中国縦断5000キロSL-ジーゼル乗リ継ぎ旅行

2023-05-25 15:32:00

さらば、満洲里!

いよいよ出発だ。機関車は力づよく、シューッ、シュッと白い蒸気の息を吐く。―やがて、ホームの発車ベルが鳴りおわると、わがSLは汽笛をポーッと鳴らし、ゆっくりと動き出した。車内の拡声器から、軽快な音楽をバックに、

「乗客の皆さん、こんにちは!ようこそこの列車にお乗りくださいました。ただいま、列車は定時に満洲里駅を離れ、皆さんのご旅行が始まりました。私たちは、ハルピン鉄道局の満洲里―ハルピン間担当の第三乗務組です。みなさんに快適なご旅行を楽しんでいただくために、お役に立ちたいと思います」という女性車掌の声が聞こえてきた。

つづいて、彼女は、列車の構成などについて簡単に紹介した。―食堂車、荷物車、一級寝台車がそれぞれ一両、二級寝台車四両、三級車五両、合わせて一二両編成です。機関車は蒸気機関車です……。

―これは、今年三月十七日の朝、八時二十分、われわれ一行三人(本誌カメラマンの劉君と汪君、および筆者)が搭乗した二九〇番急行列車がかなでた“序曲”である。われわれは、中国大陸の最北·最南を貫く鉄路に沿って、満洲里から憑祥(ピンシヤン)への縦断旅行にのりだしたのである。

今回の旅行は、全行程五一〇八キロ、途中、内蒙古自治区、黒竜江省、吉林省、遼寧省、天津市、北京市、河北省、河南省、湖北省、湖南省、広西チワン(壮)族自治区と、あわせて十一の、省、直轄市、自治区を経過する長旅である。緯度からみると、北緯四九度から同二二度までの間にあたる。汽車は、満洲里からはるか南まで、大小合わせて五五一の駅を通過、うち一一三の駅で停車する。また、嫩江、松花江、遼河、黄河、長江、湘江などの主だった河川を横断する。

満洲里からは憑祥行きの直行列車がないため、われわれは、ハルピンと北京と南寧で乗り換えることになった。乗り換え時間をのぞいたのべ八十四時間三十七分は、ずっと列車上で過ごすのである。

道のりも時間も長いが、わずか一週間のうちに、北国の厳寒、中原の春景色、南方の熱風を経験するのだ。それに中国各地から乗り合わせる各民族の乗客と朝夕座席を共にし、沿線の民俗風土に接することができる。また、車窓からは沿線の名勝を観賞することができるし、ホームに下りれば南北の名物を賞味することができる……私は、これから経験するひとつひとつの情景を思うと、これはまたとない機会だと、心はずむ思いであった。

汽車は、次第に速度を速めていった。座席の背に寄りかかった記者は、窓越しにだんだん遠く離れていく、黄色とも白色ともみえる建物と、まだかすかに視野にのこる見送りの人影を眺めながら、「さらば、満洲里!」と心の中で独りごちた。

底厚三センチの防寒靴

われわれ一行三人が北京から一路満洲里にやってきたのは、北から南への万里の旅をするためなのだ。満洲里の原名は蒙古語で「ブラキンパオリグ」といい、泉水旺盛の意味である。現在の市街区から東へ約二〇キロはなれたところに、「霊泉」という泉水があり、付近に住む蒙古族の牧畜民は、それを「神水」だと信じている。

満洲里に着いて受けた第一印象は、寒い、ということだった。これは、われわれがいちばん初めに会った人―満洲里鉄道部門の責任者左鳳全さんの身なりからも見てとれた。いまはすでに春三月、農暦の二十四節気でいえば、一週間前(三月六日)は啓蟄(けいちつ)だった。地中で冬をすごした動物たちが地上に出て活動をはじめ、たいていの地区が春の耕作にとりかかっている。しかし、左さんはまだ、黒い毛皮の帽子をかぶり、ネズミ色の厚くて重い防寒服を身につけているのだ。とくに私が目を見はったのは、左さんのはいている厚いフェルトの底をつけた防寒靴である。その底は、普通のものの二倍ある。舞台に立つ京劇の俳優のほか、このような靴をはいた人を見たことがない。


満洲里製靴工場で。厚いフェルト底の防寒靴を作っているところ。
洲里製靴工場で。厚いフェルト底の防寒靴を作っているところ。

われわれは、みな、満洲里は初めてである。取材の下準備に、三日間をさいて市内と市の近く一帯を見て回った。町を散歩しても、カーペット工場を見学しても、ここの人は至るところで左さんのような靴をはいている。

地元の市民の話によると、その防寒靴の、フェルト底の厚さは三センチあり、暖かくて吸湿性が強い。そして滑りにくいことと軽くて長持ちすることがその特徴だという。売り出されたのは昨年の冬からだが、その後市民たちから愛用され、次第に、伝統的なフェルト靴や獣皮製の「烏拉(ウラ)」(防寒靴の一種)にとって代ってしまったらしい。

辺境の冬景色

満洲里の寒さについては、われわれは、とっくに聞いて知っていた。しかし、いったいどのくらい寒いのかは全然見当がつかずにいた。それで、出発に先立ち、私と汪君は、それぞれセーターの上に綿入れを着込み、それに防寒靴、防寒帽、ナイロン製の手袋をつけて行こうと相談した。そのほか、綿入れのオーバーも準備した。それらを試着してみて、鏡の前に立った私は、思わずフッと吹き出してしまった。まるででぶでぶふとった熊ではない!かおしゃれの好きな劉君は、今度も、どうしても厚いキルティングの登山服で行くんだという。

こうした防寒装備に身をかためたものの、満洲里についた翌日の朝、駅の陸橋に立って駅の外景を撮った時、われわれの顔は、シベリアおろしの強い寒風に吹かれて、針でさされるほど痛かった。鉄道の宿舎へ食事に行く途中、道のわきにいるガチョウが、鳴くたびに白い息を吐き出すのを見て、私はふと冷凍庫から吹き出る白い冷気を思い出した。室外に出ると、私のメガネのレンズも、カメラマンたちの写真機のボディーも、すぐ白い霜でうすく覆われてしまった。

われわれは、満洲里特有の雪景色を楽しみたかった。大雪のあとは、屋根も地上も雪に覆われてしまい、その上、木の枝にも雪が積もると話に聞いていたのだが、残念ながら、こんどの滞在中は降雪がなく、北方の冬景色を楽しめずに終わった。われわれが観賞できたのは、ただ、バスと部屋のガラス窓にかかった“霜花”と、沿線にひろがる野原や山麓に積もった雪だけである。

満洲里は北緯四九度一九分に位置し、亜寒帯に属する。一年のうち六ヵ月は、降霜期である。満洲里に着いた日の最低気温は、零下一五度であった。しかしその同じ日、北京の最低気温は摂氏三度、憑祥は同二〇度だったのである。

左さんの説明では、満洲里でいちばん寒いのは一月、その最低気温は零下五二度である。それを聞いて私は、あっと驚き思わず想い出したことがある。野外で放尿すると、それがすぐ凍ってしまうと子供のころ聞かされたものだが、この分だと、それも、まんざらうそではなさそうだ!

寒気のため、満洲里市の家屋の壁はとても厚く、その多くは八〇センチ以上である。建物のほとんどは、クリーム色にぬられ、木造である。地元の人は、それを「木克楞(ムクロノ)」と称している。

みると「木克楞」の周囲は、石炭ガラや土が厚く盛りあげられている。そうして、家の地下にある貯蔵用の穴ぐらに寒気が侵入するのを防ぎ、野菜を腐らせず、長期に貯蔵できるようにしているのだ。

満洲里市の人口は四万人弱。漢族のほか、蒙古族、満州族、回族、ダフール(達斡爾)族、オウンク(鄂温克)族、朝鮮族などの少数民族が住んでいるが、それらのうち蒙古族が最も多い。市街区を歩いていると、蒙古族のオーバーをまとった牧畜民とその子供たちが随所に見られる。政府機関、商店、娯楽の場所、それに満洲里からチンキスカンまでの間にある駅の立て札は、いずれも蒙古語と中国語で書かれている。

広軌と標準軌の分岐点

満洲里は、中ソ国境にある。北京発―モスクワ行きの一九番と、モスクワ発―北京行きの二〇番の国際特急が、毎週それぞれ一回、満洲里駅を通過している。

満洲里に滞在した三日目の朝―三月十五日の早朝五時二十九分、北京発の一九番国際列車が、満洲里駅に滑り込んだ。

満洲里駅は、二〇世紀初頭、ツァー·ロシアが中国の東北地区に建設した、中東鉄道の西の始発駅である。建設は一九〇三年、その三年あとにハルピンまで開通した。ハルビンを中心とした中東鉄道は、西は満洲里へ、東は綏芬河へ、南は大連へ通ずる。

一九三一年九月十八日、日本侵略軍が中国東北を占領したあと、中東鉄道の所有権と経営権は、日本人の手に落ちてしまう。この点からすると、満洲里駅は、二つの帝国主義が中国を侵略したことの歴史的証人であると言うことができる。

国際列車が満洲里からさらに進むと、ソ連領内のザバイカルスク駅に入る。ソ連が敷設した鉄道は、レール間の距離が一五二四ミリの広軌であり、中国が敷設したのは、一四三五ミリの標準軌である。そのため、列車はソ連境内に入る前、車体をつり上げて広軌の車輪に載せねばならない。

また、ソ連の鉄道につながる中国鉄道の一区間には三本のレールが敷設され、左右二本のレール間の幅は一五二四ミリで、広軌である。また、中間とその右側の線路間の距離は一四三五ミリで、標準軌である。こうして、国際列車は、支障なくそこを通行できる。鉄道部門に勤める人たちは、こうしたレールを「三本の足」とよんでいる。

二〇番列車は、食堂車と郵便車をのぞくと、あとは全部ソ連製の車体である。そこで、列車の後部につながる食堂車と郵便車をはずして中国境内に置いてから、ソ連の車体を幅一五二四ミリの広軌につり上げればよい。

国際列車に乗った乗客は、パスポートの検閲を受けてからは、下車して一服したり、プラットホームに設けられた売店へ買物に行ったりすることができる。

売店の看板に飾りつけたネオン灯がまばゆい。その中に入って見ると、朝鮮人とベトナム人の乗客数人が、ソファーに坐ってのんびりとタバコを楽しみ、二人のヨーロッパ人は、あのコーナーこのコーナーをひやかしてまわり、数人のロシア人は、懐中電灯、ナイロン靴下、刺しゅう入りのシーツ、玩具などの日用品を選んでいるところだった。

輸出入貿易は、「三本の足」によって進められているのである。駅の南側に見えた橋形クレーンは、今まさに、ソ連から輸入したカラマツとマツノキを、すぐそばの標準軌道に停まった中国の貨車に積み上げているところだった。

満洲里駅の夏(シア)駅長の話では、一九五〇年代には、この駅を通ずる中ソ両国の輸出入貨物は、毎月貨車五〇〇余両に達したが、現在では、わずかに一〇両前後であるという。

乗客たちは、満洲里駅でひと休みしてから、車に乗り込み、さらに目的地への旅程を続ける。列車が中ソ国境に着くと、停車して中国の辺境検査官から最終的な検査を受ける。

七〇メートルを隔てた哨戒所

国境に着いて目にふれたのは、「門」字形をした、二つのスチール製の辺境哨戒所で、鉄道をまたぐ形で立っている。一つは、中国、いま一つはソ連のものである。両哨戒所間の距離は約七〇メートル。こちらの哨戒所に立って眺めると、向こうの様子がありありと見える。

満洲里を発つ一日前、われわれは、哨戒所まで来て国境の眺めを楽しむ機会に恵まれた。哨戒所に登るとすぐ、ガラス窓越しに、ソ連国境守備隊の将校が一人、ソ連の哨戒所へ向かってくるのが目に入った。われわれのほうも、哨戒所へ行く途中、ソ連の哨戒所の兵士に発見されていたことであろう。してみれば、その将校は、兵士からの報告を聞いて駆けつけたのかも知れない。哨戒所にあがると、彼は、兵士の手から取った望遠鏡でわが方を観察しはじめたが、十分後、われわれが哨戒所から下りたときも、やはり望遠鏡を手にしたままだった。

われわれも望遠鏡で向こうを眺めてみた。ただ、肉眼で見えるのは、哨戒所に白く横に書いた“CCCP”のロシア文字と、その右下にセメントでさらに大きくつくられた“CCCP”の文字だけである。

それとはいささか対照的だが、多年来中国の哨戒所の横はりには、大きな字で“万国のプロレタリアート団結せよ!”とあるのみである。

所かわれば魚も…

さて、南下をはじめた列車は、激しい北風を浴びながら疾駆し、満洲里もすでに後方に追いやられた。私は心機一転を志し、こんどは注意力を車内に移した。

われわれの座席の向かいには、蒙古族の中年の夫婦と、その七、八歳の息子が坐っている。その男性は皮のジャンバーを着、皮の長靴をはき、がっしりとした体つきで、顔色がとてもよい。妻君のほうは、蒙古族の、金色のふちどりをした緑色の長衣をまとい、腰に黄色の帯を結び、フェルトの白い長靴をはいている。

また、われわれの筋向かいには、一人の若者が坐っている。彼は、まっ白い羊毛の帽子をかぶり、その帽子の右縁からはまっ赤なふさが飾りにさがっていて、いかにも青春を謳歌している感じだ。ダフール族の猟師らしい。他の国内線ではちょっとお目にかかれない同行者だ。


ダライ湖から捕れた魚。すでに天然冷凍されている。
ダライ湖から捕れた魚。すでに天然冷凍されている。

私が話しかけてみたところ、彼らはみな、満洲里一帯に住んでいて、ほとんどの者が海拉爾(ハイラル)まで、食品や日用品を買いに行くのだと分かった。ハイラルは、呼倫貝爾(コロルンバイル)盟(専区)政府の所在地であり、全盟の政治、経済、文化の中心地でもある。

彼ら牧畜民たちは、たいてい簡単な漢語が話せるが、ただ、ちょっとぎこちない。

旅は道連れとやら、お互いすぐ友達になれる。われわれは、すぐ彼らと何でも言い合う仲になった。彼らは根っからの客好きで、携えてきた奶茶(羊の乳と茶をいっしょに煮たもの)と発酵乳を出して、さあどうぞ、という。奶茶は、味はとてもいいのだが、その羊臭さがどうしても好きになれなかった。ところで、劉君と汪君はと見ると、さも美味しそうに飲みながら、「いける!いける!」としきりにほめている。

車内に乗客はまばらで、わずかに三、四十人、車両定員の半分にもなっていない。八、九人の牧畜民をのぞいて、他の多くは作業服を着た鉱山労働者と、通勤の労働者や職員である。牧畜民の話では、つぎの駅―札来諾爾(ザライノル)駅の近くに炭鉱と魚の罐詰工場がそれぞれ一つあるので、これらの人は、そこへ出勤するところだという。

通勤者のほとんどが手提げをもっているので、網棚は空いたままで、牧畜民の羊皮のオーバー、蒙古式の長衣と旧式の帆布の旅行袋などが、てんでに置かれているだけだ。網棚の下の衣類掛けのクギには、黒か黄の毛皮の帽子がいくつかかかっている。

列車は四十分ほど走ってザライノル駅に滑り込んだ。ザライノルとは蒙古語で、魚が肥えておいしいという意味であるという。どうりで、乗り込んでくる客が手に手に持っているのは魚ばかりだ。彼らは、車両の入り口まで来ると、踏み段を上る前に、魚を入れた袋を車内に投げあげてきた。その袋が車両の床にぶつかるごとに、カンカンと音を立てる。その音を聞いていると、魚はすっかり凍っているのだということが分かる。聞いてみると、気候が寒冷なため、魚は捕れると間もなく凍ってしまうのだという。車内は気温が高いので、魚が腐りやすい。そこで、彼らはみな凍った魚を車両の連結部のところに置いたのである。

前ボタン式の綿入れを着込んだ屈強な男性の話では、これらの魚はいずれも、付近の達賚(ダライ)湖で捕れたものだという。

ダライ湖とは俗称で、地図では呼倫湖(フルンノル)となっている。満洲里の東南から約四〇キロ離れたところにあり、面積は二三〇〇平方キロ余り、中国の比較的大きな湖の一つである。その美しい風光のため、昔から「フルンベル草原の明珠」とたたえられている。また、そこに産する鯉は、全身と尾の部分が黄金色を呈するので、地元の人は、「黄金の鯉の湖」ともよぶ。

冬になると、フルンノルは厚い氷で閉ざされる。人がその上を歩けるばかりでなく、トラックやトラクターも無事に通ることができる。魚捕りは、水面までの、一·五メートルほどを鉄の棒で砕氷してから、網で水中の魚を捕るのである。

フルンノルは魚の種類が多く、鯉、鰱(れん)魚、胖頭魚(パントウユイ)(鳙ともいい、鯉科の大魚)、白魚、ナマズなどが棲む。そのほか、狗(犬)魚と書くハンザキもいる。姿は犬に似てもつかぬが、その肉が犬の肉に似ているため、そう呼ばれる。


タバコの車内販売
タバコの車内販売

われわれはだれも、そのハンザキを食ったことがない。そこで、「どうして食べますか?」と聞いてみた。

「肉はなかなか、いけますよ。その肉をだんごにしてすいものに入れてもいいです。そう、餃子(ぎようざ)のあんにすると、こたえられませんな(賊美(ゼイメイ)!)。少しニラをまぜましてね」

その男性は気分よさそうに答えた。

「賊美(ゼイメイ)」とは東北地方の新しい方言で、北京人がよく口にする「没治了(メイヅーラ)」とか、「蓋了(カイラ)」(いずれも「非常に」とか「特別に」とかの意味)と同じらしい。記者も東北生まれだが、これまでそんな言い方を聞いたことがなかった。してみると、各地の方言というものもたえず生まれ、たえず変わっていくもののようだ。

食いしんぼうの腹の虫の仕業だろう、その人の話を聞くうちに私は、しきりとつばを飲み込みはじめた。

聞けば、蒙古族のあいだでは昔は魚を食べず、さらに捕ってもいけなかったという。魚を「神霊」として奉じていたのだ。そして現在も、彼らはやはり、魚を捕らぬという族内のタブーを堅く守っている。しかし、族外の人が捕って料理したものなら、すこしもらって味わってもよいのである。各民族や地域にはそれぞれ独自の習慣がある。彼らがハンザキを口にするのをおかしがってはいけない。彼らにとっては、私たちが魚を捕ったり食べたりするのが、同じように不可解なことであろうから。

ルービック·キューブが

列車がザライノルを発車して間もなく、私のいる九号車両の中ほどで笑い声が起こった。さて、何事だろうと、私が近寄ってみると、でぶでぶふとった中年の男性が、大勢の乗客に囲まれてルービック·キューブを解いているところだった。そのでっぷり氏は、色とりどりの小さな立方体をまわしながら、「ふん。こんな、子供相手の遊び道具なんか、朝めし前だ。二分もありゃ、六面全部そろえてみせる」と言った。ところが、五分間たっても、八分間たっても、額に汗をかくだけで、ただの一面もできない。彼のそばにいて、きれいな柄の綿入れを着た少女が、その様子を見て、

「おじさん、大変でしょう。あたしにやらせてみて」と言った。

「いや、いい。できないなんて、そんなことがあるもんか!」

でぶ氏は、憤懣やる方ないといった格好で、ルービック·キューブをさらにはやく回しだした。ギシギシと音をたてる。私は、小さなルービック·キューブが、彼の大きな手でねじこわされるんじゃないかと、心配した。しかし、そのルービック·キューブは、わざと魔法をふるって彼をからかっているようだ。どの面も相変わらず赤、黄、藍、白……と入り乱れて、いっかなそろおうとしない―。

あとになって分かったのだが、ほとんどの車両中で、ルービック·キューブや棒式のルービック·キューブがやられていた。この、外国からきた遊びがこんなにはやく広まっていようとはまったく予想外だった。わずか数ヵ月前、北京に出現したばかりなのに、もう、辺境地区の人もそれで遊んでいるのだ。

時間は人知れず流れてゆく。いつの間にか列車は嵯崗(チャガン)駅に入ろうとしていた。チャガンも蒙古語であって、「丘陵」という意味である。たしかに、このあたり一帯、山や谷が連なっている。

チャガン駅は、満洲里から五番目の駅である。満洲里からハイラルまでの間には、本列車一便しかない。そこでこの一帯に住む人たちの便利をはかり、ハルピン鉄道局は、沿線のどんな小さな駅にも停車することを決めている。こうして、二九〇番急行は、この区間では普通列車も兼ねているのである。

列車が十分ないし二十分おきに停車するので、われわれの沿線取材は、おかげで大へんうまく行った。

ナツメ色の馬と少女

列車がチャガン駅に停まって、すぐ私の目を奪ったのは、ホームにいる、緑色の蒙古族の長衣を着、ナツメ色の馬を引いた少女だった。私は、彼女がきっと恋人を出迎えに来たのだろうと思った。しかし、列車のドアが開いて、彼女へ向かって走っていったのは、布製の紫色の徽章を胸に、藍色の鉄道服を着た九号車両の女性車掌だったのである。顔を合わせた二人は、楽しげに手に手をとって何か語りあっているようだ。残念なことに、ガラス窓越しの私には何も聞こえない。

列車は、チャガン駅では三分間しか停車しなかった。二人の娘は、お互いにあいさつをかわし、懐かしそうに手を振って別れを告げた。

「お湯は、いかがですか。ありますか?」車掌さんは、重いヤカンを手にして声をかける。腕時計を見ると発車してまだ一時間あまりなのに、彼女は、もう二度も乗客にお湯のサービスに来た。

彼女は背はそう高くないが、すんなりとし、色白で、藍色の制帽の下に前髪が垂れている。

彼女は、順に、乗客の湯のみにお湯を入れ、乗車したばかりの乗客に会うと、いつもお湯で湯のみをきれいに洗ったあと、茶の葉を入れ、お湯をそそいでいる。その動作は熟練しており、疾走中の列車内でも湯を床にこぼしたりしたことがない。

「あの、いまさっき、馬を引いていた娘さんは、あなたのだれなんですか」私は、お湯を入れにきてくれたとき、聞いてみた。

「妹なんです」彼女は首をかしげてしなをつくり、笑いながら答えた。「妹さん?じゃ、あなたも蒙古族なんですか?」

「そうなの。似てますか?」彼女は、いたずらっぽく笑った。

ぼくの印象では、どうもあまり似ていないなあ、と思っているところへ、ちょうど列車長が八号車両からやってきたので、聞いてみた。


チャガン駅で列車を待つ通勤者たち
チャガン駅で列車を待つ通勤者たち

列車長さんの話。―彼女は于穎(ユイイン)といい、優秀な車掌で、ほんとうに仕事熱心である。どんな仕事をやるにも、いつも他人に負けないよう頑張っている。しかし、蒙古語と蒙古族の生活習慣を知らなかったため、これまで二度も恥ずかしい目にあったことがある。……

二年前のことだった。彼女は、食堂車で酒を飲んで座席に帰ってきたばかりの牧畜民に、お湯をさしだし、「同志、お水(ひや)をどうぞ」と言ったのだ。ところが、その牧畜民は、礼を言うどころか、コップを床に投げつけて、彼女をなぐろうとさえした。悔しさでいっぱいの彼女は、休憩室に戻り泣き出した。

それは、こうなのだ。蒙古族の習慣に従えば、「水を飲む」というのは家畜に水をやることをさし、人間には「お茶を飲む」と言わなければならないのである。列車長は「あの牧畜民は、馬鹿にされたと思ったから、怒ったんだよ」と説明した。

さらにもう一度は―列車が赫爾洪得(ホールホノデ)(チャガンの一つ前の駅)を出たあとのことだ。ある蒙古族のおばあさんが、孫が風邪をひいたので、お医者さんをよんでくれと于さんに頼んだ。しかし、于さんには、そのおばあさんの言葉が分からない。もし、一人の蒙古族の少女が通訳を買って出なかったら、その子供の病気はどうなっていただろうか……。

―といったことから、大きなショックを受けた于さんは、どんなに立派な気持ちをもっていても、それは完全なサービスとはならない、とさとった。それらのことがあってからは、彼女は、いつも蒙古族の乗客に言葉を教えてもらい、彼らの風俗習慣を理解しようと心掛けた。なかでも彼女を大いに助けたのが、あのドウリグルさんなのだ。

ドウリグルさんはそのとき十五歳、海拉爾中学で勉強した。いつも休み時間を利用しては蒙古族の日常用語をカードに記した。そして、それに漢語の発音を付けて、于穎さんに送ったのである。もちろん、これで、于さんの勉強もやりやすくなった。于さんのほうも、時間のゆるすかぎり、ドウリグルさんに漢族についての知識をさずけた。こうして、彼女たち二人は、姉妹のように親しい気持ちをもつようになった。

それから一年。中学を卒業したドウリグルさんは、故里のチャガンへ戻って牧畜民になった。于姉さんに会うために、頭のいいドウリグルさんは、いい方法を思い付いた。―于さんの乗務する列車がチャガン駅を通過するたびに、彼女は、ナツメ色の馬を引いて駅まで来、馬を杭につないでから、静かに待っているのである。……

その後、于穎さんがドウリグルさんに蒙古語を教えてもらったことにヒントを得た列車長は、時をうつさず、乗務員全体のあいだに学習活動を展開した。とくに満洲里税関の通訳を教師として招き、列車が満洲里駅を発車するに先立って、食堂車に集まっては一時間を勉強にさくのである。蒙古語の勉強に先鞭をつけた于さんも指導員として招かれた。また、ドウリグルさんが作った日常用語のカードをもとに、『蒙古語乗務服務百例』を本にまとめて、テキストにしている。このほか、つとめてサービスの質を向上させようと、列車長は、業余の時間を利用して、列車のコックさんや一部の車掌さんをつれて、蒙古包(ハオ)(移動式住宅)を訪ね、牧畜民の生活習慣を実地に勉強したりもしている。

その勉強の結果も実り、たとえば、牧畜民は、手扒羊肉(羊の骨つき肉)が大好きで、男性の多くは酒を好み、しかもその飲み方が漢族とはずいぶん違う、などといったこともわかったのだが、何分、列車ではいま朝食をとったばかりなので、胃に入ったものも、まだ消化しきれていない。といったわけで、つづきの話は、昼食の時に残こしておきたいと思う。

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