新春を迎えた中日関係

2023-05-25 15:17:00

昨一九七八年は、中日関係史上、忘れることのできない年であった。中日平和友好条約の調印、鄧小平副総理の日本訪問と条約批准書の交換によって、中日友好関係は新しい段階に入った。 

一九七九年―この喜ばしい新春にあたり、本誌編集部では、中日友好協会副会長の夏衍氏に司会をお願いして、座談会を開催した。ご出席いただいたのは、長年中日友好の仕事にたずさわって来られた各界の知名人である。中日友好に深い関心を寄せていた毛主席や周総理のこと、中日友好に掛け橋の役目をはたした古くからの友人の思い出、両国友好関係の展望など、話はつきなかった。

*出席者* 

夏衍(司会) 中日友好協会副会長

趙樸初 中日友好協会副会長 中国仏教協会責任者

孫平化 中日友好協会秘書長

謝氷心 作家

銭人元 中国科学院化学研究所教授

袁鷹 詩人、『人民日報』文芸部主任

白楊 映画女優

 

夏衍 中日平和友好条約の締結は、両国交流史上まことに大きな意義をもっていると申せましょう。鄧小平副総理が日本を訪問して、批准書を交換したことで、両国の友好関係はさらに新たな高まりを見せています。

さて、この、中日友好の新しい幕明けを迎えて、『人民中国』雑誌社では、新春座談会を企画され、私が司会役をおおせつかりました。みなさん、どうか、お気軽にご発言いただきたいと思います。

趙樸初 たしか文化大革命前だったと思いますが、『人民中国』で新春座談会をしたことがありますね。

謝氷心 一九六三年ですね。趙さん、私、それに夏さんも参加されました。

 十何年か経って、また一緒に顔を合わせるなんて、思ってもみませんでした。

 仏教の言葉で申しますと、「縁がある」ということになります。(笑)

 「縁がある」と言えば、私は一九五五年に趙さんとご一緒に日本へ行ったのがご縁で、お近づきになりました。

 日本で原水爆禁止世界大会があって、それに参加したときです。

 出発前に名簿を見ると、仏教界の方のお名前があって、ちょっと……。私、和尚さんとか居士とかいう方、どうも苦手でしたから。

 「縁がない」(笑)

 「縁がない」のではなくて、あまりにも高遠な方たちのような気がして……

袁鷹 私以外は、みなさん、日本に行かれたことがおありなわけでしょう?

銭人元 私は二回です。一九七三年は日本高分子学会年次総会に出席、一九七五年はある国際会議に参加しました。

 では、そろそろ本題の方に入っていただきましょうか。回顧、展望など、ご自由にどうぞ。

五十年代の交流の先駆者たち

 中日平和友好条約が締結されてからというもの、私はお正月気分というか、うきうきして、いまだにそうなのです。

孫平化 日本でもそうだと中国へ来られた日本の方がいっています。条約調印にはじまって、鄧副総理の訪日とつづき、それからずっと今日まで、日本じゅうお祝い気分だそうです。

白楊 わたしたち中国映画代表団が日本に行ったのは、調印のすぐあとでしたから、その雰囲気がよく分かりました。

 鄧副総理が批准書の交換に日本に行かれたのは、秋のとり入れの時期でした。中国人は「春華秋実(ツウンホワチユウスー)」(春の花と秋の実)という言葉をよく使いますが、この条約は「秋実」ですね。中日友好の、よろこばしい豊かなみのりです。


夏衍氏
夏衍氏

趙樸初氏
趙樸初氏

 ただ、「春華」にまでもってくるのが容易ではありませんでしたね。日本の敗戦から現在まで、平和友好条約にこぎつけるまで、双方ともたいへんな努力をはらいました。日本の友人の方がたや友好団体が、たゆみない努力をされて、この長い道を歩きとおしました。

 日本にはそういう日中友好運動一筋の団体がたくさんありますが、最初にできたのが日中友好協会ですね。

 新中国が誕生して間もなくできた団体でしたね。

 松本治一郞、内山完造といった方がたが発起人になって、設立準備会ができたのが、一九四九年の十月で、一九五〇年の九月三十日に正式に結成しました。初代会長は松本治一郎さんで、あの頃はひじょうにきびしい情況のもとでの日中友好運動でした。

 新中国成立以後、両国人民の行き来が始まったのは、正式には一九五二年の春からです。

 民間貿易から始まったのでしょう?

 あれは、モスクワ国際経済会議のあと、日本代表として会議に参加されていた高良とみ、帆足計、宮腰喜助の諸氏が中国に来られました。周総理がこの方たちと会われ、貿易について話し合ったのです。そして六月に初の中日民間貿易協定が調印され、それから両国往来の道が開けました。

 当時、日本人が中国に来るのは容易なことではありませんでしたね。高良さんたち三人が来られたときも、査証なしでした。松本会長が最初に中国に来られたときのパスポートは、直接中国へのものではなく、ビルマ行きのものでした。ビルマ経由で中国入りされたのです。

 西園寺公一氏が一九五三年に中国に来られたときは、香港経由さえ認められず、やむなく、インドからモスクワを経由して来られました。帰りの時も同様です。

 一衣帯水の隣国でありながら、万里の長征をしなくてはならないなんてね。(笑)

 中国から初めて日本に行ったのは、一九五四年の李徳全、廖承志さんたちの中国紅十字会代表団です。これに先立って、中国在住の日本人が帰国するため、中国紅十字会の世話で、第一回帰国船がでました。この人たちの中から日中友好運動に積極的な人が大勢出ています。

 日中友好協会と日本赤十字社の手で、抗日戦争中に、日本に連行されて死亡した中国人の名簿が作られ、遺骨を発掘して、送還して下さいましたのも、そのころのことです。

 この件については、日本の仏教界の方がたがたいそうご尽力くださり、大谷瑩潤師は「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」を組織されました。


孫平化氏
孫平化氏

謝氷心さん
謝氷心さん

 いったん交流の門が開かれると、両国の交流は日ましに多くなり、各分野の民間交流が始まりましたね。日本のいろいろな代表団が、ひっきりなしに来訪しました。文化学術代表団とか、太極拳、少林寺拳法とかね。それから各種の展覧会も。

 第一回日本商品展覧会が、一九五六年十月に、北京で開かれたときには、毛主席もこれを参観したうえ、「看了日本展覧会,覚得很好。祝賀日本人民的成功」(注 日本展覧会を見たが、大へんいいと思った。日本人民の成功おめでとう、の意)という題詞を贈られました。

 それに文学代表団も来訪したし、歌舞伎の訪中公演もありましたね。

 中国も、東京と大阪で、展覧会と、敦煌芸術展を開催しました。一九五五年には、郭沫若さんが、中国科学院代表団をつれて、日本に行きました。

 一九五六年の五月には、梅蘭芳が日本で公演しましたが、それはもう日本じゅう大評判で。あのときは、孫さんも行かれましたね。

 あのときは、あなたが文化部副部長で、直接これを担当しておられたのですが、おっしゃるとおり、日本じゅう「梅蘭芳熱」というか、ブームになりましたね。観客の全部が京劇が分かるとは限らないのだけれど、梅蘭芳を一目見るために来る人とか、そう、香港からわざわざかけつけた人もありました。


銭人元氏
銭人元氏

袁鷹氏
袁鷹氏

L·T貿易から国交回復まで

 五十年代の後半から、それも一九六〇年以後になると、両国関係は大きく発展し、民間人だけでなく、政府首脳部の往来も始まりました。

 まず皮切りに、片山哲元首相、遠藤三郎元陸軍中将。つづいて、社会党の浅沼委員長、石橋湛山元首相。松村謙三氏がはじめて訪中されたのは一九五九年でした。

 松村さんが来られたときは、周総理が何度も会って会談されました。一九六二年、二度目に来られたときは、当時の情勢から、両国の即時国交回復は難しかったので、松村さんは、積み上げ方式というのを提案し、まず貿易の面から交流拡大をはかろうということになり、周総理も長期バーター貿易に同意しました。その後、高碕達之助氏がふたたび北京に来られ、具体的な話し合いがありました。うちの廖承志会長と話し合ったのです。会談の結果、覚え書きが発表されました。中国は主として化学肥料、鋼鉄、各種プラントなどを輸入することになりました。私たちは「覚え書き貿易」といい、日本側では「L·T貿易」と言っています。

 当時、周総理は両国間の民間友好貿易と、覚え書き貿易を車の両輪にたとえました。この二つの車輪が、貿易を推進させて来たわけですが、国交回復が実現するまで、日本の中小企業のほかに、多くの大企業もこの貿易推進の隊列に加わりました。

 孫さんは、いつ東京の廖承志事務所に行かれたのですか?

 一九六四年です。双方に連絡事務所を設立することに決まったのは一九六三年で、一九六四年の八月から、どちらも五人ずつ駐在員を派遣することになりました。私たちが日本についたのは八月十三日でした。当時、このほかに新聞記者が九名ずつ、相互に駐在しました。

 この時期に、日本の方がたはいろいろ努力されましたね。高齢の松村氏、高碕氏が亡くなり、そのあとを藤山愛一郎氏や岡崎嘉平太氏が引きつがれました。多難ななかを、この方たちは、日中関係打開のために、ひじょうに力をつくされました。


白楊さん
白楊さん

 それから、竹山裕太郎、古井喜実、田川誠一、川崎秀二、松本俊一、野田武夫氏ら政界の方がた、財界の稲山嘉寛氏など、皆さん、多大の貢献をされました。それ以前の、中日貿易の草分けともいう方がたには、鈴木一雄、村田省蔵、山本熊一らの諸氏がいらっしゃいます。

 文化交流の面でも、大きく伸展しましたね。片山哲氏や中島健蔵さんが発起人になられて、日中文化交流協会が成立してから、両国の文芸界、ジャーナリズム、科学技術方面、体育関係などの往来が次第にさかんになりました。

 そうやって、二十何年努力を重ねたわけですが、一九七二年に至って、いよいよ中日友好の気運は高まり、阻止することのできないものとなりました。日本の各方面の方がた、団体、それから社会の輿論は、こぞって一日も早く、外交関係が樹立されるように望みました。田中角栄氏が首相に就任すると、この潮流にしたがって、なお一部の反対はありましたが、決断を下しまして、大平外相と二階堂官房長官を伴って、中国を訪問し、周総理とじかに話し合いました。そして、共同声明に署名し、両国の国交正常化を実現しました。毛主席もこれを喜び、田中氏らと会見されました。この功績は末長く称えられるでしょう。

 福田首相、園田外相が、中日平和友好条約に積極的につくされた貢献も称賛すべきものです。

 「地上にはもともと道というものはなかったが、歩く人がふえるにつれ、道ができていったのだ」と魯迅先生がおっしゃっていますが、三十年来の中日関係は、まさにそのとおりだと思います。道のないところにも、歩く人がふえると、道ができますし、歩く人がふえればふえるほど、道も広くなるのです。

 両国の間には、もともと道があったのですが、荒れて、いばらで閉ざされてしまったのですね。新たに切りひらくには、多くの人の、困難をおそれぬ努力が必要でした。日中友好に貢献された方がたのことを忘れることはできませんね。

 鄧副総理が日本を訪問したときも、生涯を日中友好につくされた方がたのご遺族に、つとめて会い、中国人民の敬意を表わしました。

 私たち中日友好協会のほうでも、長年日中友好につくされている大先輩の方がたの代表団を中国にお招きしました。皆さんに、中国に来ていただいて、友情を暖めたのです。

「井戸を掘った」人びと

 さっき袁さんの話にも出ましたが、中日友好のために、いばらの道を切り開いた人として、私は毛主席と周総理のことを思い出します。このお二人は、両国人民の世々代々の友好のために、心血を注がれました。

 国交が正常化されたときに、周総理は「水を飲むときには、井戸を掘った人のことを忘れてはならない」といわれて、私たちが古い友人を忘れることなく、新しい友人とも広く交わるようにさとされたのですが、そのとき、私は、中国側では、毛主席と周総理こそ、最も苦労して井戸を掘った人だと思いました。

 新中国成立以後、毛主席は、両国関係の改善と、両国人民の友誼の発展に深い関心をもたれました。二十年余りにわたって、対日政策を決定し、自身も具体的なお仕事をたくさんなさり、友好の発展を促進されました。

 一九五〇年代から、毛主席は、多数の日本の方がたと会見し、たびたび談話を発表して、日本人民の闘争を支持しました。

 一九六一年十月七日、安斎庫治、黒田寿男氏らと会見したとき、毛主席は広はんな日本人民はわれわれの真の友人である、中日両国人民は団結しよう、そして、さらに全世界の九〇%以上の人民と団結しようと、言われましたが、このことばの持つ現実的な意義は、今も変わりません。

 やはりそのときでしたね。毛主席は、日本の友人に、魯迅の詩を書いて送っています。

 周総理は、毛主席の革命外交路線を忠実に実行し、一九五二年に、日本の友人が、はじめて中国に来られたとき以来、一九七五年六月の―これが最後の会見になったのですが―藤山愛一郞と川瀬一貫氏との会見にいたるまで、総理は、日本からの来客との会見に力をそそがれました。その数は、他のどの国もおよばないほどです。国交回復というような大事はいうまでもなく、日本からのお客さんの滞在中のお世話についても、ひとつひとつ確認されました。

 「田中訪中」のときは、総理は田中氏の生活習慣に合わせて、毎日のスケジュールを変更しました。夜分仕事をするのが総理の習慣でしたが、その間は、夜は十二時に休み、朝は早く起きるようにして、田中氏と会談されました。

 周総理は、中日友好事業のためなら、どんなことにでも力を惜しみませんでしたね。

 たとえば、戦争の賠償を日本から取り立てないということについてですが、決して、当時、すべての人がそう割り切っていたわけではないのです。それで、総理は、中国はこれまで帝国主義各国の侵略をうけて、不平等条約をおしつけられ、賠償金を要求されたが、五十年間払いつづけて、中国が解放されたときにも、まだ支払いが残っていた。現在、日本との友好をほんとうに考えるなら、この上、まだ賠償という経済的な負担を日本にかける必要があるだろうか? 日本政府が支払うものではあるが、実際は、国民の税金ではないか。それで、共同声明の中で、われわれは自発的に、日本に対して戦争の賠償を要求する権利を放棄すると宣言したのだ、といわれました。


1956年12月10日、毛主席は日本商品展覧会総裁·日本国際貿易促進協会会長村田省蔵氏と会見した。
1956年12月10日、毛主席は日本商品展覧会総裁·日本国際貿易促進協会会長村田省蔵氏と会見した。

 総理の、日本人民に対する友情というか、実に胸をうつものがありますね。人民大会堂で、浅沼夫人と会見されたときのことですが、夫人が到着される前に、「奥さんはどの入り口から入ってこられるのかね?」と、接待の人にたずねられました。接待係りが「北側の玄関です」と答えると、総理は、「どういう服装で来られるか知っているのか?」と聞かれます。「存じません」と答えると、総理は、「どうして気をきかせないのだね。もし和服だったら、北側の玄関では不便ではないか。車をおりてから、階段をのぼらなければならない」といわれました。総理が心配されたように夫人は、やはり和服でした。

 総理は日本の卓球選手の松崎キミ代さんに対しても、そうでしたね。

 いまは結婚されて、栗本キミ代さんですが、中国に滞在中、その「勝っておごらず、負けて気をおとさない」作風を、総理が称賛して、松崎さんに見ならうようにと、中国の選手たちによびかけましたね。

 松崎さんは引退しましたが、周総理夫妻は、その後も、彼女を賓客としてもてなし、自宅に招いて食事をされたりしています。

 松崎さんもひじょうに総理をしたっていましたね。総理の病気が重くなったという知らせが伝わると、総理の回復を祈る手紙を寄せられたそうですが、その後、総理の逝去をいたむ松崎さんの文章を新聞でみて、目頭が熱くなりました。

 総理といえば、一九七五年の中秋節にお会いしたときのことが思い出されます。その日はちょうど二十六回国慶節の前夜で、国務院主催のレセプションがありました。そのころ、総理は長い間姿を見せていなかったのですが、この日は、思いがけなく、総理がホスト役でした。総理が宴会場に姿を見せると、われるような拍手と歓声が会場を圧し、それが何分間もつづきました。総理の元気な姿を一目でもと椅子の上に立ちあがる人、中にはテーブルの上にまであがる人も出てきました。中国人も外国人も、黒人も白人も、中には外交官までが、外交儀礼など忘れてしまったようすでした。みな、一分でも余計に、という気持ちだったのです。やがて、総理の祝宴の挨拶が始まり、力強いよく通る声をきいて、同じテーブルにおられた西園寺公一氏が涙をうかべて、「総理はお元気になられましたね!」と、私におっしゃったのが、忘れられません。

 毛主席と周総理が亡くなったときの、日本の人びとの驚きと悲しみは想像以上のものでした。各界、各団体が連合して、盛大な追悼会を開いてくださいました。他の国の総理のために、民間団体がこんな大追悼会を開いたことは、日本では例のないことでしょう。

 中日平和友好条約の締結を、毛主席と周総理の在世中に実現できなかったのが、ほんとに残念です。

 周総理は、平和友好条約が締結されたら、日本を訪問したいと、いつも言っておられたのですが、それは果たせませんでした。一九七六年の春でしたが、ある日本の方が総理は、桜の咲くころ日本にゆくとおっしゃっていたのに、と嘆かれましたが、私は慰めようがなくて、中国の川は東へ流れています、総理の遺骨は遺言で川にも撒かれましたから、きっと今ごろは日本に着いているかもしれません、と言いました。

 総理は一九一七年に日本に行き、東京の早稲田に住んでいて、京都へ行ったこともあり、琵琶湖と嵐山が気に入っていました。一九一九年に、総理が日本を離れるときには、ちょうど桜が満開だったそうです。で、もう総理に琵琶湖を見ていただくことができなくなった今、せめて、夫人に桜の時に日本に来ていただき、総理に代わって、琵琶湖を眺め、ゆっくりしていただきたいという、日本の方がたの申し出が、ずいぶんあります。

 鄧穎超(ドンインツアオ)夫人も中日友好のために貢献されています。日本の方がたからも慕われていますね。

 それから、陳毅副総理、郭沫若氏も中日友好のために尽くされました。いつまでも忘れられない方がたです。

中日両国人民の心はひとつ

 趙さん、この前、仏教代表団の団長として訪日されて、お帰りになったときは、何時間もみやげ話をしてくださったのに、どうしてでしょう、今日はあまりお話が出ませんね?

 もう半年になるんですよ。それにメモもとっていませんので。

 たくさん詩をお作りになったことでしょう。披露していただけませんか?(笑)

 詩は何首かありますが、大したものはありません。詩といえば、そう、大西良慶師のことを思い出しました。

 百いくつかになる長老の方でしょう?

 百四歳です。私は京都でお目にかかりました。私たちが京都に着くと、大西良慶師が駅の貴賓室に迎えに来ておられるということで、ほんとに思いがけないことでした。お体のほうもとてもお元気で、握手にも力がこもっていました。一目見るなり、やあ、会いたかったなあ!とおっしゃいました。

 お二人ともみほとけの弟子ですからね。(笑)

 翌日は、私が良慶師をおたずねしました。その日、良慶師は、食事のときも、記者会見のときも、私につきそっていて下さいました。京都を立つときにも、早ばやと駅まで見送りに来て下さいました。その時の良慶師のお言葉が心に残っています。明治維新から話され、維新以来、日本は中国にたびたび戦争を仕掛けてきたが、日本人民はいつも友好的であった、と話されました。ちょうど雨が降っていましたが、良慶師は雨の中を車いすで、私たちを待っていて下さったのです。お別れの握手をしたときには、涙ぐんでおられました。そのあと、私たちが大阪にいる時でした。良慶師は、ご子息に託して、私に詩を一首、届けて下さいました。第一句は、「春雨如煙惜別情」(春雨煙るが如し惜別の情)という、心のこもったものです。

 吉川幸次郎先生にお会いになりましたか?

 残念でしたが、お目にかかれませんでした。日本に行く前から、先生は私に会いたいとおっしゃっていたそうですし、私もぜひお目にかかりたいと思っていましたが、先生は、かぜをひかれて、日本にいる間にはとうとうお会いできませんでした。それで、吉川先生もやはり、ご子息にことづけて、詩を送って下さいました。ご自身の著書にその詩が書いてあったので、その時は気がつかなかったし、ご子息も何もおっしゃいませんでした。あとで、本を開いてみて、その七言律詩をみつけました。なかなかいい詩ですよ。


松本治一郎氏と会見する周総理
松本治一郎氏と会見する周総理

十日春寒抱疾移,

徒将伏枕対芳時。

諸公已慰煩冤哭,

復閣高懸友好旗。

遮英鶏虫紛得失,

難教竜象絶師資。

千年左相伝佳話,

風月同天無尽期。

 あなたもお作りになったのでしょう?

 帰国してから、吉川先生のお作にあわせて、一つ作りました。

精誠終見大山移,

墾壌艱辛憶昔時。

棠棣増輝千載史,

雲天交舞両邦旗。

文章喜得蓬萊助,

風骨長為松柏資。

望海祝翁詩筆健,

仙崖明月有心期。

 なかなか傑作じゃないですか。周総理が、趙さんのことを話されたとき、趙さんのように学問がある人は、この人くらいなものだ。あとつぎをつくっておかなければ、といわれました。(笑)

 日本へは初めて行ったのですが、日本の方がたは、私たちに心からよくしてくれました。大阪で中国映画祭をしたとき、名古屋からわざわざこられたという女教師の方に会いました。この人は中国の映画を三十幾つも見ており、十七年前、広島大学に在学中には〈祝福〉を見たそうです。夏さんが脚色された〈祝福〉のシナリオを読みたいと思っていたが、なかなか見つからなかったそうです。その後、先生のところで見つけたので全部を書き写し、それをずっと保存しているといっていました。大阪に来られたときに、その書き写したシナリオを持ってきていて、私にも見せて下さいました。ほんとに感動しました。

 中国語の原文ですか、それとも?

 原文です、大学で中国語を勉強されたので。夏さんのこのシナリオが再版されたら、一冊お送りしなくてはと思っています。

 われわれも最近、北京、天津、上海、瀋陽、西安、武漢、広州、成都の八都市で、日本映画週間をやりましたが、とても好評でした。

 一番よいと思ったのは、〈望郷〉(〈サンダカン八番娼館〉)です。主人公のおさきさんの運命と、〈祝福〉の祥林嫂(シヤンリンサオ)はよく似ていて、おさきさんの悲惨な境遇に同情してしまいました。

 私は日本に行ったことがなくて、日本のことはあまりよく分かりませんが、それでも、中国と日本は文化の面で関係が深く、それは他の国とはくらべものにならないほどだと感じています。中国人が詩を作ったとしますね、書きさえすれば翻訳は不要で、たいていの日本のひとは理解できますものね。


市川猿之助歌舞伎訪中団の舞台(1955年10月)
市川猿之助歌舞伎訪中団の舞台(1955年10月)

1955年10月、東京で開かれた第一回中国商品展覧会の会場
1955年10月、東京で開かれた第一回中国商品展覧会の会場
 

 中国人が日本に行けば、どこへ行っても、地名は翻訳する必要はありませんし、メモをしておぼえる必要もありません。全部漢字で書いてありますから。東京、大阪、横浜、どれも見ればすぐわかります。それに、通訳の人がいなくても、筆談ができます。

 今でも、日本には、中国の古い時代のものが沢山残っています。古い文献に書かれていることで、中国で見ても分からないようなことが、日本に行ったら分かるということがよくあります。日本には、中国の古い風俗習慣が残っているのです。

 そうですね。日本には、そのほかに、中国では全く失われてしまった古書や古曲が、残っていますが、これは、中国古代の科学や文化の発展を研究する上で、大切な資料となっています。

 これをしも「礼失われて諸(これ)を外国(とつくに)に求む」という……。(笑)

 中日両国人民は、長い長い交流の歴史の中で、深い友情を結んできたのですから、打ちこわそうとしてもできるものではありません。その間、不愉快なことがあったといっても、人民の間の友情は中断されなかったし、心は通い合っていました。

 これは私自身の体験ですが、太平洋戦争のころ、私は中学生で上海にいました。当時、学校では日本語の授業があって、日本人の先生が一人いました。もとは軍隊にいた人ですが、病気で現地除隊になったわけです。はじめは、みんな、敬遠していましたが、おとなしい人で、授業も熱心だったので、その先生に対する印象も変わってきました。その後、病気で日本に帰ることになり、出発前に、私たち何人かの学生を、自宅に呼んで話をされました。先生は気が浮かないのか黙りがちでしたが、「私は体の具合が悪くて、帰国するので、もう君達を教えることができない。日本は中国と戦争などしてはいけない、仲良くしなければならないのだ」と言われました。

 その先生の名前を覚えていらっしゃいますか?

 有田といわれました、名前のほうは思い出せませんが。私が始めて接した日本人です。その先生を通じて、日本人民も私たちと同じように、やはり侵略戦争に反対なのだということを知りました。二年前に私は揚州に行きました。たまたま、一人のお年寄りと出くわしましたが、この中国の老人も、あの日本人の先生と全く同じようなことを言いましたよ。「中国と日本のかかわりは深いのだから、仲良くつきあうべきだ。戦争をしてはならない」と。この老人はごくふつうの中国人で、私も名前をきかなかったし、その老人も自分の話が活字になることなど考えなかったでしょう。しかし、これが、多くの中国人の本当の気持ちです。

 それが人民のいつわらぬ声だと思いますよ。

 これは、一九七七年に西安の慶興公園で出会った子供たちのことですが、そのとき子供たちは、京都市の友好代表団から贈られた桜の木の下で遊んでいました。私ともうひとり一緒に行った人とで話しかけました。「この花、何というの?」「さくら」「どうしてここに植えてあるの?」「日本人がくれたの」「日本人っていい人? わるい人?」「日本の人民はいい人です」(笑)

 なかなか愉快な子供たちですね。

 それを聞いてね、考えさせられましたね。ふと、魯迅が西村真琴博士に贈った詩を思い出しました。

刼波(ごうは)を渡り尽せば

兄弟あり

相逢うて一笑恩讎泯(おんしゆうほろ)びん

そこで、その詩をかりて、こんなのを作ってみました。

沉香亭(ちんこうてい)の畔(ほとり)で桜を見

千載の浮沉(ふちん)に旧家を憶う

刼波(ごうは)を渡り尽せば

兄弟あり

汪洋万頃(おうようばんけい)紅霞(あさやけ)に映(は)ゆる

平和友好条約を新出発点として

 中日国交回復から平和友好条約締結まで、約六年の歳月がたちましたが、その間に、両国の関係は、急速に発展しましたね。

 共同声明の発表以後、政府間の貿易協定、航空協定、海運協定、漁業協定、海底ケーブル敷設協定などの調印が行なわれ、両国の民間、政府間の往来が一段と進みました。

 この何年来、中国へ旅行に来られる日本の方は増える一方ですね。「友好の翼」「友好の船」など、一度に百人以上、三、四百人もこられます。女の方も多く、婦人だけの友好の翼もありました。

 ただ、中国ではホテルがまだ足りないし、交通機関も不便で……。そうでなければ、もっと多くの方に来ていただけるのですが。

 今、中国と日本の間の友好都市は幾つありますか?孫 いまのところ五組です。天津と神戸が最初で、それから上海と横浜、西安と奈良、上海と大阪、西安と京都。平和友好条約調印後に、南京と名古屋がきまり、北京も東京と友好都市になる意向を示しました。

 昨年十月二十三日には、北京で中日友好人民公社が誕生しました。

 両国の交流はますます盛んになり、内容も多彩になりましたね。銭さん、あなたがた科学技術のほうではいかがですか?

 科学技術界の交流も、ふえてきました。

 私たちが日本訪問中に、周培源教授の代表団が行っていました。

 科学技術関係の往来は、一九五〇年代からです。私たちの研究所で、最初に日本からのお客を迎えたのは一九五六年でした。

 有名な物理学者の坂田昌一先生も、一九五六年に来られましたね?

 ええそうです。北京大学でも粗粒子理論に関する学術講演をなさいました。毛主席は坂田先生の理論を称賛され、坂田論文は雑誌『紅旗』にも載りました。

 戦後三十何年間に、日本の工業と科学技術は急速な発展をとげました。私たちもそれに学ばなければなりません。今こそ、平和友好条約を新起点として、科学技術方面の交流と協力を進めるべきですね。

 日本の科学技術関係の人たちも、これについて、ひじょうに熱意を寄せています。一九七三年に、私は大阪大学工学部で、大河原六郞教授にお目にかかりましたが、そのとき教授は、私はまもなく退官するが、その前に、私の実験室に中国の留学生を迎えたいものだ、と話されました。もちろん、その時は不可能なことでした。現在、教授は退官されまして、頂いたお手紙には、中国に来て教えたいということで、「私のこれまでの成功、失敗の経験をすべて、皆さんに伝えたい」とあります。

 科学技術の交流はしっかりやるべきですね。中国から研究生や研修生を派遣することは、日本側でも歓迎しています。私達の四つの現代化のために力をかしたいといって下さっているわけです。

 去年の十一月、日本の有名な物理学者の茅誠司先生が中国に来られて、中日学術交流委員会の設立と、北京と東京に学術交流センターを設置することについて、周培源教授と話し合われました。これは両国の科学技術関係者が相互に協力し合って、科学研究に関する交流活動を展開し、両国の科学技術の充実と発展をはかろうという主旨から出たものです。

 李先念副総理が日本の方と会見したとき、何千人、あるいは万をこえる留学生を派遣したいと言いました。その日本の方が、世界中にですか、日本一国にですかとたずねると、副総理は、日本一国にですと答えました。


1978年、中国農業代表団は埼玉県農業機械化研究所を訪問した。
1978年、中国農業代表団は埼玉県農業機械化研究所を訪問した。

 経済面での協力も広はんに進められ、一部の工場や分野では、すでに初歩的な成果をあげています。

 華主席は、最近、国内の経済問題について、もっと思想を解放するように、もっと大胆に、もっと多くの方法で、もっと早く、と指示しましたが、中日友好を進める上にも、各方面の交流を進める上にも、あてはまりますね。これらの面でもやはりこれまでのワクをとりのぞかねばなりませんね。

 去年二月に、中日長期貿易協定が調印されて、八年間の貿易額を二〇〇億ドルに取り決めましたが、中国が日本から輸入する分については、今年末には超過するでしょう。

 実際上は一年半分ですね。

 これは中国の国内情勢のすばらしさを示すもので、予想以上に発展しています。中国の経済建設の発展につれて、外国から導入される先進技術と設備も次第に増えるのです。

 このことについて、われわれが社会主義建設を進める場合、何もかも全部自分で、というわけにはゆかない、有無相通じることが必要だ。われわれに不足しているものや暫時作れないものは、日本から輸入してもよい。プラントを輸入することも結構だと、周総理は一九六二年に言われました。平和友好条約の原則にもとづいて、十分に経済技術協力を進めることが可能になった現在、ともに協力·発展することは、双方にとって都合のよいことです。

 それに、これは中日双方の、覇権主義反対の力を強めることにもなります。

 中日両国の人口は、世界総人口の四分の一を占め、外電では、世界の二巨人などと言っています。中国は経済的に立ち後れていますが、国土の大きさと人口の多い点では、やはり巨人と言えるでしょう。日本は経済的な巨人です。この二人の巨人が手を握れば、アジアと世界の平和と安全にとってその意義は、はかり知れないものとなるでしょう。

 文化大革命前に、ある日本の作家と万里の長城へ行きました。その作家は「中国と日本を一緒にすると、一〇億近い人口になり、連合できれば、もうひとつの万里の長城を築いたのと同じで、天下無敵ですね」と感慨こめて言われました。

 周総理が談話の中で、中日間に一時期の不愉快な歴史があったことに触れたとき、「前事の忘れざるは、後事の師」と言われたことがあります。それは、以前のことを戒めとし、中日両国は二度と戦争をせず、永遠に仲よくしてゆくということだと思います。だから、中日平和友好条約がその役割をはたすべきだと思います。

 中日両国人民が友好的に往来するようになって、長い歳月がたちました。今では、平和友好条約もすでに調印されましたが、これには、前人の業績をうけつぎ、未来への道をひらいてゆくという、大きな意義が含まれています。両国人民の喜びのなかに、新しい年を迎えました。私達も、雑誌『人民中国』も、より多くの仕事をして、新しい基礎の上に、中日友好をもっともっと発展させなければなりませんね。

 では、今日はこの辺で。どうも有難うございました。

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