するよう強要した。かれらは、国民経済を発展させることについての中央の指導的同志の談話をことごとく、「生産力理論」を鼓吹するもの、プロレタリア階級独裁の強化に反対するもの、と誹謗した。それを合理化するために、かれらはマルクス、エンゲルスなどの著作のなかから、語句をひとことふたこと抜きだし、ねじまげて使い、マルクス主義の真髄を改ざんした。
陸国樑さんはすぐにかれらの陰謀を見抜いた。かれは一九六四年から一九七二年までの間に『レーニン選集』『マルクス·エンゲルス選集』『毛沢東選集』を通読し、大量の学習体得を書いていた。マルクス·レーニン主義を系統的に学習していたので、林彪や「四人組」がマルクス·レーニン主義を欲しいままに改ざんしたのをすぐに発見することができたのである。(マルクス、エンゲルスは社会発展のなかではたす生産力の重要な役割を系統的に論述しているし、レーニンも生産の発展なしには、プロレタリア階級の国家権力は維持できないとくりかえし指摘している、それにもかかわらず、マルクス·レーニン主義の理論家を自称するあの連中はなぜ、生産の発展に極力反対するのだろう)陸国樑さんはマルクス·レーニン主義の著作をあらためて学習し、「鄧小平同志らの談話は正しい」と題する一万字以上の資料を書いた。
陸国樑さんはこれらの資料の中で、「四人組」がわざと避けているマルクス、エンゲルス、レーニンの言葉を大量に引用し、とくに序文では、つぎのように鋭く指摘した。
「マルクス、レーニンの言葉は今日のソ連においては通用しなくなったが、今日の中国ではそうあってはならない。わたしはマルクス、レーニンの著作の中から闘争の武器をさがし求めた。その結果、鄧小平同志らの談話はマルクス·レーニン主義の精神に合致していることが分った。したがって、これらの談話に批判を加えることは、疑いもなくマルクス主義にそむくことになる」
かれは、この理路整然とした資料に「龔明(ゴンミン)」というペンネームをつかった。中華人民共和国公民をあらわす「公民(ゴンミン)」と同音だからである。
陸国樑さんはこの資料を堂々と工場の指導者に手渡した。中華人民共和国の一公民として国家の大事について意見をのべる権利をもっており、それは、憲法で保障されている公民の権利だと考えたからだ。
だが、この資料は大衆には公表されず、翌日ひそかに、上海にいる「四人組」の徒党の所にとどけられた。「四人組」の徒党は急所をつかれて、「これは危険なしろものだ、大衆にみせてはならない」と仰天し、同時に、陸国樑さんにたいして「ただちに措置をとるよう」指示を出した。つまり、陸国樑さんを監視せよというのであった。
その年の四月、「四人組」の徒党は、陸国樑さんを反革命現行犯の罪名で逮捕するよう公安局に命じた。しかし公安絹の幹部は、それが明らかな憲法違反だということを知っていたので、「証拠不十分」を理由に、この命令の執行をひきのばした。「四人組」の徒党は、公民は言論の自由を有し、人身の自由を侵されない、という憲法の規定をふみにじり、「民兵指揮部」の手で陸国樑さんを捕えさせた。
陸国樑さんは投獄される時、「わたしはいかなる法も犯していない、どういう理由で逮捕するのか」と詰問した。相手は目をむき、「ここをどこだと心得ている、反抗するのか」とむちを振りおろした。
かれらは訊問のなかで、鄧小平同志が「走資派」であり、「反革命」だということを認めろ、と陸国樑さんに迫った。
「そういう根拠はない」と陸国樑さんが反ばくすると、かれらは、当時新聞に書きたてられていた「革命と生産を並列させるのは折衷主義であり、修正主義である」という謬論をもちだした。
「それではレーニンが、共産主義とはソビエト権力プラス全国の電化である、といったのは折衷主義になるのか。十月革命が勝利したあと、レーニンが国民経済復興の活動計画を、党の第二の綱領、といったのは修正主義なのか、お前たちの強盗的論理にしたがえば、レーニンも『修正主義分子』として批判しなければならなくなるわけだ」
陸国樑さんのきびしい語句に、相手は返す言葉がなくなり、陸国樑さんの書いた資料は「毛主席に矛先をむけた」ものだということを認めろ、と迫った。
陸国樑さんは「マルクス·レーニン主義と毛沢東思想とは一致したものである。わたしが引用したマルクス、エンゲルス、レーニンの言葉と毛沢東思想のどこに矛盾があるというのか」ときびしく反ばくした。かれらはつぎに誘いの手にでてきた。
「お前はまだ若いから、ごまかされることもあろう。事実を白状すれば、寛大に処置してやる。どんな動機から、誰の影響をうけてあのようなものを書いたのかね」
「動機は強大な社会主義の祖国を築くこと、影響はマルクス·レーニン主義の著作だ」と陸国樑さんは答えた。
「デタラメをいうな、反動的な小説を読んで、その影響をうけたのだ」
相手は怒りにふるえ、テーブルをたたき、数十冊の本を投げ出した。陸国樑さんの家を捜査して見つけだした本で、ハイネ、シェークスピア、プーシキン、トルストイなどの作品だった。陸国樑さんは冷笑した。「ハイネはマルクスの友人だ。シェークスピアの戯曲はマルクスが娘と競争して暗唱しているし、プーシキンの長編詩はエンゲルスがそらで朗読できるほどだ。トルストイの作品もレーニンがこれをかなり高く評価している。革命の教師が愛している作品を君たちは、反動小説だといっている。革命の教師を中傷、誹謗する君たちこそ反動ではないか」
かれらはその反動性をすっかりあばかれ、狂ったようにののしり、陸国樑さんを吊るしあげて拷問をくわえた。
陸国樑さんは獄中、こうしたファッショ的迫害に絶食して抗議した。絶食は前後三十三食ぶんにのぼり、ときには絶食闘争を連続七日間つづけたこともあった。
陸国樑さんの監視にあたっていた何人かの民兵は、かれの毅然とした態度に心をうたれていた。これらの民兵たちは日がたつにつれて、陸国樑さんが、真理を守っているために迫害をうけているのだということを知り、深い同情をよせ、陸国樑さんにこっそり物をとどけたり、外部のようすを知らせたりするようになった。
人民は真理を信じ、真理を堅持する者は決して孤立しない。陸国樑さんは大衆の支持の下に、断固として闘いをつづけ、ついに「四人組」の粉砕によって解放されたのである。
春の陽ざしが射しこむ部屋の中で、わたしは陸国樑さんから、「四人組」の白色テロのもとにあったときうけた数々の迫害を聞き、はげしい怒りを感じた。だが、それも過去のこととなった。陸国樑さんはすでに第五期全国人民代表大会の代表に選ばれていた。かれの話を聞きながら、わたしはこの青年仕上工に深い敬服の念を覚えた。かれが思想的に把握したマルクス·レーニン主義の理論的武器は、かれが手にしていたヤスリよりも鋭利に「四人組」の化の皮をはがしたのだ。かれは、新中国の革命青年の代表としてその名に恥じないであろう。
人民の政治的認識が普遍的に高まったことは、文化大革命の偉大な成果である。プロレタリア階級とブルジョア階級との激闘を通じて、多くの青年は視野を広め、マルクス·レーニン主義を学びとり、毛沢東思想を武器にして、革命と反革命、真理と虚偽、美と醜悪をいっそうよく見分けることができるようになった。農業、工業、国防、科学技術の現代化した社会主義強国を今世紀中に建設するため、紀元二〇〇〇年に向かって進軍するという歴史の潮流の中で、政治的認識が高く、才能のある若い世代が急速に成長しているのだ。
求学の心はおしつぶせない
国家が富み栄え強大にならなければ、敵からたたかれ、社会主義制度がどんなにすばらしいものであっても、それを維持していくことはできない。「四人組」が横暴をきわめていたとき、わたしたちは、よくこのことについて議論した。
北京大学の数学部で教べんをとっているわたしの旧友は、その頃、今世紀中に四つの現代化を実現することにたいして自信がもてない、といっていた。
「紀元二〇〇〇年には、われわれの世代はみな、七、八十歳になる。高齢のため、科学技術にたいして大した貢献もできまい。そのとき第一線にたつのは今の青年たちだが……」こういってかれはため息をついたが、わたしもこれに答える言葉がなかった。
当時、科学技術界には後を継ぐ人材がほとんどいなかった。しかも教育事業がひどい破壊をうけていたので、短期間のうちに、人材欠乏の状態を改められる可能性はなかった。
この旧友が最近わたしの家へ遊びにきた。かれは、農村に住みついていた長男が清華大学数学部の入学試験に合格したことや、北京大学の新入生がみなしかるべき学力を身につけており、大へん勉強熱心なこと、そのため、先生のほうが学生を満足させる教え方ができるかどうかと心配していること、などを話してくれた。
以前とはうって変わったかれの喜びように、わたしが「こんどは大いに自信がありそうだが」と聞くと、「もちろんだとも。『四人組』がどんなに猛り狂っても、広はんな青少年の向学心をおしつぶすことはできなかった。これは鄧小平副主席の言葉だが、全くそのとおりだ」と答えた。
人材が輩出する新時代が近い将来かならずやってくる。いまでは、わたしもそれを、信じて疑わない。去年の暮れ、文化大革命以来はじめての大学入学試験が全国的な範囲にわたっておこなわれたが、わたしはその折、北京、上海、広東などの学生募集委員会を訪ね、各地で多くの受験生に会ってきた。そこで知った数々のいきいきとした事実は、以前の悲観論を吹きとばしてくれたのだ。
中国の広はんな青少年の学習意欲は、去年の暮れおこなわれた全国大学入試の中でしめされ、立証されたのである。本誌四月号の特集で報道したような多くの青年が「四人組」の妨害をはねのけ、刻苦独学して、学力を身につけていた。かれらの多くは大学入試に見事合格したし、合格しなかった青年たちも、気を落とさず、今年の夏おこなわれる入試にそなえて、ひきつづき勉学にはげんでいる。
わたしの聞いたところによると、上海では、数学の試験で八十点以上をとった受験生は六千八百二十九名に達し、合格者の半数以上を占めるという。そのうち百点満点を取った受験生が六十八名いた。林彪、「四人組」の十年にわたる破壊と妨害にあいながらも、なおこれだけ多くの学生が優秀な成績をとったのは、多くの人たちにとって意外なことだった。
北京、上海、広東の三つの受験地の情況からみた全般的な印象は、受験生全体についていえば、受験成績と合格率がかなり低くかったことである。それは「四人組」の長年の教育事業にたいする破壊の結果といえよう。だが、合格者だけについてみた場合、成績優秀なものが非常に高い割合を占める。このことは「四人組」の大きな災いがあったにもかかわらず、依然として優秀な人材が大量にいることをしめしている。合格者は、高校から直接受験した者にせよ、工場、軍隊、農村から受験した者にせよ、みな困難な環境の下で勉学にはげんだ青年たちである。かれらは、長年の刻苦勉学という具体的な行動を通じて、「知識があればあるほど反動的だ」という「四人組」の流した謬論に反ばくしたのである。
受験成績は、学生のレベルをうつす鏡といわれている。したがって、大学生や研究生の選抜に、試験制度を回復することは、どうしても必要であった。だが、この鏡も万能というわけではない。二十世紀における人類科学史上の偉人アインシュタインがはじめてチューリッヒ連邦高等工業学院の入学試験を受けたとき、受験成績が悪くて合格できなかったが、有名なウェーバ教授はそれにもかかわらず、アインシュタインの非凡な才能をみいだした、という。
わたしは広東省学生募集委員会で、受験成績だけに拘泥することなく学生をとった、という興味ある話を聞いた。南京航空学院が広東省湛江市の粤劇(地方劇)俳優を合格者として入学させた話である。この青年の名は許欣といい、学歴は小学五年までだという。
状況を紹介してくれた募集委員会の係員のことばには、広東なまりがあったので、わたしははじめ聞き間違いではないかと思った。
募集委員会の人は、重さ一キロほどの大きな包みを、わたしの前におき、これが「許欣君の試験答案です」と笑顔でいった。
開いてみると、答案用紙ではなく、「超軽便型一人乗り旋翼飛行機」の設計資料だった。この飛行機は航続距離百キロで、山を越すときや、川を渡るときに使えるように設計してあった。資料には数枚の設計図と「空気動力学計算」「プロペラ回転の計算」「平衡安全性の分析」「構造力学計算」など数冊にまとめられたデータがふくまれている。
わたしが「まさか空想的なものではないでしょうね」というと、係員は「この資料を受けとったとき、わたしたちにも判断しかねたので、南京航空学院から試験の監督にきていた先生にみてもらいました。すると大へん興味をもちましてね」といって話してくれた。
構造の簡単な飛行機でも、設計するとなれば、一定の理論知識がなければできない。南京航空学院の先生は飛行機で湛江まで行き、許欣さんから設計図についての説明を聞きとった。その結果、設計のよりどころとする公式も計算も正確であるばかりでなく、許欣さん自身も航空学院に入学して勉学する実力を十分にそなえていることがわかったのである。
わたしは早速、許欣さんあてに手紙を出し、かれの履歴や独学のようすをたずねた。間もなく、長い返事の手紙を受けとった。ここで許欣さんの返事のあらましを紹介しよう。
南海のほとりからの手紙
―わたしは新中国が誕生したニヵ月後の一九四九年十二月に、南中国海の漁村に生まれました。幸せな家庭で育ち、小学校に上がると、クラスの卓球、水泳の選手、学校の小劇団の団員、コーラス隊の指揮者をつとめ、科学実験グループの活動にも興味をもちました。
幼いころから海が好きで、しぶきをあげて打ちよせる波を眺めながら、楽しい空想にふけったりしました。母と海辺を散歩していたとき「大きくなったらどんな人になりたい」ときかれ、わたしは海の彼方の船と上空の飛行機を指さして「船と飛行機をつくる人になりたい」と答えたのをおぼえています。そのころわたしは、船で大海原を航海し、飛行機で雲間を突きぬけてみたい、と夢みていたのです。
ところが偶然の機会からわたしは粤劇の俳優になってしまいました。十二歳のとき、湛江市の粤劇団が小学校へ子役をさがしにきて、わたしを見込んだのです。劇団が学校側と父兄の意見を求めたところ、受持ちの先生は、わたしが科学的な才能を持つ子だからと極力反対しました。芸能好きな母は、わたしを芸能家にしたいと願っていましたが、わたしの科学好きなことを知っていたので、どうしたものかと迷っていました。学校の大部分の先生は、わたしが俳優になることを主張しました。まだ子供で定見がなかったわたしは、劇団の再三のすすめにしたがって劇団に入ったのです。
劇団での生活は新鮮で楽しいものでした。各地を公演旅行し、ときには海外公演にもでかけ、大歓迎をうけます。しかし、こうした環境にあっても、幼いときわたしの心に植えつけられた科学の種はねばりづよく芽を吹き、葉をつけ、育っていたのです。わたしはひまさえあれば、模型飛行機をつくり、科学雑誌をよみ、航空科学にたいする興味をつのらせました。芸能家である以上、好きな飛行機の製作を正式に学ぶことはできないと思い、涙を流したこともありました。
わたしを幼稚だと笑わないでください。航空学を勉強したいという願いがあるだけで、基礎知識を身につけていなければ航空学などを学べるものではありません。
このことに気づいたときから、わたしは基礎知識の勉強をはじめました。さいわい、小さい頃から独学の習慣があり、八歳のときには辞書を片手に『水滸伝』『三国志演義』などの古典小説を読み、小学校在学中には、中学の代数を勉強し、劇団に入ってからは、国語、歴史、地理、数学、物理、化学を自分で勉強してきました。
十年ほど前に一人乗り旋翼飛行機の設計を思いたつと、力学、機械学を独学しはじめ、その必要からまた高等数学の勉強もしました。
あなたは手紙の中で、劇団では、仕事が忙しいうえに先生もいないのに、どのようにして、基礎知識の勉強をしたのか、と質問されています。わたしは、公演にでかける時の車の中でや、けいこの合間の短い休憩時間に勉強したのです。
トランプのや将棋や無駄話はいっさいしませんでした。勉強が習慣になり、日に一、二時間本を読まないと、物足りなくさえ感じました。
劇団には、先生はいくらでもいました。自分より知識を多く身につけている人は、すべてわたしの先生なのです。また、付近の中学へ「聴講」にも行きました。先生の講義を窓の外から聞くのです。そのうちに先生と生徒に見つけられました。先生がちょいちょい窓の外にいるわたしをみるので、きまりが悪くなって帰ろうかと思いましたが、やはり聞きたくて教室の窓の下から離れられませんでした。夢中で「聴講」しているうちに、恥ずかしいと思わなくなりました。
あなたは、劇団の仕事と航空技術の勉強との最大の矛盾はなにか、どのようにそれを解決したのか、と聞かれていますが、たしかに矛盾は存在していました。一つの体で、同時に二つの事をやるのは、そんなに長つづきするものではありません。しかし、わたしは劇団にいるかぎり、どのようにこの矛盾を処理するかを知っていました。
「四人組」の思想にそまった連中が一時期、劇団にきたことがあります。かれらはわたしをつかまえて、「科学者になろうなどとはとんでもない考えだ。それこそ、ブルジョア思想だ」ときめつけようとしたものです。
「四人組」の科学技術事業にたいする破壊は、わたしの思想を混乱させました。「四人組」の破壊により、広東省と湛江市の航空クラブがあいついで解散となり、わたしは何人かのアマチュア航空愛好家と不満を語りあったものです。中国は大国で、しかも社会主義国だ、航空事業を発展させなくてもよいのか、科学知識の普及をはからなくてもよいのか、雑誌『航空知識』をむりやりに停刊させてもよいのか、科学知識を身につけようとするのがなぜブルジョア思想になるのか。同好者とひそかにうっぷんをはらしながらも、じつにやりきれない気持ちでした。暗雲が吹きはらわれ、晴天がおとずれる日をどれほど待ちのぞんでいたことでしょう。
知識を学びとることが罪になるはずはない、とわたしは自分の理想をつらぬくために勉強をつづけました。夜、フトンをかぶり、懐中電灯をつけて勉強し、何人かの仲間と郊外へいって模型航空機のテストをしました。その頃からわたしの一人乗り旋翼飛行機の設計はひそかにすすめられていたのです。
「四人組」は打倒され、暗雲はついに吹きはらわれました。わたしは設計にいっそう精を出すようになりました。
まもなく、設計は完成しました。専門家にみてもらおうと考え、ぶしつけをはばからず、南京航空学院に手紙を出しました。南京航空学院には知人がいなかったので宛名は「学長同志」としました。とりあってくれるだろうかと心配でしたが、思いがけなくも、二週間もしないうちに、南京航空学院から電報がきました。すぐに湛江市国際ホテルに林肖芬先生をたずねるように、ということです。
わたしは飛びあがらんばかりに喜び、設計図をもって、ホテルにかけつけました。
林肖芬先生は専門会議に参加するため湛江にきていたのです。ホテルには各地からきた航空専門家や大学教授が大勢いました。わたしがおそるおそる設計図を差しだすと、この方々は、わたしを見下すようすなど少しもなく、親切にあれこれと質問をします。設計にたいする質問だけでなく、わたし個人のことについてもたずねました。
ある年輩の方は「航空学について研さんをつづけていくつもりですか」ときき、わたしがうなずくのをみると、「学校に入るべきですね」といってくれました。
「そうだ、学校へ入るべきだ」とわたしは強くおもいました。折から、大学入試制度の改革のニュースが伝えられ、わたしのような者も、大学の入学試験を受けられるようになったのです。
わたしは、自分の設計した飛行機に乗って天にのぼったような喜びを感じました。
「大工」から研究生に
全国的な範囲にわたって大学生と研究生を募集する高まりのなかで、優秀な青年が数多くあらわれた。自作の天体望遠鏡で新しい彗星を発見した者、高エネルギー物理の面で価値ある論文を書いた者、植物標本を集めて新しい発見をした者……これらの青年は「四人組」が横行していたとき、高校や大学の教育をうける権利を奪われたが、「知識を多く身につければつけるほど反動的である」という逆流に抵抗して独学を堅持してきた。かれらはいま、ぞんぶんに学問をする機会をあたえられ、祖国の未来のためにその力を大いに発揮できるようになった。
上海師範大学数学部では、鄭偉安という青年が研究生に採用された。居住地区家屋建設隊で大工の仕事をしていた鄭偉安さんは、中学卒業後、九年間の独学を通じて、五ヵ国の外国語を身につけ、大学の数学の教材をのこらず読み終え、さらに高等数学の確率論を研究し、論文を書いた。この論文は中国科学院数学研究所から「すべての結論は正確であり、推論は厳密であり、新しい内容をもっている」と評された。
だが、読書は有害無益といわれた一時期、高等数学をひそかに勉強していた鄭偉安さんは、よくかげ口をきかれ、つらい思いをした。道を歩きながら数学の問題を考えていて、皮肉をいわれたことがあった。
「ごらん、あれがこの町の悲観主義者だよ」「一九三〇年代の青白きインテリというところかね」
鄭偉安さんは、上海のかなり大きな図書館へ、一九五〇年代に出版された『確率論』を借りにいったことがあった。そのとき、居住地区家屋建設隊の身分証明書をみた図書館の係員は、鄭偉安さんをじろじろ見まわし、「借せません」と身分証明書と貸出しカードをつき返した。
「難しい専門書だから、見ても分からないでしょう」
このような侮辱をうければ、ほとんどの人は腹をたててどなりかえすか、二度と図書館へいかなくなるだろう。だが、鄭偉安さんはそうしなかった。自尊心がなかったわけではない。係員からうけたあつかいには心が痛んだ。だが、鄭偉安さんは係員を恨みはしなかった。(この人も「四人組」による被害者の一人だ、憎むべきは、あれをみてはいけない、これをみてはいけないと上で愚民政策をとっている数人の者たちだ。この連中は人びとの視野がひらけ、かれらに造反するのを恐れている)と考えたからだ。鄭偉安さんは少しもさわがず、本を借りるためねばり強くがんばることにした。
数日後、もう一度図書館にいき、貸出しカードを出した。係員は新刊の数学雑誌を出してきた。
「すみません、借りたいのはこの本ではありません」
「どうしてこんな結構な新刊書を見ずに、昔の本をみたいのですか」
鄭偉安さんは新刊の雑誌に五分間ほど目をとおしたあと、「見終わりましたから、『確率論』ととりかえてください」と頼んだ。係員は鄭偉安さんの根気に負け、「こんど限りですよ」と『確率論』を投げよこした。勉強のために本を借りようとすると、このような侮辱をうけなければならなかったのである。「四人組」の反動的な愚民政策がもたらした奇怪な現象といえよう。そうした愚民政策によって、外国の学術書をみたり、買ったりする者がほとんどいないという異常な現象がおこった。そのため、安値の外国学術書が古本屋にたまった。これは五ヵ国語を身につけていた鄭偉安さんにとって好都合なことだった。図書館では思うように本が借りられなかったので、節約した金で安い外国語の本を買うことにした。ひと抱えもある本を家に持ち帰ってきて、「安い安い、数十銭でこんなに買えた」と喜んだ。
鄭偉安さんの母親は口に出しこそしなかったが、心のなかでは「身体が弱いのだから、紙くず同然の本よりケーキでも買ってたべた方がどれだけよいことか」とおもっていた。
だが、多くの学術書を手に入れて、鄭偉安さんは疲れもふきとんだ。気にいった本を一冊ぬきとると、扉のページをひらいて「われ、確率論をみつけたり」と書きこんだ。何ページか読みすすむといよいよ興味がわき、こんどはドイツ語で“Ubung macht den Meister!”(鍛練こそ師匠)と書いた。
鄭偉安さんの刻苦独学は、一朝一夕のことではなかった。大工になる以前には、日に十五時間勉強していたし、大工になってからは、余暇に四、五時間は勉強した。効果的に時間を利用することは限りある生命をのばすことにも等しい、と考える鄭偉安さんは、道を歩くときにも、数学のことを考えた。発熱して病床にあるときは、目を閉じていながらも頭の中では数学の問題を解いていた。右腕に受けた傷が感染して目まいと吐き気がし、手術を受けて仕事を三週間ほど休まなければならなかったとき、右手は細帯で首からつるしながらも、左手は本をはなさなかった。五ヵ国語のうちいちばん最後に身につけたロシア語は、この期間を利用して入門のきっかけをつくったものだった。
鄭偉安さんは一冊の本につぎのような心境を書いている。
「青春の過ぎさるのははやい。どうすれば青春を無為に過ごさないですむだろうか。人生の過程は短い。どうすればこの短い過程で、自分の持つすべてのエネルギーを発揮させることができるだろうか。享楽を追い求めるのは退廃を意味する。われわれは前進し、創造し、生涯を人民に捧げるべきである」
上海師範大学では、鄭偉安さんの確率論に関する論文を全面的に審査し、さらに、かれにたいして筆記試験と口頭試験をおこなった。その結果、鄭偉安さんは九年間の独学を通じて、五年制大学の数学部卒業生の学力を身につけていることが認められた。そして同大学の研究生とする、という破格の決定が下された。
わたしは上海師範大学に、鄭偉安さんの才能を見出した数学部の責任者、鄭啓明氏をたずねた。鄭啓明氏は興奮のため、立ちあがって演説するような口調でわたしに語った。「科学という陣地を攻略するばあい、大兵団による作戦をおこなわなければならない。まず突撃隊をくり出して要塞を強行突破し、それに大部隊がつづく……鄭偉安さんのような有望な青年たちをすみやかに養成し、紀元二〇〇〇年に向かって進軍する突撃隊を、かれらにつとめさせるべきです」
中国の現代の青年にたいするわたしの認識をまとめてみるのも無駄ではなかろう。「四人組」が横行していた頃、わたしは、中国の青年は下り坂にある、と感じていた。だがその見方は、すでに事実によってくつがえされた。いかなる時にも、青年はそれぞれつぎの三つの状態にあるといえよう。一つは、下り坂にある状態、その中には泥沼にはまりこんだ状態にある者さえいる。だが、この状態にある者はごく少数である。第二は、十字路に立って徘徊している状態にある者。第三は、意気はつらつとし、正しい目標に向かって奮闘している状態にある者だ。こんにちにおいては、華国鋒主席をはじめとする党中央の正しい路線にみちびかれて、第一と第二の状態にある青年がますます少なくなり、第三の状態にある青年がますます多くなってきている。本文で紹介したのは第三の状態にぞくする青年たちである。「四人組」が横暴をきわめていた時期にあっても、これらの青年は祖国と人民の事業のために血と涙を流すのをいとわず勇敢に闘った。かれらこそ、中国の若い世代の中堅であり、紀元二〇〇〇年に向かってつきすすむ新たな長征の隊列の中でのもっとも戦闘的なもっとも生命力にとむ者である。中国の希望はかれら青年の双肩にかかっている。